土産物
かなり昔の事で覚えていない。少なくとも置物は買って来ていないんじゃないか。エアーズロック(最近ではウルルと言うらしい)があまりにも暑くて、Northern Territoryのロゴが入ったTシャツと帽子を買った。
旅行サマリ
大学5年生の春、卒業旅行にして初めての海外旅行だった。英語を喋れるわけでもないのに、有楽町の東京交通会館の日本旅行の窓口に入って、KL経由のシドニー往復航空券を買い求めた。
行きたい都市を伝えると、電話帳よりもブ厚い航空機の時刻表(OAG)を渡されて、「自分で好きに選んでいいよ」と英語の時刻表の読み方を教えてもらった。で、シドニー→アリススプリング→ダーウィン→ケアンズ→シドニーと反時計回りに4都市周遊の国内航空券も買った。当時、国内線はAnsett航空だった。
何故オーストラリアを選んだのかと言って、英語が通じる国で治安がいい事が最大の理由だ。それと3月なので南半球なら暖かい。で、シドニーは明確なアテこそなかったが、砂漠のエアーズロックは外せないと思った。ビーチでゆっくりしたいのでケアンズも行きたかった。キャサリン渓谷とかカカドゥ国立公園で自然にも触れたいと思ってダーウィンも加えて計2週間の卒業旅行を計画した。
今にして思うと、既にこの初めての海外旅行で砂漠・ビーチ・ジャングルと自分の好きなジャンルを全て網羅していたのが特徴的だ。
尚、あまりに古い事なので、部屋に埋もれた写真を見つけ出せない。(失礼)
食べ物の記憶
シドニーではギリシア料理を食べたのが印象に残っている。ムサカだ。後年、NZのオークランド、カナダのバンフ、日本の六本木など他の国で食べたムサカは、いずれもトマトソースがたっぷりでラザニアこそ入っていないけどラザニアみたいな食感・味だ。
でも、シドニーで初めて食べたムサカは、ポテトとトマト味のひき肉やナスをパイ状に交互に重ねて、底と一番上をパイ生地で包んだしっとりした焼き物だった。食感は限りなくコロッケに近くて美味しかった。
<左: 2010年NZのオークランドにて>
<右: 2015年カナダのバンフにて>
20代の頃は、帰国した後でパイの生地を捏ねてシドニーで食べたムサカを自分でも何度か作ってみたものだ。ただ、残念な事に未だに本場のギリシアでムサカを食べる機会を得ていない。
旅の断片メモ
・マレーシア航空(MH)で飛んだ。今では考えられないけど、当時はMH機がKLクアラルンプールに到着する迄に台湾と香港にtransitしていた。香港は今でこそランタオ島に機能的なチュクラコップ空港が稼働しているが、当時は香港の摩天楼のすぐ上を低空飛行してカイタック空港(啓徳空港)に着陸していた。あまりにスレスレで飛ぶのが素人目にも怖かった。
※1990年頃はAF便でヨーロッパへ行くにも未だアラスカ経由だったので、アンカレッジでtransitタイムがあった。パリまで直行便になったのは一体いつの事だったのか。
・初めての海外旅行だったので、一泊目のホテルを予約していて正解だった。翌朝、シドニーの街に放り出された瞬間、自分はどうすればいいのかハタと困って立ち尽くしてしまった。丁度通りかかった韓国人に助けてもらい、一緒にバスに乗って郊外へ出た。そこに日本人留学生が沢山いて、そこで何人かと話した。それで冷静に戻ったみたいで、同じバスでシドニー市内に戻った後は、自分のペースで旅を作っていく事ができた。
・アリススプリングは砂漠の街。私は夕方に時間切れでNGだったけど、ラクダに乗る事もできる。ただ、当時の日本の大学生はアボリジニ(ちょっと失礼な言い方だけどみんなアボちゃんと呼んでいた)の生き方を理解できなくてみんな否定的に捉えていた。
・エアーズロックに登頂した。進入規制は無かった(どうやら2019年10月からホントに登れなくなるらしい)し、ゾロゾロと列をなして登った。異常に暑いので、登るなら朝か夕方かだ。あの一枚岩を登ると、頂上にノートが置いてあり、みんなで一言ずつ書いていた。卒業旅行シーズンだったし、その朝も日本人大学生で溢れかえって賑やかだった。なので、ドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」の世界観とはほど遠かった。あと、この辺りではハエがとにかくウルサイので衛生面も含めて要注意。
・ケアンズの海は綺麗だ。ただ、当時はシュノーケルとかダイビングなんて楽しみ方を知らなかったのでグレートバリアリーフの本当の美しさに触れられた訳ではなかった。残念。
・僅か2〜3泊だったが、ケアンズの治安は良くなかった。白人にタバコの火を手に押し付けられた。夜の外出は要注意。これまで5大陸延べ42ケ国を回ったが先進国で不快な思いをしたのはこの街だけ。
(2019年8月記)