マリ共和国・旅行記(暫定版)

【2023年2月】改訂版作成のお知らせ

このたび「マリ共和国旅行記」を改訂しましたので、以下2つのページをご参照下さい。長くなっているため前半、後半に分けています。ネガフィルムを電子化しましたので写真も鮮明になっています。

旅行記の掲載に関するお願い

この投稿は西アフリカ・マリ共和国の旅行記です。旅したのは1999年なのでもう20年前。この旅行記は「2万字書いてみるように」アドバイスを受けて昨年12月に某所へ提出したものです。ただ、今年に入ってザックリと「面白くない」ってreturnが返ってきて撃沈! これからの扱いを考えあぐねています。

3名の友人に相談してみたのですが、自分には思い浮かばないアイデアも頂く事ができました。本当に感謝しています。なので、もう少し広く意見を伺ってみたいと考えて、draft版(2020.12時点)を弊ホームページに掲載するものです。

お読み頂いた上で「こうすればもっと面白くなる」、「こういう所がもっと知りたい」など、貴重なご意見を頂戴できればと勝手ながら期待を抱いています。不躾なお願いとなりますが、もしご意見を賜れるようでしたら弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。

Question/問合せ | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)

尚、この旅行記がdraft版であるため、この記事は一定の時期が経過した後で最新版にupdateする事を考えております事、併せてご了解下さい。

目次

マリ共和国に関するこれまでの投稿(3本)

1. プロローグ:マリの洗礼
2.なぜマリ共和国なのか 
3.マリ共和国とは 
4.ブラック・アフリカへ突入
5.セバレの星空
6.トレッキングの拠点、モプティ
7.ドゴン族の村を2泊3日でトレッキング
8.アフリカン・システム
9.マリの断面
10.エピローグ:次の旅へ

Appendix: 旅のこづかい帳

マリ共和国に関するこれまでの投稿(3本)

①訪問国別ページに概要と旅行準備タスクを掲載(2019年10月投稿)

マリ/Mali | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)

②マリ旅行の写真が見つからなくて捜索していた頃(2019年12月投稿)

マリ共和国(旅したのは20年前) | cx0293のブログ(登山やカヤック、海外旅行など) (ameblo.jp)

③マリ共和国で撮った写真を何枚かpick-up(2020年12月投稿)

1.プロローグ:マリの洗礼

空路でマリの首都バマコに着いた。タラップを降りてゲートに向かい、初めてイエローカードを提示する。イエローカードとは黄熱病の予防接種を受けた証明書である。検疫所の係官は確かに白衣を着ていたけどなんとも頼りない印象だった。
空港のメインビルは2階建てだったが、思いのほか閑散としていた。歩いているのは黒人ばかりだがそれほどの活気は感じられなかった。現地の人達はそそくさと迎えの車をアテにして外へ出ていくし、何ら手配していない日本人は取り残されてしまった。
他にサハラ以南の空港で乗降したのはウイントフック(ナミビア)、ビクトリアフォールズ(ジンバブエ)、ダルエスサラーム(タンザニア)くらいだ。首都もしくは実質的な首都であるダルエスサラームの空港は機能的に作られているが、バマコとビクトリアフォールズは日本の地方空港程度で小さい。極端な例を挙げると、パプアニューギニアのゴロカ空港ではテーブルすらなくて、屋外に無造作に積まれたスーツケースから自分のモノを探していた。まあ考えようによっては、サハラ以南のブラック・アフリカで空港の建物があっただけマシだったのかも知れない。

さて、昼間の国際空港なのに両替カウンターが全て閉まっている。どこで両替すればいいのかも分からない。最初の関門は両替だった。ただ、日本と違ってアジア・アフリカだと困っている人を放置しておかない。勿論、ホントに親切な人もいれば、なんとか日本人から巻き揚げようって輩も多い。カタコトの日本語でガイド志願の若者が近づいてきた。しきりにアピールしてくる。「日本語の紹介状を見せてやるから安心しろ」と言いながら、何度も折り畳んだり開いたりしてボロボロになった紙を広げてくれる。そこに書いてあるのは確かに日本語だった。
「こいつはダメ。ガイド料を思いっきり吹っ掛けてきた。これを読んだ後もそんな素振りを見せないようにして彼の傍から離れろ」
救いようがない文面だった。ブラック・アフリカの初っ端から危ない奴に絡まれるとは面倒だ。
彼からイスラム教の安息日だから金曜日は空港の両替所も休みだと教えてもらう。で、一緒に2階のカフェに行って両替を頼んでみた。トラベラーズチェックは扱っていないと云うし、米ドル・キャッシュもダメだった。米ドル・キャッシュが断られたのは過去にここだけだったと思う。他のアフリカ諸国でもたいてい米国の事を嫌っているけど、米ドル紙幣だけはみんな好きなのに。フランスフランのキャッシュなら両替できると云う。旧宗主国の面目躍如と言った所か。幸い、使い残しの100フラン札が一枚だけ手元にあったので、それで急場を凌ぐ事ができた。
さて、初めてのブラック・アフリカ、マリ共和国の旅は概略こんな行程だった。

2.なぜマリ共和国なのか      

(1)旅の因果は連続していく
サラリーマンにとって1つ1つの海外旅行は不連続だ。ある旅でビーチに行ったら、次は山でトレッキングするとか或いは砂漠が恋しくなって開拓してみるか。私の旅はそんな調子だ。写真やテレビに影響されたり友人の話しに興味を抱いたり、その直前に影響を受けたモノで、急に旅先が決まるケースが多い。ただ、西アフリカ・マリ共和国への旅は、トルコー香港―マリと結果的に彼の地に導かれるように繋がっていった。
ある年、キャセイ・パシフィック航空でトルコを旅行して香港経由で帰国する予定だった。香港での乗継時間は2~3時間だったが、イスタンブール国際空港でチェックインしたら、既に出発時刻が3時間遅延だと云う。マズイ、間に合わないぞ。でも、1日余計に海外で延長戦できるのはラッキーでもある。どうしようもない事は考えても無駄だ。
事実、香港チュクラコップ空港に着いた時には成田行きの飛行機は飛び立った後だった。トランジットエリアのスタッフに訊いて、翌日のフライトとその晩の宿(夕食・朝食・送迎付き)を手配して貰った。出社が1日遅れる事になるので上司の顔を想像するとちょっと落ち着かなかったけど、格安航空券でも乗り遅れて結構イイ思いができるものだと内心喜んでいた。香港は初めてだったが、その晩、尖東(尖沙咀東)から香港島に輝く夜景を眺めた。如何せん時間もなく、早朝のフライトも迫っていたので、それ以上は何もできず。
で、次の旅行ではその続きとして、香港を選んだ。香港と言えば、尖沙咀のネイザンロードに沿って立つ有名な重慶大厦(チョンキンマンション)がある。いかにも胡散臭いのがあのビル、そこに足を踏み入れた。1Fには両替商や商店、インド人のカレー屋などがあの雑多な空間に入り乱れている。コリアンダーやクミンなど香辛料の匂いも充満している。そんな中、そこの安宿を訪ねた。200香港ドル(約2800円)なので予約するような宿でもなく、小汚いエレベーターに乗り込んだ。恰幅のいい黒人が1人乗っていて、私の後に更にガ体のいい黒人が3名乗ってきて取り囲まれる感じだった。その黒人たちはみんな黒光りした精悍な顔つきをしているのでもしケンカでもしたら、たちどころにボコボコにされて骨が2,3本も折られてしまうかも。そんな予感がした。何かハプニングがあった訳ではないが、無言の圧力で体が硬直したのをハッキリと覚えている。そう、実際に襲われた訳でもなんでもないが、恐怖を感じた。でもこの感覚は克服したい、免疫を付けたかった。

(2)まだまだアルジェリアに入国できない
元々、私はアルジェリアに行きたかった。地中海沿岸のアルジェやオランの街もサハラ砂漠やガルダイアも行きたかった。オランは新型コロナ感染で一躍話題になったアルベール・カミユの小説「ペスト」の舞台になった場所だ。私はかつて、この小説を20才か21才の頃に病院のベットで苦しみながら読んでいた。重苦しい小説だと思い、もう止めようかと思った。「明けない夜はない」、「収束しない感染爆発・都市封鎖はない」と信じて今できる事を淡々と誠実にこなしていくしかない、って当たり前の結論をこの小説から得た。
でも、1992年頃の政変の後アルジェリアはずっと入国できない。元々、紹介状とか旅程表の事前提示などビザ取得が大変な国だったが、テロがあって治安が悪い。
私がマリを旅した後も2013年に同国のテロで日本のプラント建設会社の社員が犠牲になっており、まだ安全とは言えない。この数年ツアーなら催行しているけど、コストは割高になる。ただ、2019年にアルジェリア人の知人の誘いでアルジェリアを旅した日本人とお会いしてちょっと勇気を貰った。

(3)サハラ以南のブラック・アフリカに先乗りしよう
アルジェリアでそんな状況が続くなら、サハラ砂漠を跳び越して西アフリカに飛んで「黒人に免疫を付けよう!」と思い立った。アルジェリアと国境を接している国々だし妙な親近感が湧いた。かつて買って埃を被ったままの「地球の歩き方・フロンティア編―西アフリカー」(1990年出版)を漁ってみた。セネガル、ガンビア、マリ、モーリタニア、ブルキナファソなど6ケ国が載っていた。その中で観光資源が豊富なのがマリ共和国だった。で即決した。
ただ、問題はどうやって行くのか。はて、素人がそんなブラック・アフリカに行けるものなのか。と言うのも、「地球の歩き方・フロンティア編」は写真がメインで文字情報は少ない。でも、蔵前仁一の本「ゴーゴー・アフリカ」を読むと淡々とアフリカ諸国を旅している。とりわけ、ドゴン族の「ウマナセオ……」で始まる長い挨拶をしていく様がユーモラスかつのんびりしていて微笑ましいと思った。確かこんな感じだ。
「あなたは元気ですか?」
「はい」
「あなたのお父さんは元気ですか?」
「はい」
「あなたのお母さんは元気ですか?」
「はい」
「あなたのお兄さんは元気ですか?」
「はい」……
と長々と繰り返されるものだった。
それにTBS「世界ウルルン滞在記」でまだ無名の若手俳優がブルキナファソ(マリのすぐ南隣り)にホームステイして泥壁の家を楽しそうに茶色く塗っていた。なら行けるでしょ、そんな軽いノリでマリ行きの航空券を買った。
なので、黒人に免疫を付ける事が第一の動機であれば、泥で作ったモスクを見てみたいとか、ドゴン族の村をトレッキングしてみたいとか、それがブラック・アフリカに初めて足を踏み込む私の漠然とした思いだった。
でも、この旅に関しては決して暢気な気分だけではなかった。マラリアとか治安とか分からない事が多すぎた。できる対策はとったし、今更キャンセルしたらキャンセル料が嵩む。悩みながら出発の日を迎えてしまった。果たして無事日本に戻って来る事ができるのか?
尚、マリ旅行の準備に関してはコラムを参照。

