祝・二俣線開通80周年
今年1月頃に、NHK「ブラタモリ」で浜名湖の特性(汽水湖)と養鰻(うなぎ)の関係を解説していた。今切なんて地名は久々に聞いた。それと天竜川が長い歴史の中で形作ってくれた砂州や浜堤にはびっくりした。その関連でちょっと想い出したので、昨年2019年5月に訪れた二俣線の転車台を紹介したいと思う。
国鉄・二俣線
二俣線とは国鉄時代の呼称であって、現在では第三セクターが運営している天竜浜名湖鉄道(天浜線)である。一両か二両編成で運行されている。運行本数は少なく、確か1時間に1本あるかないかだったと思う。大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台になった井伊谷(金指駅)もこの沿線にあって、気賀なんて地名もドラマに登場していた。
<二俣線、赤い車両は遠州鉄道>
JR浜松駅から遠州鉄道で終点の西鹿島駅へ、そこから掛川方面の二俣線に乗ると、鉄橋で天竜川を渡り二俣の街へ入る。天竜二俣駅で降りた。
天竜二俣駅
<鉄橋を通過、レトロな駅舎(4)>
駅のすぐ東側に全国的にも珍しい車両の向きを変える転車台があるので、見学する事にした。ガイドさんが1名、見学者が10名くらいだった。最初に目に入ったのが貯水槽。2~3m上に設けられていた。石炭火力を使っていた時代には、冷水で冷やす必要があったため、水を貯めておいたものだとか。
その向こうに、木造の平屋が2棟並んでおり、その間を通っていく。これは駅舎以上にかなり古めかしい。明治時代の建物じゃないかと思った。小説「坊ちゃん」のドラマのロケ地としてそのまま使えそうに見えたのだ。ただ、国鉄二俣線が掛川~新所原まで全線開通したのは1940年(昭和15年)であり、往時の風景なのだろう。
<貯水槽、木造棟の間を縫って歩いてく(3)>
窓越しに当時使用されていた風呂場が見える。そこらの温泉の大浴場よりやや大きいくらいじゃないか。これも、石炭を焚いて運行していたので、運転士が湯に浸かって汚れを落としていたとか。その向こうに、国鉄時代のプレートがいくつか置かれていた。かなり時代を感じるもの。
<風呂場の跡(2)>
そこを抜けると、いよいよ転車台が見えてきた。
二俣線の転車台
<転車台、車両が動き出す>
この二俣線、どうしてこんな内陸部を走っているのだろう、と疑問に思っていた。天竜の奥の方は森林資源に恵まれているけど。かつて鉱山があって栄えていたので龍山に芸者さんもいたなんて話も聞いた事があった。
で、ガイドさんの話を聞いて、二俣線の意味が分かった。戦争中に、太平洋側の主要都市はどこも空襲で被害を受けた。浜松もものづくりの街なので狙われる危険があったのだろう。しかも、浜松はその街自身の機能を重要だけど、東京と大阪を結ぶ東海道本線のルート状に位置している。万が一迫撃されて東西の交通が遮断された時の備えとして、掛川から新所原にかけて迂回路を作ったのだとか。だから、全線開通が1940年(昭和15年)と言う微妙な時期だったのだ。
さて、車両庫が5~6つくらい並んでいた。転車台からその車両庫それぞれに向けて放射状に線路が伸びていた。で、その反対側には二俣線の本線に通じる線路が1本スーッと伸びていた。これで、車両の向きを変える事ができる訳だ。
<車両庫(2)>
転車台はこんな感じ。ちょうど列車一両分が直径になる円状の構造物で、その外側に水色の箱(転車台の操縦席)があった。
<転車台(3)>
ガイドさんの話に合わせて一台の車両が車庫から出てくる。で、転車台にスッポリと収まった所でstopして、転車台が回転し始める。うーん、これが1940年から延々と80年間も使われてきているのか。水色の箱にヒトが入って動かしているのだけど、余りにも古いモノなのでどうやら交換用の部品がないとか。なので、九州のどこかの車両基地に丸ごと水色の箱を譲ってもらって、天竜二俣まで運んできたとか。第三セクターだけあって、とにかく財政的に厳しい事を何度もappealされていた。
<発進、回転(2)>
その奥には、またもや古めかしい「鉄道歴史館」があった。そこも見学コースに入っており、「空襲警報発令」なんていかめしい言葉が当時の字体で書かれていた。「引佐郡三ヶ日町」なんて10年くらい前になくなった地名がpaintされた駅名表示も残っていた。もしかして鉄道ファンにはたまらないのかも。
<鉄道歴史館(2)>
佐久米駅は現在の天浜線では浜名湖佐久米駅となっている。佐久米駅は浜名湖畔の集落で海水浴場が近い。先日コロナ自粛で偶々見ていたTV番組によると、今の上皇が皇太子の頃、昭和30年代の夏場に何度も訪れていたと言う。
<さくめ駅の看板(2)>