【長編】ネパール旅行記:ネバーエンディング ピース&ラブ
ポカラ郊外から標高3200mのブーンヒルを目指したネパールの旅行記です。他にカトマンズとチトワン国立公園を訪れました。お読み頂いた上でご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。
Question/問合せ | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)
<2022.4.17追記> 当HPに旅行記を掲載してから1年が経ちました。みなさまから頂いたアドバイスを参考にして修正した文章をnoteに掲載しましたので、宜しければそちらもご参照下さい。
https://note.com/hassan01/m/mce5116c6e019
(1)ポカラ発、旅のゴールは3000m峰のブーンヒル
ネパールは言わずと知れた山岳地帯だ。有名どころだとエベレスト、アンナプルナ、K2など7000~8000m級の山々がこれでもかと控えている。
まさかサラリーマンの短期休暇でそんな名峰に登るのは無茶だ。ガイドブックをあれこれ読んで標高3200mなら登れるんじゃないか、と安易に目標を定めた。ポカラから3泊4日で標高3200mのブーンヒルを目指す事にした。とは言え、自分に人並みの体力が無いのは判っている。特に下りは苦手だ。膝関節を犠牲にして跳ねるようにしてサッサと下山していく強者もいるけど、そんなポップに動けない。元々スポーツが苦手な私はコースタイムが登り60分、下り45分と書かれていたら、登りは60分弱で登れるけど、下りがトロトロ、よく言えば慎重に歩を進めていくので大凡60分を要している。そんな軟弱なハイカーにも拘わらず、登山者の集まるポカラに飛んだ。
(2)なぜ海外で登山するのか、そのきっかけは開腹手術だった
国内でヤマの魅力を知ったのは2009年であり、ネパールに向かったのは僅か2年後の事だった。魅力を知ったと言うほど甘いものではなく、半ば強制力を伴ってそこに引き寄せられるように向かっていったというのが正しい。
私は2009年に腹腔鏡手術を受けていた。外科医の迫力に圧されて、そのつもりで手術の承諾書にサインした。その後の経緯を綴っていくと長くなるので結果だけ書くと、麻酔から醒めると開腹手術に切り替わっていた。まだ意識がボンヤリしている状態で、主治医が「お腹が脂肪だらけで見えないので開腹しました」とアッサリのたまう。「うん?」と疑問に思いながらまた麻酔の効果で眠りこけた。意識がシッカリ戻ると、今度は全身の痛みが堪らない。傷口が痛むのだろうけど、そんな区別すらできなかった。
その中で「緑の中に行きたい」って気持ちが自然と湧きあがってきた。で、傷の痛みも癒えぬうち、オペから1ケ月経つか経たないくらいで、傘を杖代わりに突きながらヨボヨボ爺さんみたいな前屈みの恰好で入笠山(長野県・山頂まで1時間くらい)に登った。
その翌月は飯盛山(長野県・JR野辺山駅から2時間くらい)に登って、ようやく「ヤマっていいな」って気持ちが心に沁みてきた。痛みは完全に癒えていたのだ。まだあの頃は八ヶ岳の存在すら知らなかった。赤岳(南八ツ)も北横岳(北八ツ)もその違いを知る由もなかった。でも夏山も冬山も歩いてみると気分爽快。そのノリのままニュージーランドでトレッキングしてみるとなかなか快適だった。そうなれば次はネパールかスイスだと、次の旅先は定まってきた。
この旅をしたのはゴールデンウィークだったので短期勝負。いつも出たとこ勝負の旅を繰り返しているけど、ネパール登山は登山ガイドと一緒に登るルールになっており、時間のロスを避けるため稀有な例だけど日本でヤマ旅のパーツを予約していった。
普通、国内で3200m峰に登るのならスタート地点は1800~2000mくらいだ。富士山五合目だって標高2300mくらいあるし、国内登山の感覚は大抵そんなものだろう。私にとって日本最高峰は仙丈ケ岳(標高3033m)だけど、出発地点の北沢峠は2000mだった。それでも十分にハードだ。