(4)旅の極限値はマリ共和国だった
旅の遍歴の末にマリ共和国に辿り着いた訳ではない。若かった故かあっさりとサハラ砂漠を越えた。
最初の2ケ国は先進国の旅だった。3ケ国目は怪しい国インド、4ケ国目はアラブ圏のチュニジアだった。ただ、ちょうど英国に靴職人の修行に行っていた知人から「航空会社の手違いでロストバゲージ(トランク紛失)したから、水で増えるワカメとか酒とかいろいろ持って来て!」とhelpが掛かったため、急遽、英国に寄ってから地中海を渡って北アフリカのチュニスに入った。
マグレブ3国の中では、正直なところアルベール・カミユの生誕地アルジェリアか、パウル・クレー(画家である彼の作風に大きな影響を与えた)のチュニジアか迷った。1990年は後から考えると絶対にアルジェリアに行っておくべきだったけど、地球の裏側の政情なんて知る由もない。あの当時は、旅行計画書を作るとかビザ手続きが面倒って事でまずはスムーズな旅を選んだ。
で、トルコ、香港と歩いてみた。その次、僅か8ケ国目に選んだのが西アフリカの内陸にあるマリ共和国だった。今にして思えば、一気に旅の偏差値が上がって極限に辿り着いたようなものだ。これで、当初の旅の目標は達成できた。そう、シベリアとか寒冷地を除けば、どこにでも行ける自信が付いた。後はそうした国をヨコ展開していく意識も出てきた。
その後、プリミティブな国を訪問しているけど、やはりマリ共和国には敵わない。数年後にカメルーン(中央アフリカ)旅行を計画した事があるけど、情報不足で実現しなかった。まあ、情報不足なんて言い訳で、今にして思えば気合と気力が足らなかったんだろう。

(5)怪しい国を転々と
人から「どんな国に行くの?」と問われて、ザックリ「怪しい国」と答えていた。
「怪しい」って形容詞は、決してイカガワシイ意味ではない。戦闘状態の危険な国でもない。そんな国で生きて帰って来られる保証はないので、そこは私のテリトリから外れている。ただ、自分が鈍感なせいなのか、周囲の人が思うより私の許容範囲は広いようだ。
「怪しい」を他の言葉に換えると、旅しているうちにニヤニヤできるような楽しくなる国だ。英語でストレートに言えばプリミティブな国、原始的な暮らしが残っている国だ。
かつて、新宿西口に旅行代理店マップツアーのオフィスがあった。スタッフの半数が外国人で、中国人、インド人、ミャンマー人に担当してもらった事がある。中国人は押しが強くてテキパキと仕事を進めてくれた。ミャンマー人スタッフの名前はマウン・マウン・○○さんだったか、同じ音を2回も被せているくらいで、とても低姿勢で丁寧な人だった。インド人スタッフはストレートだ。いつも半笑いした緩んだ表情でニヤニヤしていた。マップツアーのスタッフを観察していると面白いし、次の旅行は誰に手配をお願いしようか早々に悩んでしまっていた。
そんなニュアンスで理解して貰えるとありがたい。例えば、日本人が欧米の大都市を旅行した所で、そんなに現地の人と喋る機会は多くない。こちらから道を尋ねるくらいじゃないか。それは寂しい。でも、怪しい国では日本人ツーリストを放っておいてくれない。
「どこに行きたいんだ。それともホテル探しか」
「ガイドするよ」
「一緒に食事しよう」
と誘ってくる。こうした関わりあいは煩わしい時もあるだけど、知らない国で向こうから積極的に距離を詰めてきてくれるのはありがたい事でもある。出たとこ勝負で旅している身としては、彼らのお陰でスムーズに旅できているのもホントの所だ。なので、インドだと毎日100人と話すのは躊躇してしまうけど、他の国ならどこでも、危険センサーが反応しない限りはなるべく自然体で接している。

3.マリ共和国とは   

マリ共和国は、西にセネガル、北にアルジェリアやモーリタニアと国境を接する西アフリカの内陸部にある。アフリカで8番目に広い国土を持ち、人口は2018年現在で1908万人とこの30年間で倍増している。
植民地支配の影響を受けて、マリ共和国も国中東やアフリカに特徴的な国境線を描いており、逆L字の形をした国だ。北部はサハラ砂漠になっており、多くの街はアフリカ第3の大河ニジェール川に沿って南部に連なっている。ニジェール川の上流から順に、西から首都バマコ、モプティ、黄金の都トンブクトー、ガオと続き、東隣りの国ニジェールに流れていく。モプティはバニ川とニジェール川の合流地点で、バニ川を少し遡ると月曜市で有名なジェンネがある。
北部は砂漠気候、何部はサヘル気候で半乾燥地帯にあたる。乾季は11~4月、雨季は5~10月だ。4~5月が最も暑く、サハラ砂漠からハーマッタンが吹く。私が訪れた9月は平均最高気温が32度で、幸い雨はパラついた程度で殆ど降らなかった。
宗教的には国民の90%がイスラム教徒である。バマコにもモプティにも泥で作られたモスクが立っているが、あの緩いカーブをミナレットと呼ぶにはいささか抵抗がある。尚、ドゴン族は全てのものに霊魂が宿っているとしてそれを信仰するアニミズムである。
この地域にはかつて13~17世紀にマリ王国、ソンガイ王国が繁栄していた。19世紀後半からフランスの植民地となったが、1960年にマリ共和国として独立を果たしている。そもそもマリとは原住民バンバラ族の言葉で「カバ」を意味する。動物園のカバはユーモラスな存在だが、実は凶暴な動物だ。かつて、モロッコ人イブン・バトゥータによる14世紀の旅行記には、ニジェール川でのカバ狩りが書かれているらしい。
近年では、過激派イスラム武装勢力が砂漠の民トアレグ族の居住地にも勢力を拡大した結果、2013年にフランス軍が軍事行動で対抗するなど緊張状態が続いている。外務省の危険情報によると2020年現在、国土の8割がレベル4(退避勧告)、残り2割もレベル3(渡航中止勧告)であり、観光目的で入国するのは困難である。

4.ブラック・アフリカへ突入

(1)アフリカ便はあまりに陽気で濃い一体感
まだあの頃はエキスパート揃いのマップツアー社(その後HIS傘下に入ったが新宿オフィスはもう10年くらい前に閉鎖済)を利用した事がなかったので、普通にHISのカウンターで航空券を手配してもらった。ただ、HISでそんなレアなチケットを提案してくれる訳もなく、最初に向かったのは南青山のエールフランス航空のオフィス。そこで国際線の時刻表を入手してチェック。で、「とにかくこの日のパリ―バマコの往復チケットを下さい」と押し切った。
パリのシャルルドゴール空港は、地下を潜って長いパイプ・エスカレーターで搭乗ゲートに向かう放射状のターミナル1が好きだ。マリ共和国の首都バマコに向かうのは波状の形をしたターミナル2だった。ただ、搭乗ゲートは2-A~2-Fではなくて端に建っていた別棟だった。2-Aの近くに宇宙船みたいな丸いドーナッツ状の銀色の建物があって、ここに入ると黒人が8~9割を占めていた。そこからバマコやコナクリなど西アフリカ各地に向けてエールフランス機が飛び立っていた。
エールフランス航空のスチュワーデス(当時の云い方)さんは白人だけど乗客の90%超は黒人。残りは白人だけで東洋系はおそらく私一人だった。乗客はほぼ真っ黒な状態で、もうそれだけで心の中は期待と興奮と不安でいっぱいだった。
当時、いくらエールフランスでも機内でシートごとにモニターが付いている訳はない。大きなスクリーンで映画を上映していた。それだけの状況なら、普通の機内ってみんな静かな筈。でも、それがエールフランス航空便でもアフリカ路線になると全く様子が異なる。スクリーンに映し出された映画を見ながらみんなゲラゲラ笑っている。それも、50人とか100人規模で声を揃えて笑っていた。英語が聞き取れない私はその笑いの輪に入れず、蚊帳の外だった。黒人の人達がみんな同じグループだった訳じゃないだろうけど、人間って楽しい時にはこんなに素直に笑うものか、とこっちまで嬉しくなった。
もしかして、マリ人はみんな陽気で楽しい人達かも、そんな期待を膨らませて首都バマコに降り立った。

(2)バマコ駅の裏手でヤミ両替
いよいよバマコ市内に入った。紛れもなく黒人ばかり、厭でもブラックアフリカに放り出された事を自覚して少し緊張する。いくらインド旅を経験していても、心理的な壁は厚い。街は猥雑だけど、決してデリーやバナラシのような人が雑多に湧いてくる感じはなかった。インドで喩えるとカジュラホよりも人出が多いくらいの賑わいだ。
空港でのヤミ両替の話は前で触れた通り。とは言え、100フランスフランは当時の為替レートで換算すると1,700円くらい。これでは旅できないので銀行を探すけど、店舗すら見当たらない。セネガルの首都ダカールから伸びているバマコ鉄道駅にも両替所は無かった。周辺は閑散としていた。20年振りに日記帳を開いてみると、金曜日の夕方だった。で、ここでも観光客を狙っている人が蠢いていた。
いきなり闇両替の洗礼だった。おそらく最初に声を掛けてきたのが使いぱしりの若者。上手くアレンジしてくれたようで路地に入っていく。でも、両替所に連れて行ってもらう途中で、取り巻きのマリ人が5人くらいに膨れ上がっていた。どうするのか?
そこに10人くらいの黒人が車座になって地べたに座っていて、そこの輪に入るように勧められる。で、ブクブク太った親分みたいな男から「いくら欲しい?」と問われる。トラベラーズチェックを見てもこちらを疑っているのか「トラベラーズチェックの購入控を出せ」と言ってくる。トラベラーズチェックを発行して貰う時に付いてくるペラペラの紙キレで再発行するのに必要なものだが、これまでそんなものを要求された事はなかった。で、ようやく2,000フラン分(約3.4万円)を両替して16万CFA(セーファーフラン)を戻してくれた。今にして思えば1フランスフラン=100CFAが公定レートじゃなかったの? それは頭の中で疑問に思っていたけど、初日だからまあ仕方ない。ここは我慢だ。
しかも、戻ってきた16万CFAから外枠でコミッションを徴収すると言うではないか。その額がなんと2.5万CFA。もう言うなりで払うしかないので払ったのだが、そこで事件発生。
最初に私に声を掛けてきた男は2次受けだった。その上に闇両替の1次受けが居て、その上が親分ってヒエラルキー構造だったらしい。で、その3者間の取り分で揉め始めたのだ。一瞬にして険悪な空気になったのはこちらにも判る。声を掛けてきた男が気を利かせて「お前には関係ないから、サッサとここを去れ」と促してくれた。別の男も「これがアフリカン・システムだ」と解説してくれたけど、もう~訳が判らない。

闇両替で大きく減損してしまった

(3)とにかくしつこい勧誘が続く
初日は延べ6人に絡まれた。それが、マリ到着の初日だった。空港と駅前の闇両替でも困ったけど、他にもいろいろ湧いてきたのだ。
空港からタクシーを拾ったけど、すかさずそこに乗り込んでくる男もいた。愛想はいいけど、シツコクなかったので市内に入ってすぐ別れた。
道に迷っていたら、ホテルまで案内してくれた男もいた。それだけなら親切なマリ人だけど、部屋にザックを置いて1h後にフロントに行っても彼は待っていた。で、夕食にも付き合ってきた。と言うか「ドゴン村トレッキングのガイドをする」の一点張りだった。性格的に良さそうにも見えたけど、やっぱりドゴン村観光の拠点モプティまでは、とにかく自力で行きたかったのでパスする。
もう一人、うっとおしい男が待ち構えていた。ホテルの主人だ。彼の主張も同じ。「ガイドを雇うならここバマコがオススメだ」、そんな話に1時間も付き合うのは大変だ。

(4)マラリアの恐怖
9月の西アフリカは暑かった。インドなら全然耐えられる暑さだったけど、ここはちょっと事情が違う。マラリアの汚染地帯なのだ。
マリに到着したその晩、部屋に入ってからも窓を開けていたので、蚊が入って来る。なので、何やっているんだろうと思いながらも、蚊を避けるために部屋でレインコートを着て皮膚を覆っていた。キンチョールもスプレーしたし、蚊とり線香も焚いた。どこでも吊れるのか判らなかったので、蚊帳は持参しなかった。生憎、初日の宿には蚊帳はなかった。やっぱりマラリアの恐怖があるので、素っ裸で寝るのは避けたい。ブラック・アフリカ初めての夜だったので、暑いのにベッドの上に寝袋を広げて寝る。
寝袋では顔を守れないので、東急ハンズで買った頭部ネットを被る。これなら蚊に襲われないだろう。でも、こんなの暑くて蒸すし、ぐっすり眠れない。
1時間くらい眠っただけで、寝袋(シュラフ)の中は汗びっしょりで湿ってしまった。当然ながらシーツもぐっしょり濡れていた。着替えては寝て、また一時間くらい経つとうなされて目を覚ます。これではもう、一晩中サウナに閉じ込められたようなものだ。しかも、シュラフと頭部ネットで蚊に刺されないようにしていたつもりが、何ヶ所も刺されてしっかりと痒い。
マラリア原虫を寄生させているハマダラ蚊は早朝や夕方に刺すと言う。しかも、他の蚊と違って尻を上に突き出した体勢で刺すと習ったけど、だいたい刺される瞬間を見ている事は稀だ。なので、これがハマダラ蚊に刺されたのかそれとも普通の蚊なのか、知る由も無い。とにかくマラリア原虫が自分の体に入っていない事を祈るしかなかった。勿論、マラリア原虫の卵がヒトの体内でふ化しても困る。
ようやく寝苦しい夜が明けて朝を迎えると、コーランが流れていた。土のモスクは当たり前のように立っているし、おお確かにここはムスリムの国だと実感した。

(5)アフリカン・ネームを貰う
インドの街中を歩いていると「お茶を飲みに行こう」とか「カシミール旅行がいいぞ」と終日インド人が言い寄ってくる。ただ、大抵のインド人はこちらが「ノー」と拒めばそれでスーッと去っていく。その繰り返しだった。
でも、マリでは要領が違う。1人1人の勧誘がかなりしつこい。しかも、必ず「お前の名前を教えてくれ」と食い下がってくる。他にもあれこれと聞いてきて 1人に10~30分くらい関わることになる。長距離バスに乗っている間中ずっと「ドゴンツアーのガイドをする」と繰り返す強者もいた。
私の名前は9文字と長い。今でこそ英語圏だと「タロと呼んで」と伝えているけど、まだまだ拙い旅行者だった当時はそのまま「タロウ・ヤマダ(仮名)」と名乗っていた。マリでもそんな挨拶ではスッと相手に理解して貰えない。日本語の発音には抑揚がないし、英語やフランス語のリズムと合っていない。
何人かが入れ替わり立ち代わりドゴン村トレッキングを勧誘してくる内に、ある男が「そんな名前は判りにくい。お前にアフリカン・ネームを付けてやる」と言ってきた。
「マリでのお前の名前は『ママドゥ』だ!」と宣告された。
はっ? ママドゥって何? ママって女性の名前じゃないの? と思ったのだがまあいい。確かにごちゃごちゃ自分の日本名を名乗るよりも、短く「ママドゥでーす」と言い切ってしまう方が話しも早い。
後日、バラエティ番組でTBS「ここがへんだよ日本人」を見ていた。あのベナン共和国のゾマホンが有名になった番組だ。そこに、マリ共和国のミュージシャンが登場していた。なんと、彼の名前が正しくママドゥだった。なので、きっとマリの鈴木さんや中村さんに相当するのがママドゥさんなのだろう。それぞれの国で発音しやすい音があって、きっとママドゥが彼らの感性にあったリズムなのだろう。それは英語の「スズキさん」、「ナカムラさん」が英語圏の普通のイントネーション(日本人としては明らかにオカシイけど)になっているのと同じ事だろう。
このアフリカン・ネームはマリの旅でも重宝したけど、後年アラブ諸国を回るのにも結構役に立った。ここでは自分からアラビアン・ネームを名乗ってみた。モハメットだと発音が悪いのか現地の反応が悪く、ムハンマドも微妙だった。なので、タクシーの運転手がハッサンさんだったのに倣い、私もそれ以降はハッサンで通してみた。ハッサンは日本人でも抵抗なく発音できる。驚く人もいれば、素直に喜んでくれる人もいた。ヨルダンのペトラ遺跡で仲良くなった人達には「私が日本名をあげよう。あなたはスズキさん、あなたはタナカさん」っていうと、より新密度が増した感じだった。別れ際にロイヤルヨルダン航空の帽子を被ったアラブのオジサン3名と一緒に写真を撮ったけど、みんないい笑顔で写っていた。

5.セバレの星空

(1)長距離バスを探す
わざわざ西アフリカのマリに出掛けるような旅人は少ない。観光地は限られているので、首都バマコ、月曜市が立つジェンネ、黄金の都トンブクトゥ、それとドゴン村トレッキングのゲートとなるモプティモプティくらいだと思う。なので、マリ人達も外人を見つけたらみんなドゴン村に行くものと決めてかかって勧誘してくるので大変。
サハラ以南のアフリカ2日目、とにかく先を急ぎたいので、モプティ行きのバス乗り場へ向かう。バスターミナルの事をフランス語でガール・ルティエールと呼んでいた。ガールは駅を意味しており、空港を意味するアエロガールと同じ語感だ。先ずは市内の乗合バスで長距離バスターミナルに向かう。後部座席に向い合せで10人くらい座るタイプの幌つき軽トラックだった。運転手に「バス停で降ろして!」って頼んだけど怪しそうだったので、向いや隣りに座っている黒人のおばちゃん達に「ガール・ルティエールで下りたいんだ」と伝えた。想像通り乗合バスは無視して郊外へ向けて突っ走るので、おばちゃん達が大声で叫んで車を停めてくれた。本当にメルシー。
マリはテレビで見るアフリカの映像と同じだった。歩いているのは99.9%が黒人だ。20年くらいは使い倒したようなバスが何台もあって、黒人ばかり黒山の人だかりができているような状況だ。だいたいどのバスがいつどこへ出発するのか、聞き続けるしかない。モプティ行きは午前9時出発だと言う。でも、そんな訳はなくて1~2時間は待っていた。要は満員になってようやく出発なのだ。

(2)賑やかなモプティ行き長距離バス
バマコ市内を出ると、車窓から見える自然は豊かだった。乾いた赤茶けた土地ばかりではなく、樹木は青々と育ち草地も多かった。水溜りなのか遊水地なのか池もそこかしこにあって、黒人達が水遊びしていた。ラクダみたいに背骨が突き出た痩せこけた牛が放牧されているのも見えた。これが初めて見るサバンナ地帯の風景だった。
でも車内でノンビリできない。またも勧誘が始まる。「おまえ、どこ行くのか? ドゴン村の案内するよ!」。またこれかぁ~。それがインドだったら「ノー!」の一言で終わり。彼らも次の観光客を探しに行ってくれる。でも、アフリカだと観光客の絶対数が少ないし、1人1人の勧誘がシツコイ。狙った獲物はそう簡単には離さないって事だ。彼は既に別のお客さん(小柄な日本人女性2人組)を捕まえていたのでもう十分だと思うのに、延々と勧誘してくる。「いくらなら払うか?」と迫ってくるが相場が判らないのにヘタな事は言えない。結局、同じバスに乗ってその日の23時くらいまで、ガイドの押し売りが続いた。
マリ人のテンションは確かに高い。純朴なキャラは長距離バスでも露骨に表れていた。長距離バスは当然中古だ。でも窓ガラスは全部嵌まっていたのでまあ上等な部類だけど、決してスピードが出る訳じゃない。でも、そんなバスが他の長距離バスに追い抜かれると乗客の黒人たちはブーイングを飛ばす。「抜き返してヤレ!」と運転手を煽る。こんな煽り運転もあるのかと思ったが、運転手だってそんな圧力が加わったら負ける訳にはいかないのでアクセルを吹かす。で、今度はこちらが追い抜くと、社内は一気に盛り上がる。こういう子供みたいな素直さは、もう日本人にはないな。忘れた訳ではないけど、それを発露する場は限られている。サッカーとかスポーツ観戦で応援しているチームが反撃している場面で一気に盛り上がっているのも、こんな事の代償なのかも知れない。