でも、電子メールで貰った行程表を見て焦る。出発地点の標高は僅か800mと書かれていたのだ。軟弱な登山者に大丈夫なのか、一瞬にして不安になりメールで質問した。相手方の回答は「子供でも普通に登っています」とアッサリしたものだった。これでは泣き言も言えない。
(3)ポカラの蚊は強敵、安宿に1泊したら手足が腫れあがる
首都カトマンズのオフィスで顔見世したガイドは、20代前半の若者で気弱そうな雰囲気を醸し出した男でダンカジと名乗った。
この旅ではポーターも頼んでいた。ザックの重さは8kg前後で背負えない事はない。でも標高差がかなりあるし、3泊4日で歩くとどこかで疲れてくる。この当時まだ国内でも3泊するような登山は経験してなかった。なので、マリ共和国での経験もあってポーターを頼む事にした。
彼の名前はビリー。まだ15才くらいの少年だった。体躯は自分の方が全然しっかりしているのだけど、体力は彼の方がよほど上なのだ。それは高度が上がるにつれて如実に思い知らされる事となった。思いっきり体が重たくなり、水と貴重品しか入っていないスカスカのナップサックでさえ、重くてそこに放り投げたい気分だった。そんな時でもポーターのビリーは楽しそうに1mほど前をスタスタと登っていた。
数日後、彼とポカラで待ち合わせしていた。落ち合う場所は投宿していた安宿だ。ポカラ中心部から少し離れており、近くにドイツ風のパンやケーキを売る美味しいジャーマン・ベーカリーがあった。その日は湖でポーターの少年と3人で記念撮影して、買い出しに出掛けた。登山用品は概ね持参していたけど、レインコートの防水シートが剥げてきていたし、山小屋で履くサンダルも欲しかった。
ポカラは欧米ツーリストが好むようなオシャレなレストランも立ち並んでいる。そのメインストリートを抜けていくと、登山用品の商店が集まる一角があった。流石はアンナプルナ登山のベースとなる街だ。日本で言うとバイクの修理工場みたいな店先だった。そこでポンチョ(約600円)と滑りにくいサンダル(約540円)を調達した。
登山前日はぐっすり眠りたい。ただ、ポカラの宿は悲惨だった。ウィ~ン、ウィ~ンと枕元で何かが唸る。部屋の中に蚊が紛れ込んでいたのだ。灯りを付けて蚊を退治する。灯りを消すとまた唸り始める。手の甲や首筋など何か所も刺される。父は「足裏がポカポカする」体質だった。私もそれを素直に受け継いでいて、とにかく暑がりだ。なので、足首から下を布団から出した状態で寝ている。そうしないと眠れないのだ。なので、足も蚊の格好の餌食になった。
ポカラは決して熱帯地方でも何でもない。なのに、どうしてこんなヒドイ目に会うのか。蚊との闘いは延々と続いた。蚊がこちらをからかうように飛んでいるけど思うように叩けない。それでもおおらく10~20匹は潰している。
そんな戦いを繰り返していただけに、登山初日はどこかボーッとしていた。しかも、ポカラの蚊は凶暴で毒性が強いためか思いっきり腫れあがっていた。しかも痒い。
これだけ腫れあがるのは稀な事。昨夜そんなにビールを呑んだ訳でもない。日本国内でもあれこれ登山しているが、山形県・月山で湯殿山へ降りていくと沢沿いに水月光、坂月光がある。そこの蚊は特殊なのか刺された箇所が腫れあがって1ケ月くらい発疹が治まらなかった事を思い出した。北海道のヌカカとかニュージーランドのサンドフライとか、偶に手強いモスキートに遭遇するけど、ネパールの山岳地帯がまさかそんな場所ではないと信じたい。
(4)登山ガイドのダンカジがトツトツと悩みを語り始めた
歩き始めはホントに標高800mのヤナプルだった。ここから2泊しながら標高差2400mを登っていく。