(3)バスは目的地へ到着しなかった
途中トイレ休憩で停まると、物売りの少女達がバスの外から熱心にアピールしてくる。食べ物だと、りんご、キンコウリ、ファンタ、ビニール袋に入った冷たい水、ライム、落花生、とうもろこし等が売られていた。
私の父が定年を過ぎてから、畑を借りて野菜をいくつか植えていた。夏の終わりになると、きゅうり、トマト、黒豆などを収穫していた。その中に、キンコウリもあった。大きさはプリンスメロンを同等で、色は鮮やかな黄色をしていた。一見すると美味しそうだけど、何度食べてみても固い果物だった。キンコウリは日本で見た事がなかったが、まさかこんな西アフリカの地でお目にかかろうとは思ってもみなかった。
ビニール袋に入った冷たい水は絶対に危ないと思う。でも、暑いのであれが飲みたくて仕方なかった。日用品だと、ティッシュ、カセットテープ、子供のおもちゃ、旗状のうちわなどを売り込んできた。旗上のうちわは竹を軸にして、扇ぐ面は20センチ四方に織り込んだ畳の生地が括り付けられていた。会社のみんなへのお土産として、これを10個くらい買った。太ったオバちゃん達も混じっている。オバちゃんの服はアフリカンデザインでとってもカラフルだ。ぶくぶく太っているとあのダイナミックなデザインが結構似合っている。
ランチタイム休憩があった。直ぐに食べるのではなく、じっくりと様子を観察してみた。まだマリの流儀が判っていないのだ。食べ物を洗面器に配膳している。戦時中の配給とか炊き出しもこんな感じだったのか。ライスを持った洗面器の上に、汁物の器をベッタリくっつけて提供している。衛生的に大丈夫なのか、どうしてもそんな心配が先に立ってしまう。他の人は、ライス皿の上にドンとポテトの皿を乗っけられていた。
そう、10時間のバスは10時間では到着しないって事。しかも、バスに不具合があったようでモプティに着かなかった。少し手前のセバレ村で止まってしまったのだ。そこで1泊する事になった。みんなは何食わぬ顔で下車していくけどアテはあるのか。はて自分はどこに泊まればいいのか。ずーっと12時間もシツコク勧誘されたのには参ったけど、ガイド氏がこのバスに同乗していたのはラッキーだった。

(4)停電しているから夜空は綺麗
セバレ村には殆ど目ぼしい灯りもなく、23時くらいに降ろされてバイクタクシーなんてあるような街でもなく焦った。でも、そのしつこかったガイドさんの後をトコトコ付いていき、同じホテルに泊まる事にした。夕食をどうしたのか覚えていないけど、とにかく停電するホテルだった。なので、部屋にザックを置いて、缶ビールをゲット。「屋上(と言っても2階だけど)で呑むビールは美味いゾ」と勧められて、椅子を持って上に向かう。確かに満天の星。近所にポツポツとほの暗い灯りはあるものの、なんせ停電しているホテルなので、星は一段と綺麗に輝いていた。

(5)軽トラの荷台に乗って
夜中に到着したセバレ村。どうも鶏の鳴き声が日本と違う。コケコッコーのイントネーションが違うのだ。朝、この街の様子を知りたくて散歩してみた。かなりプリミティブな風景だと判った。泥壁の家が続いており、木々もあったので緑も豊か。昨夜は灯りがかすかに点いていたので屋台が並んでいると思ったのだが、朝にはそんな気配は全くなかった。桶で洗濯しているお母さん達と、その近くで遊んでいる子供達。彼らに「サバ ?(元気?)」と声を掛けてみると、見慣れないであろう日本人に対して元気に「サバビエン(元気だよ)」と答えてくれる。モノ心が付くと警戒心が出てくるだろうけど、まだ幼い子供達なので表情は温和そのものだった。朝食の用意なのか、お母さん達がミレットを杵で付いていた。ちょっと体験させて貰った。のどかなものだ。
本来なら昨日のバスで一緒だったガイド志願のババに付いてモプティまで行くのが無難だ。ただ、それだと今日もまた終日しつこく勧誘される。ババは日本人女性2人のガイドを担っているのでもう一人増やした方が絶対にトクだ。こっちとしてもそれに乗るのが絶対にラクだ。でも自分の旅は自分で作っていく主義なので、モプティでガイドを頼みたかった。セバレからモプティまでどの程度の時間が掛かるのか判らないけど、少なくともバマコから丸半日バスで走ってきたのだからそんなに遠くないだろう。物売りの少年に頼み、タクシー・セッション(長距離バス乗り場)に行く。彼は重たいおでん屋の屋台みたいな車を轢きながらそこまで案内してくれた。
昨夜のホテル・ウジスのスタッフといい、彼といい親切な人は居るものだ。でも、どのブッシュ・タクシーがモプティ行きなのか判らず、順に聞いていく。ようやく見つけて軽トラックの荷台に乗り込む。こういうのは客を積めるだけ積み込まないと発車しない。どれくらい待っただろうか、とにかく走り出した。荷台ではガ体のいいオバちゃんがしきり喋っている。赤茶けた土と時おり緑の湿原を見ながらモプティに向けて走った。風を切って走っていくのが気分いい。日本では軽トラの荷台に乗っていくなんてありえないけど、タイとかラオスなんかでもこんな旅をしたものだ。

6.トレッキングの拠点、モプティ

(1)バニ川沿いの村モプティ
モプティの村を歩いてみた。これがまた良い。首都バマコは人が多くごみごみしていたけど、こちらは程々。バニ川が流れていて、その向こうは湿原になっていたので、気分的にものんびりできる。
先ずは泥壁のモスクを目指す。木材の柱が泥壁から突き出ていて、およそ宗教的な建物には見えない。いざモスクに入ろうとしたが、流石にコーランを暗記している訳でもないしムスリムではないので入口で叱られた。でも珍しい旅人に子供達が群がってきた。擦り寄ってきて、カメラを触りたい子もいれば「マネー、マネー」と手を差し出してくる子もいた。
でも、「サバ?(サバ?)」と聞くと、みんな元気に「シャバ」と答えてくれる。
モスクの隣りの家の子供が手招きしてくれる。5人兄弟で、彼らと一緒にお宅拝見。屋上に行ってくれた。そこでモスクの写真を撮らせてもらう。子供達はカメラに興味深々。1人が撮ると、次から次に回されていく。まだ触っていない女の子が怒り出したり大変。こっちとしても、今のデジカメなら10枚くらい無駄にしても構わないけど、当時はまだ36枚撮りフィルムを3本くらいしか持っていなかったので、一枚一枚が貴重だし、事態の収拾にちょっと手を焼いた。
他にもモプティの村を歩いていると、プリミティブな光景があれこれ目に入ってくる。木陰で、先生と思しき人が木の板にアラビア文字を書いて、10人くらいの子供達が一塊になって勉強していた。バニ川の川幅は広く、ピログ、ピナス(いずれも川舟)が泊まっていた。川岸で体格のいいオバちゃんがこっちを見て笑い出す。こっちはどうして笑われたのか判らなかったけど、東洋人が偶にこの街まで来るってことだろう。
錆びた鉄枠のランプに銀を上塗りして道端で売っている職人さんもいた。アラブ諸国だとオールドマーケットに店を構えているけど、ここでは店もない。トアレグ族の遊牧民が、土産物のナイフやお守りを見せてくれた。盛んに「買え買え」と言ってくる。「歩き方」に載っていた岩塩の板も道端に転がしたまま売っていた。畳一枚と同じくらいの大きさだった。
古い木を売っていたけど香木なのか。菜っ葉など葉物野菜も売っていた。洗面器とかプラスチック製品はとにかくカラフル。ビーチサンダルも沢山並んでいた。日本だとポリバケツは青色とか決まっているけど、いろいろなものを売っていた。「歩き方」からイメージしていたのは、マリ王国とかソンガイ王国が栄えていた500年以上前と大して変わらない暮らしをしている事だ。でも、実際にはそこで進歩が止まっている訳もなく、村には活気があった。
マリではホテルやレストランでもヤモリを見かけたなあ。ホテルカンプマンの部屋にもいたし、どうにも気になる。ドアの上下にガムテープを貼って防御したけど、そもそもドアが壁をくり抜いた部分よりも一回り小さいので、ヤモリはヤスヤスと侵入してくる。だから、ハマダラ蚊だって防ぎようが無い。キンチョールは虫に吹き付けるモノだけど、蚊が寄ってこないように自分の腕とか足にスプレーしていた。

(2)ドゴン村トレッキングの契約交渉
おそらくココがマリ観光のハイライト。なので、バマコからモプティへの長距離バスで会った男もしきりに「ガイドする」と勧誘してきた。モプティに着いてからも同じ。また別の男にしつこく「ガイドするゾ」と誘われる。
で、別の男に依頼する事にした。ホテルカンプマンの4人席のソファに向かい合って座り、交渉がスタートした。英語を喋るのは一人だけで、彼とどんなトレッキングができるのか確認していく。
・2泊3日くらいで歩きたい
・1日に何時間くらい歩くのか
・トレッキングルートはキツイのか
・誰が食事を作ってくれるのか
・飲み物は持参するのか、それとも村で手に入るのか
それを、他の2席にもそれぞれマリ人が座って黙って成行を窺っている。そのうち1人は実際にガイドしてくれた男だ。英語が喋れない訳ではないけど、交渉事には一切入って来ず静かに聞いていた。もう1人はニジェール川のボート・ツアーを勧めてきた男で、船頭さんだ。ボート・ツアーもいいなと思ったが、そんな余裕はなかった。その周囲にも何人か珍しい日本人の事を観察してくれていたんじゃないか。
彼らは何でも「インクルード(含まれている)」とか「大丈夫」と言ってくる。なので調子に乗って「ビールもインクルードか?」と訊くとそこだけは「ノット・インクルード!」と強く否定してくる。インクルードって言葉はこの旅で頭にこびり付いた。どれくらい話しただろうか、話が纏まった時には300米ドルくらいだった。ホッとして「ところで、ドゴンの踊りは見られるか?」と聞くが「エクスクラウド(別費用だよ)」だと返事がある。それだけで別途200米ドルくらい要求された。なので、2泊3日のトレッキングが概算5万円になったのだ。
これで決着したのだが、ここからが面白かった。A4の紙に手書きの簡単な記入フォームがあって、その左半分にツアーの内容、双方の名前、署名、日付とかを記入していく。書き終わったら、右半分にも同じ事を双方で書き込んでいく。ツアー内容や金額は彼が、顧客欄の署名はこちらで書く。双方で、左右に書かれた内容が同一だと目視で確認した上で、ビリビリっとタテに紙を破る。片方を私が、残りを相手が保管する事で契約成立となった。そっかあー、カーボンコピーが無かった時代には、こうやって約束していたんだ、と感心した。
次が支払い。私は旅行の前後に半額ずつ支払った記憶だったが、ノートにはこう書いてあった。いずれにせよ、契約を完全に履行するまで全額支払わなくてもいい、ってのは、決済としてあまりにも新鮮で誠実な印象を受けた。ヒトってプリミティブな時代にはこんな習慣・行動原理で動いていたのだろうか、と思いを馳せてみた。
契約日: 2.5万CFA
ツアー初日:  12.5万CFA
ツアー最終日: 10.0万CFA

(3)まだ乗っけるの?
その後で、畳みかけるように出てきた話がある。契約交渉は相手の方がずっと上手だった。
ドゴン族の酋長(オゴン)に会うのだから手土産としてコーラナッツの実を土産に買っていけとか、水を6本買うから追加チャージが必要だとか。うーん、よく判らないけど、それって全部インクルードじゃなかったの? もう交渉する気も失せていた。最後に交渉役の隣りに座っていた男がガイドだと紹介された。
このツアーが高いか安いか、ドゴン族の踊りの代金を除いて約3万円で比較するのがスジだろう。後年、タイのチェンマイの山岳民族の村2泊3日トレッキングで3,800バーツくらい(当時の為替で1万円くらい)だったのでやっぱりボラれているのは事実。ただ、アジアとアフリカで根本的に異なるのは、アジア旅って1日ずれていてもおそらく同じような旅ができると思う。おそらく大ハズレはない筈。でも、アフリカはツーリストそのものが少ないだけに1日ズレてその街に到着したら、全く別の旅が繰り広げられる可能性の方が高いと思う。だから、それで是とするしかない。それと、マリはソロ対応なのに対して、チェンマイではカナダ人を含めて計4人のツアーだった。
ようやく契約が終わったと思ったら。次は警察に行こうと促される。ドゴンの村に行くには許可が必要らしい。パスポートにポリス・スタンプを押印してもらった。正直に言うとこれもどこまでホントなのか疑わしい。後年ネパールでトレッキングした時にも同じような手続きがあったけど、わざわざパスポートを開いて押印したのはマリだけだな。もしかしてコミッションと言う名のバクシーシだったのかも知れない。
さて、どんなトレッキングが待っているのか、楽しみだ。

7.ドゴン族の村を2泊3日でトレッキング

3日間のトレッキング・ルートは以下の通り。私が2泊3日の旅で歩いたのはバンディアガラの断崖のごく一部だ。マリとブルキナファソの国境沿いに20前後の村々が点在している。
初日:パジェロでバンディアガラ村へ → ジキボンボ村(ランチ) → カニコンボ村 → テリー村(泊)
2日目:テリー村 → エンデ村(ランチ+ダンス) → ヤタバル村(泊)
3日目:ヤタバル村→ ベニマト村(ランチ+川遊び) → パジェロでモプティへ戻る

(1)ドゴン族とは
人口は25万人。20年以上前の本には30万人と書かれていたので、現在では人口減少している。彼らはアニミズムを信仰しており、独特の仮面の踊りを舞う文化を持っている。
死者を宥めるために作ったのが仮面の始まりだと言う。同様に、狩人が獣を仕留めるたびにその動物の仮面が増えていったと言う。ものの本によるとシカ、サル、ウサギ、ゾウ、カモシカ、ロバ、ライオン、チーター、ハイエナなど仮面には多くの種類がある。ただ、現在のサヘル気候の乾いた西アフリカの大地を歩いても、こうしたサヘル地域に棲息する動物が多く隠れている印象は受けなかった。もう1つドゴンの踊りに欠かせないのが赤い腰蓑だ。首や腕にも同じものを巻き付けている。太古の祖先と大地が交わりをかわした際に流れ出た血が元になり、赤い腰蓑ができたのが起源だと言う。
ドゴン族の村には、建物の構成と家の中の位置にフラクタル状のルールがある。それはヒトの形をしている。村の中ではこんな配置になる。住居は中心部(胸部)に長老一族の家、頭部に鍛冶小屋と集会所、左右の手の位置に女性の家、下腹部に男女を象徴する祭壇と石、左右の足の位置に社や祭壇がある。また、家の中でも同様に、中心部(腹部)に寝室があり、頭部に台所、目を意味する明かり取り兼排気口が2つ、右腕に男の倉庫、左腕に女の倉庫、両足が玄関で扉には祖先の仮面と同じ模様が彫刻されている。
尚、この項は「地球の歩き方 フロンティア編・106西アフリカ」(ダイヤモンド社)を参考にした。

(2)ドゴン村トレッキング・初日
●赤茶けた大地
モプティの街からサヘル地帯を抜けていく。女性達が頭の上に布を挟んでその上に器用に大きな水甕を乗せて歩いている。テレビの紀行番組で見た光景そのままだった。おー、とうとうアフリカの大地にやってきたと改めて実感が湧いた。車で1~2時間くらい走っただろうか。何にも無い荒地で下ろされた。サバンナでもない、土埃が舞うような乾いた土地だった。そこからガイドと共に2泊3日のドゴン村巡りの旅が始まった。
最初はその乾いた大地をガイドと2人と歩き始める。かなり暑くて直ぐにのどが乾く。まっすぐ続く道だったが、道幅3メートルくらいなのか、道路の端にブロックを並べていく作業をしていた。もしかして今頃この土地を訪ねるともしかして立派な舗装道路が完成しているかも知れない。まあ個人的にはプリミティブなアフリカはいつまでもそのままであって欲しいな。
しばらく歩くとジキボンボの集落に着く。賑わいがあるような村ではない。泥壁の民家が10軒ほど立っているくらいの小さな村だった。子供達は自転車の輪っかを枝で転がして遊んでいた。途中の道を歩いているのは女性ばかりだったが、村に入ると男性しかいない。もしかして、女性だけが働いているのか。
むさくるしい顔つきの男が、バケツに盛られたコカコーラの瓶を10本ほど持ってきた。スプライトとかファンタもあった。バケツに水を張って冷やしているだけなので、ギンギンに冷えている訳ではない。それでも、喉が渇いているので美味しかった。しかも、一気に2本も飲み干した。
「オール・インクルード」の契約だったのでそのまま立ち去ろうとすると話が違う。1本500CFAだと言う。「えっ、インクルードじゃないの?」と問うと当然のように「対象外だ」と返される。まあ飲んでしまったものは仕方ない。2本で1000CFAを支払う。

●世界遺産・バンディアガラの断崖
更に真っ直ぐに歩いていくと崖地に出た。崖下には遠くの方にサバンナ地帯が広がり緑も広がっていた。その崖を降りていく。断崖を降り切るとそこにドゴンの集落があった。カニコンボの集落だ。こっちはジキボンボ村より大きい。
休憩してまたトレッキングを続けていく。村はずれには林と呼べるほどではないけど木も生えていた。小さな川も流れていた。水はけが悪いのか、トレッキング・ルートに大きな水溜まりがいくつもあった。ガイドや村人たちは、みんな裾をまくり上げて、ズボズボとお構いなく水溜まりに浸かりながら進んでいた。ただ、アフリカの澱んだ水にはなんとか吸血虫が潜んでいるとか聞いていたので、できる事なら濡らしたくない。窪みに木を渡してある訳でもないので、已む無くジャンプして越えていく。何度もジャンプしている内に体勢を崩して、肋骨(orその周囲の軟骨)を損傷した。なので、歩くのにちょっと胸元に痛みが出てきた。ただでさえアフリカン・ナイティブとひ弱な日本人では歩く速度も違うのに、そんな事をしているとついつい遅れがちになっていった。