初日のランチは途中の村でダルバートを食べた。インド料理だと何種類かのカレーとナンが乗った大皿がある。あれがターリーと呼ばれており、そのネパール版がダルバートだ。ただ、ガイドとポーターの元にはチキン付きのダルバートが運ばれてきたのに、客である私の前に置かれたのはチキンなしだった。ダンカジは何も言わず平然と食べ始めた。別に構わないけど、どうして客がベジタリアン食で、ガイド等がノンベジなんだろうか。逆じゃないのか、ダンカジの発想が理解できなかった。この時はまだ問いただす程の関係でもなかったため、カチンと来たけど腹に納めた。
もう1つダンカジの行動で不思議な事があった。ガイドなのに客である私のすぐ後ろを歩いてくる。順番が逆でしょ、これでは歩きにくい。なので、何度も先に歩くように促した。でも、彼の言葉はいつも一緒だった。
「ネパールではガイドが登山者のすぐ後ろを歩くものだ。もしあなたが転びそうになったら後ろから支える」
と繰り返すだけだった。こちらが希望を伝えても頑なだった。ダンカジの表情は乏しい。でもウソを言うキャラにも見えなかった。ネパールではホントなのか、ずっと疑問に思いながらも、彼が譲らない以上、その順番で登り続けた。
ブーンヒルまでの登山道は長い。ただ、登山道そのものはよく整備されていて、大抵の場所には平たく削った石が敷き詰められている。これは登山道がネパール村民の生活道でもあり、人馬も普通に上り下りしているためだ。左右の鳥かごに10~12羽のニワトリを背負わされた馬が通っているのを見掛けた。小学校も登山道沿いにあって、そこも見学してみた。なので、日本の登山道と比べたらよほど歩きやすい。ただ、馬糞がポツポツと落ちているので、間違って踏まないように注意したい。
登山の後半になって、突如ダンカジが悩みを語り始めた。客に話してどうするの、と思えど彼の趣旨が判らなかったので最初は黙って聞いていた。聞く限りではこんな所だーーー。
「ボクはフランス人登山者のツアーにポーターとか料理人の立場で働いていた。フランス語を学んだけどそれが役立つ仕事がない。今の会社で仕事をするのは初めて。ガイドとしてヤマに入るのも初めてなんだ」
うん、どういう事だ? もしかしてダンカジは素人同然のにわかガイドって事か。偉そうに突き放して言えばどんな仕事だってプロ意識が求められる。それはネパールだって日本だって変わらないでしょ。知らぬ間に自分の気持ちが上から目線になっていた。IT企業の労働者のストレスをここでネパリーにぶつけてはいけない。少し冷静にならなくては。
いくらこっちが心を許したとしても山岳ガイドとして「ボクは素人なんだ」って客にバラしてしまうのは不味い。舐められるし、いざヤマで危険な目に遭遇してもヘルプして貰えないんじゃないかと穿った見方をしてしまう。第一、信用を失う。もしかして滑落しても助けてくれないんじゃないか、と疑ってしまう。
あのガイド会社の日本人女社長、あまりにもスタッフのマネジメントが雑だなと呆れた。私もIT企業に勤めていて、全ての仕事が自分の得意分野とは限らない。そんな時に限って顧客から「君達はプロでしょ。それなのにこの見積り金額って高すぎるヨ」とチクリと刺される。こっちだってこの分野はプロじゃないよ、まだまだ修行中なんだと泣き言を言いたい時もある。けど、そうも言えないのが仕事だ。
目の前で朴訥と悩みを喋るダンカジの言葉には覇気がないので、こちらとしてもあんまりテンションが上がらない。早く打ち切りたい気持ちも相まって、とにかく「ガンバレば大丈夫」と言い切ってしまった。
<ネパールの登山道は生活の道でもあり整備に怠りない、ダンカジとビリーと3人で>
(5)山小屋で韓国人女性2人とバングラデシュについて語り合う
ブーンヒルへの登山客はみんな同じルートで歩いている。4~5組くらいで抜きつ抜かれつしていた。
・白人のカトリーナ嬢
・20代の白人女性4人組
・韓国の20代の女性2人組
・韓国系の男性登山者
いずれもネパール人ガイドが同行していて、白人女性4人組はポーターを2名も雇っており、彼女達のザックに紐を掛けて2つまとめて背負っていた。登山者それぞれにバテるタイミングが微妙にズレていたので、お互いに「お先に」とか「ファイト!」とか挨拶しながら登っていた。とりわけ、カトリーナ嬢のガイド氏は私の憔悴した顔を見るにつけ「ゆっくり、ゆっくり」と励ましてくれた。各村に複数の山小屋があるので日によって夕食の席で顔を合わせていた。