●テリー村で寝泊まり
夕方、ようやくこの日寝泊りするテリー村に到着した。村は崖にへばりつくように泥壁の家が立ち並んでいた。その数100戸くらいあっただろう。泥壁の家は民家もあれば、穀物を保管しておく倉庫もある。中は4つに仕切られていて、上から収穫した穀物を入れるのだと説明を聞いた。
ガイドに「オゴン(村の酋長)に挨拶に行こう」と促された。断崖に沿って登っていくと、崖に皺くちゃの老人が杖を持って座り込んでいた。彼がオゴンだ。ガイドが私を紹介しつつ、持参したコーラナッツの実を渡すと、村長は笑顔で迎えてくれた。コーラナッツの実はクルミのように固かった。何が貴重なのかサッパリ判らなかったけど、まあいい。「一緒に写真を撮りたい」と頼んだが「撮りたければ子供の写真を撮ればいい」と却下されてしまった。オゴンにどんな宗教的なパワーがあるのだろうか。
この日はこの村の民家に泊めてもらった。晩飯はガイドが作ってくれるのかと思いきや、そのお宅の奥さんが用意してくれた。チュニジア料理のクスクスだった。あのパサパサ感は好きじゃない。ビールを飲みたかったけど、「ドゴン村のトレッキング中に冷蔵庫もビールもない。我慢だ」と退けられてしまう。
で、驚いたのがベッドだ。なんと、広い中庭に木の枝で編んだベッドが3~4つ並んでいてそこで寝るのだ。木の枝の上に寝袋を敷いて包まって寝る。見上げれば満天の星。マリは夜でもそんなに寒くなく、気持ちよく床に就いた。星を見て眠るなんてなんという贅沢か。夜中にトイレに起きると、狼の遠吠えが聞こえた。ワイルドだ。でも、日本のクマ騒ぎのように恐ろしいトラブルはないのか、遠吠えを聞くと怖い。サヘル地帯とサバンナ地帯の境目辺りだから、もしかして他にも野生生物が住んでいるのかも知れない。いろいろな国を歩いたけど、こんなワイルドな夜は初めてだった。

(3)ドゴン村トレッキング・2日目
●テリー村の朝
翌朝、女性たちが集まって杵でミレットを付いている。「写真を撮ってもいいぞ」と言ってくれたので、素直に撮らせてもらう。すかさず「おカネちょうだい」と人を喰ったような笑顔で言ってくる根性は大したものだ。
そんなやりとりをしていたら、便意を催してきた。はてトイレはどこか。衛生的なのか気になるし我慢できるものなら我慢したかったけど、そうもいかない。もしや朝食のバケットに蟻が何匹も纏わりついていたのがいけなかったのか。
村人に促されて村ハズレに行くと、なんとドアがない、天井もない青空トイレだった。高さ2メートルくらいの泥壁で囲まれている広さ8~10畳くらいの空間だった。その下に大きく穴が掘られているのだろう。大きな鉄板が被せてあり、その真ん中に10~15センチ四方の穴が開いていた。要するにそこを目掛けてボットンするって事。
日本の田舎でボットントイレを使った事あるけど、一応そこには白い便器があった。それと比べたらとっても開放的だけど、後ろから覗かれている不安で逆に緊張してしまう。

●マリの大地、ミレットの穀倉
バンディアガラの断崖の上は赤茶けた大地だった。モプティ近郊はサヘル地帯で緑も水も豊富にあったけど、何もない無機的な土地でちょっと退屈した。
でも、その断崖を下りていくと緑が広がっていた。朝顔が咲いており、大きなキンコウりの実も見つけた。ピーナッツが地面の下で育っている事も実はこの日初めて知った。バオバブの木もマリの大地に屹立していた。ただ、マダガスカルの写真で特徴的に見えるような、根っこと枝が180°そっくり返って太い幹が直立している感じとは違い、ありふれた造作だった。
ただ、この土地で主に栽培されているのはミレットだった。日本にモコモコしたエノコログサが生えているけど、あれの背丈をもっと高くしたもの。2メートル近くあり、ミレットが茂っている所だと、歩いていても前をゆくガイドの姿が埋まってしまいかねない。ドゴン族の人達にとって、このミレットが主食になると言う。
ただ、トレッキングも2日目になって断崖の下の平地を歩いていくと、かなり疲れる。そう、砂が混ざっていたのだ。砂丘ではないのだが、マリ北部にサハラ砂漠が広がっており、北からバンディアガラの断崖まで砂が飛ばされてくると言う。それが冬に吹くハーマッタン(西アフリカで吹く貿易風)なのだ。日本で吹いている偏西風とはちょうど逆方向で、緯度の高い方から赤道に向けて吹いている。なので、砂が堆積してきた痩せた土地でも育つミレットは貴重な植物なのだ。尚、他の季節にはジャガイモやトマトを育てていると教えてもらった。
トレッキング初日に、「ガイドがポーターを頼もう」と提案してきた。歩き始めてすぐだったので、えっ! またカネを巻き揚げるのか? と疑ってしまった。確かにあの断崖を下りていくのは一苦労。でも、2日目も長いこと歩いたし、砂を咬んで歩くのは体力を消耗するのでやはり頼んでよかったのだ。ポーターは少年だったけど、当然こっちより体力に勝っていた。

●ドゴン族のダンス
この日の昼には、いよいよドゴンの踊りを見た。まだこの頃にはテレビ映像でも見たことなかったので、どんな宗教性が体現されているのか興味津々だった。本来ならばミレットが収穫される10月頃にこのダンスを舞うと言っていた。収穫の宴なのか。
太鼓を叩く男、ドゴンの仮面を被って踊る男達、総勢12名くらいだった。仮面は2種類あった。木を切り出して王の字に組んだものと、黒い布で覆って小さな貝をあしらったもの。観光客たった1人のためにダンスを披露してくれたのはありがたい。が、正直に言うとアニミズムの神聖さなど純粋な気持ちは伝わってこなかった。時間にして約30分だった。どうしても子供の踊りとしか感じられない自分がいた。
その後何年か経ってからTBS「世界ウルルン滞在記」でブルキナファソの原住民のダンスを見た。あれは良かった、素晴らしい! 仮面を被った男が1~2メートルもの高さがある竹馬を履いて、激しく踊っていた。あの迫力が欲しかった。
では、私が見たドゴン・ダンスには何が違ったのだろう。理由は少なくとも3つ考えた方が公平だ。自分と状況と相手そのものだ。最初に詫びておくと、私は音楽に無関心なのであのリズムに乗り切れなかった点を割り引く必要がある。とにかく暑い日だったし、昼時にあんな重たい仮面を被って動き回るには相応しくなかった。この3日間のトレッキングで他の観光客には全く出会っていないし、決して頻繁に披露している訳でもなさそう。ただ、彼らにしても観光客のために踊る事、その商品性にやりきれない思いがあったのかも知れない。ガイドと村人がそんなに親しそうでなかったし、おそらく宗教も言葉も違うのだろう。先進国の舞踊家が持つどんな場でもプロとして最高のパフォーマンスを披露しようとする意識を、彼らがサラサラ持ちえなかったとしても仕方ない。

●2日目の夜はヤタバル村
午後はまた次の村まで歩き、既に陽が落ちてからヤタバル村に到着した。村では鶏とヒヨコが出迎えてくれた。暫くすると、晩飯で骨付きチキンのミートソースが出てきた。挽肉じゃなくて骨付き肉が出てくるのがいかにもアフリカらしくて嬉しかった。けど、ガイドが「この家の鶏をさっき絞めたばかりだからフレッシュなミートソースだぞ」と教えてくれた。えっ、自分たち観光客が来たせいで鶏が一羽絞められたのか。生きるためのリアルな世界だ。
日本では食肉工場で解体された肉を、スーパーでトレイに載せられたパーツとして買うだけなので、その動物がどんな鳴き声をしていたとか、どんな目付きで人間を睨んでいたのかなんて全く想像する事もない。分業化された世界は本当に非連続だ。自分はそのどこか1つのプロセスに関わっているだけで、見えない世界は全く判らないままだ。中国で福建省・永定の客家の土楼に泊めてもらった時にも、元旦の朝からホームステイ先のおばさんとお姉さんが、桶に貯めたお湯の中で絞めたばかりの鳥の羽根をごく普通にむしっていた。確かに日本にいては見えないプロセスも、西アフリカではみんな当たり前にこなしていた。それはきっと1000年前も今も変わらない姿なのだと思う。それはプリミティブだけど、決して忘れてはいけない食の1プロセスだと思う。
さて、この日も小枝で編んだベッドに寝た。洞窟のように、半分くらい岩が覆いかぶさるような天然の要塞だった。ベッドの周辺にピヨピヨと数羽のヒヨコがたむろしており、親鶏もいた。彼らも食用として飼われているなんて知らないだろうし、無邪気に鳴いていた。
その夜、なかなか寝付けなかった。と言うのも、遠くでドラムの音が聞こえたのだ。もしかして隣りの村で祭りの練習でもしているのか、それとも相撲でも取っていてそれを盛り上げるリズムを奏でていたのか。あれこれ想像しているうちに眠りに落ちた。
泥壁の家、小枝で編んだベッド、臼と杵で穀物を練っていく姿、こうした姿に接したのはこの後もパプアニューギニア限りだ。服や短パンなど衣類だけはツーリストが置いていってくれるのでそのまま古着を着ているけど、他の風景は殆ど1000年前と変わっていないんじゃないか。いや縄文時代と変わっていないだろう。そんなドゴンの村々を旅させてもらっている。生きた化石であり、それだけでも奇跡であり、感謝なのだ。

(4)ドゴン村トレッキング・3日目
●ベニマト村で川遊び
最後の村はバンディアガラの断崖を登り返していく途中にあった。この村は場所的に岩の破片を家作りに使える。崖の途中だからいくらでも余っているのだろう。家の囲いが石の破片で積み上げられていた。屋根の形は断崖の下にあった村々と同じ。どこかにマッシュルームハウス(ブルキナファッソの写真で見た事あり)を見つけたいと思ったけど、それは叶わず。
そこで子供達と仲良くなり川で遊んだ。これはとっても楽しかった。ベニマト村まで断崖を登ってきたのに、川までちょっと下って行った。最初は子供1人と歩いていたのに、気が付くと5人に増えている。彼らは逞しい。2~3メートルの高さからポンポンと飛び込んではしゃいでいる。1人が石を投げ入れて、他の4人が潜って石を拾ってくるとか、赤ちゃんにも泥を塗りたくって笑っているとか。私も泳いだけど、前日に水溜まりを跳び越す時に肋骨にヒビが入ったようで、クロールで水を掻こうとすると胸が痛む。なので、彼らと水かけっこして、トレッキングの疲れを癒す。
前日までの村では一部のオバちゃん達が上半身ハダカで暮らしていたけど、流石に若い女性は着衣姿だった。でも、ベニマト村の胸が大きい若い女性は、ボロボロに破れたTシャツを着ていたのでオッパイがモロ出しになっていた。こっちは興味半分、目のやり場に困ったのが半分だけど、向こうはお構いなし。プリミティブな暮らしって凄いと思うし、恥の感情って生態的なものじゃないって事だなあ。
Tシャツは自分達で買ったものではなく、他のツーリストから貰ったモノが多い印象だ。事実、私も着ている服をねだられた。まだ足りていないのだろう。服が破れている人も、パンツを穿いているので前は隠れているけど、尻が丸見えの子供もいた。

●3日振りのビールはウマい
2泊3日のドゴン村トレッキングが終わり、待ちかねていたビールを呑む。2晩も禁酒していたので、カステロール・ビールが旨い。ヘロヘロに酔った。でも、店を出れば街は真っ暗。電灯なんてないし、酔ってライトが何処にあるか判らない。フラフラ歩いていたら、突然足が宙に浮いた。と思ったら、ズボッとドブに嵌った。もう酔っていたので、汚いとか言う意識もあんまりなかった。
ドゴンツアーの翌朝、ホテルにガイドが現れた。モプティの街を案内すると言う。それはありがたい。モプティの街はU字を描いてバニ川が流れており、川が大きくカーブを描いていた反対側に行ってみる。まあ、ガイド氏が案内してくれたのはコミッションが目的だったけど。
木製の仮面とカラフルな西アフリカの民族衣装(男性ものワンピース)を買った。TBS「ここが変だよ日本人」でベナン人のゾマホンが着ていたような派手なものだ。これは結局、実家の押入れに閉まったまま一度も見ていないな。夕方、バマコ行きのバスに乗せてもらう。

8.アフリカン・システム

(1)国内線の飛行機は飛ばないぞ
この旅では「アフリカン・システム」って言葉を何度も聞かされた。要するに、先進国やアジア諸国違って、何でも思い通りに進む訳ではないって事だ。
バスの出発予定時刻があってないようなのも同じ。東アフリカのポレポレじゃないけど、どうせ着くんだからに別に構わないヨって言われているみたいだった。でもまあ、そういうのは許容範囲だ。でも、国内線の飛行機が飛ばないのは困るのだ。そもそもサラリーマンが僅かな日数で旅しているので休暇明けに会社に戻っていないのは流石に不味い。なので、ここだけは出発前に調べておいたのだ。HISに行って、あの電話帳より厚いOAG(Official Airline Guide:航空機時刻表)を見せてもらって、マリ国内線の時刻表をチェックした。バマコ―モプティ間は週に2~3本のフライトだった。
長距離バスの雰囲気も掴みたかったので、ゆきはバス、帰りは飛行機のつもりだった。で、モプティに着いてすぐホテルカンプマンで予約した。このホテルにエールマリ(マリ航空)のオフィスがあるけど、オンラインシステムなんてない。罫線の入った紙に名前を書いてくれただけだ。これでホントにブッキングできたのか甚だ怪しいけど、エールマリの看板を掲げているので信用しない訳にもいかない。安心してドゴン村トレッキングに出掛けた。
で、戻ってみると「予定日のフライトはない」と言う。OAGに通りに飛行機が飛ばないのは痛い。完全に予定が狂ってしまう。でも、ホテルのスタッフは「これがアフリカン・システムだ」と笑うのだった。確かに地団駄を踏んでもイラつくだけなので、笑ってやり過ごすしかない。また、あの長距離バスに乗るのか~
まあこの辺りは思いようだ。インドの国内線に乗った時も、とにかく尋常じゃないくらいに機体が激しく揺れる。そのうちパカーンと空中分解するんじゃないかと思った事がある。で、無事に着陸すると機内で歓声が上がり拍手で盛り上がる。インド人も「この飛行機はホントに安全なのか怪しい」と思っていたんじゃないか。況してや、西アフリカの国内線はもっとリスキーだったかも知れない。だから、長距離バスで良かったと納得する事にした。

(2)ゴミはそこらに落ちている
マリには、いやきっとブラック・アフリカ全般でゴミを捨てる習慣はない。そこらに散乱したままなのだ。なので、キットカットの紙屑もシャンプーの袋も10年後にもそこにそのまま残っているのではないか。街にはウラと表がある。ウラは散らかしてそのまま放置状態だったりして、ひどい所だと表もお構いなしって気もするのだ。
まあ、これは直近で訪問した北アフリカのアラブ社会でも同様だった。モロッコでもゴミがバサバサ捨てられたままになっている汚い光景を、カサブランカ空港からカサブランカ市内に向かう電車の車窓で延々と見た事がある。街の表側からは見えないんだろうけど、線路の脇なら裏側だからどーでもいいって事なのか。批判する気はないし、日本も1964年の東京オリンピックを機にゴミ掃除の習慣が広がったので、あまり大きな事は言えない。
菓子や石けんの包装紙が紙じゃないから燃えないし、いつまでも散らかったままになっていた。誰も片付ける訳でもない。まあ、営々と原始的な暮らしをしていた頃には落ち葉と紙、野菜や果物の皮など生ゴミくらいしかなかったので、掘って埋めておけば自然と土に還っていったので、邪魔なゴミがいつまでも残るなんてなかったんじゃないか。彼らもゴミをそこにそのまま放置している事に何の疑問も持っていなかったけど、案外それで清潔だったんじゃないか。
日本とか欧米先進国が、プラスチック製品やビニール袋をバンバン作っては流通させていったり、鉄の塊やコンクリートジャングルで都市を作っては50~100年後に再開発をし始めたり、そんな事ばかりしているから処分に困るゴミで埋め尽くされていくんだろう。パソコンやスマホも壊れてしまえばそんな類だ。都会の汚部屋なんてのも、ドアにカギを掛けられるようにしたから安心して汚しっぱなしにしているだけかも。いくらリサイクルとか言ってみた所で、どう見ても先進国の方が環境に優しくない。だからゴミに対する人間古来の感覚は「放置」で問題なかったのだろう。近年のSDGs(持続可能な社会を目指す運動)は、先進国が開発を進める中で巻き散らかした問題が発端だと思うのだ。

(3)モノを貰う体質
バクシーシ(喜捨)攻撃はインドで懲りている。「こんにちは」、「バクシーシ」と軽く言ってくる。マリでも当たり前のようにバクシーシを要求された。日本人はお金持っているでしょ、だったら施すのが当然でしょ、でいくらくれるの、って自信を持って迫ってきた。
国によって深刻な目で訴えてくるケースもあったけど、マリのバクシーシの訴えは緩い。とにかくウルサイだけだ。必死さは感じなかったのでどうやら金額の多寡は大して関係ないな、コイン1つでも貰えれば挨拶が成立した事になるし、貰えなくても逞しい彼らはきっと生きていけると思う。
ドゴン族の村でも、ちょっと依存体質が強いのは気になった。ガイドがドゴンの村々にボンボン飴を配っていた。まあ、それで円滑にコミュニケーションできるようになるなら構わない。私が持参したライトにもかなり執着している様子だった。まだ登山していない時期だったのでヘッドライトではなく、卵型のライトでパカッと開けると灯りが点いて、閉めると消えるタイプで当時としては珍しかった。
翌日、ベニマト村でも、ちょっとした問題が発生した。何気なく英語のガイドブック「ロンリープラネット」を子供に見せるつもりで手渡したのだが、彼はそれを貰えるのだと勘違いして家に持って帰ってしまった。ガイドに事情を話して取り戻して貰ったけど、誤解を解くのが大変だった。これも文化の差なのか、それとも何でも貰って当然の感覚が染み付いてしまっているのか。自分のモノは自分のモノ、手に取ったモノも自分のモノでは困る。
もう1つ困ったのが盛んに「薬をくれ」と要求された事だ。必死な表情だったがそれがホンモノか区別できない。バクシーシなら少し渡して終わりにするけど、薬は体質によって合う/合わないがある。しかも、彼らはあまり薬に頼った生活はしていないだろうから、マイルドな薬効のものしか渡せない。で、総合感冒薬のPLなら昔から販売されていて枯れている(=効果も副作用も少ないだろう)と考えて、2~3袋を渡してその場を凌いだ。これがドゴン族の人に対して正しい対応だったのか疑問だ。

9.マリの断面

(1)マリも英語で大丈夫
西アフリカ諸国はガーナとか一部を除くと、旧フランスの植民地だった国が殆ど。彼らもバンバラ語などそれぞれローカルな言語を使っているが、その垣根を越えてコミュニケーションするにはフランス語だ。なので、こちらも「ボンジュール」や「メルシー」くらいは覚えていく。それと「ジュマペールxxx(私の名前はxxxです)」は必須かな。
モプティの電話屋さんで借りて、日本に電話した。国際電話が「00」発信なのは書いてもらって判った。でも、8400CFAの支払いで10000CFA札を出したら、どうしたのか戸惑っている。向こうはローカル言語とフランス語、こっちは日本語と英語しか喋れない。「お釣りがない」事を伝えられなかったのだ。この時ばかりはフランス語で禁じ手を使った。それが「ジュ ヌ パルル パ フランセ(私はフランス語を喋れません)」だった。互いにコイツとは会話できないと悟って、顔を見合わせて大笑いしてしまった。こういう事は海外で偶にある。でも、言葉なんて通じなくてもなんとかなるものだ。
このオバちゃんの所には、ドゴン村トレッキングの後も立ち寄ったけど、満面の笑顔で出迎えてくれた。

(2)マリの食事
思い返すに、あまり大したものは食べていない。インドでも同じだったけど、まず衛生的にこれを食べて大丈夫なのか、腹を壊さないのか考えてしまう。まあ、それは2日目くらいで折り合いを付けないとやっていけないけどね。
凝った料理はない。肉のブツ切りにしたものを単に炙っただけとか、揚バナナとか。モプティのレストランにメニューの紙キレがあってブイヤベースと書いてあった。流石に旧宗主国の料理を謳っている以上は期待できるかも知れない。フランスでも食べたことはない。内陸部のマリで川魚とかザリガニでも料理されてくるのか期待した。でも、魚の形はない。スプーンですくっても魚の骨も皮も入っていなかった。器の中には、ただジャリジャリした食感の濁ったスープが入っているだけだった。初めてのブイヤベース、やっぱりパリで食べておきたかったなあ、と後悔。
ドゴン村トレッキング中には、クスクス(小麦粉を蒸したチュニジアの粉っぽいパサついた料理)とパスタばかりだった。まあ、締めたばかりのフレッシュ・チキンが入っていたので、これはゼイタクだ。味はいつもトマトベースでかなり塩味が効いていた。なので、偶にみずみずしいキュウリの輪切りが添えられているだけで嬉しかった。
一度、ドゴンの村人が食べている穀類を食べてみたいと思って聞いてみた。ちょうど杵で穀類(ミレット)をついていて餅のように見えた。餅なら食べたい。一口もらった。右手の人差し指と中指を餅もどきに突っ込んでヒュイと引っ張ってくる。それにソースを付けて食べるのだ。見よう見真似でやってみた。1つ目のオクラソースは辛いし、その穀類がつきたての餅と同じように熱い。もう1つのソースも試してみたけど、そちらも辛くて甘党の私の口には合わなかった。
ミレットは飲み物でもある。ミレットで作ったビールとか、ジュースも呑ませて貰った。こちらは淡泊な味わいだった。私が見たのは注ぎ口が細いポトリから、ボール(キッチン用品)みたいな形状のカリバスに飲み物を注いでくれた。ポトリもカリバスも植物の実を乾燥させたものだと思う。おそらく1000年前もこの光景だったんじゃないか。
最終日の朝早く、バスはバマコのガール・ルティエールに着いた。先ずは朝食を食べたかった。折角なので、マリで最高の5つ星ホテルに入ってみた。テーブルクロスが敷かれていて左右にナイフとフォークが置かれている。もうそれだけでマリを旅している中で初めてのゼイタク。どんな不味い朝食でも、それだけで美味しく感じたんじゃないか。でも、最後のデザートで固まる。なんと、カット・フルーツの中に蚊が入っていていたのだ。日本人の矜持として流石に食べる気が失せた。おそらく彼らにとっては取るに足らない事なのだろう。きっと、そんな事をチマチマ気にしていたらアフリカで生きていけない。

(3)マリの物価
別表のように整理してみた。 ※末尾の表を参照
緑色箇所がドゴン村への2泊3日トレッキング費用に当たる。恐ろしい事にこれだけで4.8万円にもなる。この中にはドゴン村のダンス料金も2万円ほど含まれている。交渉術は向こうの方が明らかに長けている。黄色箇所3つは本来なら不要なコストだと思うけど、まあ致し方ない。
市内バスが17円、隣町まで26円、10時間以上も乗車した長距離バスの1020円は、許容範囲じゃないか。それと比較するとタクシーは値引き交渉の余地があったのかも知れない。
あれこれ書いてみたものの、短期旅行者にはリアルな物価水準なんて分からない。生活者でも普通に買うジュースとか水で比べるのが一番間違いないだろう。ボッタクる店もあるけど、英語もフランス語を話さない商店主はボッてくる事もない。なので、正直な価格が判り易いのだ。
この国ではボトル入りのファンタがメジャーな飲み物だった。最も安かったのが175CFA(30円)だった。もう日本国内ではファンタのボトルなんて見かけない。ザックリ100円と仮定すると1/3くらいだろう。
でもファンタには苦い思い出もある。モプティの木造の商店で買った。値段を聞いて払ったけどまだお釣りが戻ってきていない。その前に「折角だから座って飲め」としきりに促すので座る。そうすると「座って飲んだからプラス100CFA。これがアフリカン・ルールだ」と笑っている。理不尽な言い分だと思うけどまあいい。これもまた日本人には理解できない掟であれば、マリのルールを守るしかないな。

(4)マリで使われている紙幣
CFAは西アフリカの旧フランス植民地諸国で共通で使われている通貨単位だ。マリのCFAフラン札のデザインはなかなかユニークだ。どう見てもその国の歴史を彩った偉人が載っている風には見えない。CFA札の写真を載せたけど、実にのどかな情景だ。他の紙幣にトラクターとか工場の図柄が混じっているけど、そういうのを取っ払ってしまえば、1000〜2000年前に使われていたお札だと言い張っても許されるんじゃないか。
<5000CFA札>

この紙幣にこじつける訳ではないが、マリ人にどれだけの国民としてのアイデンティティがあるのだろうか疑問に思った。通貨は近隣の旧フランス領の国々と同じだし、北側の国境線が綺麗な直線で引かれているのも、英仏などの欧州各国の都合であって、彼らの意思ではないだろう。アフリカ以外の国だと「自分達はxx人だ」って言葉を当たり前に聞く。インドならインド人(インディアン)であり、ネパールなら自分達をネパリーと呼んでいた。中東でもカタールはカタリー、イエメンではイエメニアンと自信を持って名乗る。サハラ以北もモロッッカンとかチュニジアンだ。その代わりによく耳にしたのが「アフリカン」であり、凄く対照的だ。確かに国境線に意義を認められない以上は、自国意識は生まれにくいのかもしれないな。

10.エピローグ:次の旅へ

(1)さらばブラック・アフリカ
いよいよマリ最終日、マルシェを覗いてみた。モプティのマーケットは食品中心で活気があったけど、バマコのそれは雑貨メインだった。掌に値段を書いてもらって土産を買う。結局フランス語を喋れなくても大して困る事なく旅を終えられそうだ。仏教徒はやっぱりモスクに入れない。
彷徨っていると、青空マーケットがあった。線路の左右ギリギリまで商品が並べられていて、ここは活気があった。電車が通過する時間にはみんな慌てて撤収するんじゃないか。そんな様子も見たかったけど、この当時、大西洋のダカール(セネガル)からバマコへの国際列車は週2本だったので待ちきれない。
バマコ市内でニジェール川の上に架かる橋を渡った時、頭の上の籠にバナナを沢山乗せた女性と擦れ違った。男達たちとも擦れ違った。みんなこの国で当たり前に生きている。きっとマリ人の大半は一生ブラック・アフリカの外に出ていないだろう。もし海外で暮らすとしても旧宗主国のフランスへ出稼ぎに行くくらいだろう。見ていると、首都バマコを歩いている人達とドゴンの村人達でも暮らし向きにはかなりのギャップがある。こっちの方がモノは豊富でも、猥雑で勧誘もウルサイ。でも、もうこれでブラック・アフリカともお別れかと思うとシツコささえも名残惜しい気がしてきた。
時間も中途半端だったし、早朝に長距離バスで着いたばかりだったので、のんびりしたかった。で、高級ホテルのプールで泳いでビールを呑んでいた。が、なんとそこでマリに着いた日に「ドゴン村ツアーをガイドするぜ」としつこく迫ってきた男と再会した。懐かしくもあり、でもまたネチネチした勧誘が始まるのは勘弁して欲しい。幸いこの日でこっちの夏休みも終わりだし、さわやかに挨拶して去ってくれた。
でもまあ、しつこい勧誘も、街のオバちゃんやガイドにポーター、とにかく沢山の人の力を借りて旅する事ができた。この旅に限らずアフリカの旅はその日会った人によってこちらの運命がかなり左右される。帰国日の朝バマコへ無事に戻って来られたのだから、ホント出会った人みんなに感謝である。
*
バマコからパリに戻る機内では、安心したのか思いっきり眠りこけた。貧乏旅行者は機内でサービスされるビールと機内食はしっかり腹に収めるのだが、この時ばかりは睡魔が勝っていた。メガネも機内で床に落としてしまい、気が付いた時にはもうすぐパリに着陸する頃だった。気を利かせたスチュワーデスさんが私の前にそっと置いてくれたアイマスクが有難かった。
これでまた、普通の世界、そう21世紀に戻っていくのだ。1週間分の仕事がドッサリ溜まっているだろうし、サラリーマンは辛い。

(2)黒人に対して免疫はできたのか
でも、この国で出会った男達、しつこくガイドをアピールしてきた男達はいずれもそんなに体格に恵まれていた訳でもなかった。香港の重慶マンションに居た男達とは全然違っていた。威圧感を感じる事もなかった。いざ行ってみれば、黒人の全てが体格で優っている訳でもないと判るし、みんな普通の人間だった。むしろ、栄養状態が悪いためか埃っぽいせいか、肌がツヤツヤした人は見掛けなかった。
ただ肌の色が黒いだけ、そしてプリミティブな生き方を続けているので何事にも素直に反応していて裏表のない人達だった。なので、この旅を通じて黒人に対して免疫ができた。あまりにも頑強な肉体でない限り、東京で黒人と出会っても普通に挨拶くらい交わせるような自信は付いた。だから、この旅の後でタンザニア、ナミビア、ベネズエラとか怪しい国にも何ら抵抗なく渡航できた。
トレッキングの面白さを教えてくれたのもこの旅だった。そんなに体力なくても凌げる。ムチャクチャ危ない事はない。なので、タイの北方民族の村とか、ネパールでの登山とかに出掛けることになった。どんなプリミティブな国でもなんとか旅行できる、そんな自信を付けさせてくれたのがマリだった。勿論、マリのみんなに助けてもらいながらの旅だ。それが西アフリカ・マリ旅における何よりの収穫だった。

(3)帰国して2週間して熱発
やっぱりドラマがあった。帰国して2週間くらいしたら、いい具合に熱が出る。普通の風邪だろうけどもしかしてマラリアに罹って熱発したかも知れない。何度も蚊に刺されているし、不安になる。で、慈恵会医大病院・熱帯医学外来でわざわざ診察を受けてみる。あまり変な病気を会社に持ち込むのも憚られるし、気が気ではなかった。結果として、マラリア検査は陰性でホッと安心した。
インドに行く事でどんなに不衛生な環境でも人は生きていけると判った。だいたい日本は清潔すぎるので、アレルギー性鼻炎とか皮膚炎が多いのかも。そして、無事にマリから帰って来られた事で、暑い所でも怪しい所でも地球上ほぼどこでも旅に行ける(+帰って来られる)、そんな自信が付いたのが何よりの収穫だった。但し、極寒の地は未体験なので判らないけど、普通の雪山なら人より1~2枚少ない衣類で十分凌いでいるのできっと大丈夫じゃないか。

以上

Appendix: 旅のこづかい帳

【註】文中にある「CFA」は、マリ共和国など旧フランス領で広く流通している通貨セーファーフラン(当時の為替レートは100CFA=約17円)の事である。 また、西アフリカとマリ共和国の地図にはGoogle Mapを利用した。

【2022.6.23追記】 タグを追加しました。

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