ティルケンドウンガ村、ゴレパニ村と山小屋に泊まり、3泊目はガンドゥルンと村だった。いずれも山腹の小さな村だ。欧米の登山者が多いためか、日本の山小屋のような雑魚寝する大部屋はなかった。どこもベッドだ。この日の小屋は木造ではなく石作りで日本の山小屋より頑丈だった。
その夜、韓国人女性の2人組と同宿となった。お互いに同じ登山道で苦しんできた仲だ。
「今日もブーンヒルに登る時に出会ったよね」
「そうそう。よく会う。今朝4時くらいに登り始めたら天の川が綺麗だった」
夕食時にどちらからともなく会話が始まった。
「これが登山道で立ち寄った小学校の写真だよ」
「私達もカトマンズでモンキー・テンプルに行った」
と写真を見せ合う。彼女達は、キムタクを知っているのに、SMAPで韓国語を喋る草彅剛は知らないと言うから現金なものだ。夕食後に彼女がクッキーとか韓国製のチョコを持って来てくれた。英会話スキルがほぼ同レベルだったので会話は続く。
聞けば、1人はバングラデシュのKOICA(日本だとJICA、韓国版の国際協力機構)でソーシャル・ワーカーとして働いており、隣国のネパールに遊びに来たとか。もう1人はポスコ製鉄の企業城下町に住んでおり、中学校以来の友達だと言う。2人とも柔和な笑顔で、一見すると韓国人と言われなければそれと判らない。因みに1人はちょっと太っていたので登山道でへばっていた姿をよく覚えている。
「どうしてネパールを旅行しているの?」
「何日間くらい旅しているの?」
「東京に行ってみたい」
「今朝4時くらいに登り始めたら天の川が綺麗だった」
「インド人とバングラデシュ人って似ているの?」
そんな当たり障りない話から、次第にお互いになぜなぜと質問しては答えていく流れになっていった。
「インド人とバングラデシュ人って似ているの?」
「どうしてバングラデシュの人々は貧しいんだろう?」
「バングラデシュでは車とバイクどちらが多いの?」
「グラミン銀行って知っている?」
「バングラデシュに来ているJICAの男達はみんなヒゲを生やしている。どうしてなの?」
そんな会話を延々とカタコトの英語で続けていた。
途中で、彼女達が私の手の甲が腫れているのに気付いた。
「どうしたの?」
「ポカラの安宿で何度も蚊に刺されて腫れあがったんだ。もう3日くらい前の事なんだけど」
部屋に戻って、ベルギー製のガラス容器に入った塗り薬とメンソレータムを塗ってくれた。患部がスースーして少し腫れが退いたように思った。山小屋でこんな親切にありつけるとはホントありがたかった。KOICAの彼女は
「バングラデシュにはマラリアや黄熱病、デング熱もあるから用意しているんだ。打てる予防注射は何でも打っているヨ」
とぬかりなく準備した上でKOICAの支援先に赴任したようだ。最後に「カムサハムニダ(ありがとう、楽しかった)」でお開きにした。
3日間の登山の疲れも吹っ飛ぶ楽しい時間だった。日本の山小屋だとグループ客は賑やかだけど、個人登山者はサッサと寝てしまう人と、寂しく呑んだくれている人のいずれかだ。3泊すると1回くらいは話が弾む夜もあるけど、ネパールでも同じだった。しかも、美女2人組とリラックスして長いこと喋れたのは何よりの収穫だった。
日韓の暮らし向きからみると、どうして東南アジアや南アジアの国々は貧しいんだろうと疑問に思う。それはお互いにモヤモヤした感情を抱えている事だった。とりわけダッカでKOICAメンバーとして働いていればバクシーシをせがまれる場面も多いだろうし、そうした思いが募るのだろう。
他方でグローバル資本主義がアジアにもアフリカにも広がっていく事で全ての国がおしなべて豊かになっていくだろうと信じたい気もする。それが平等だろうし、そうありたいと思う。日本のサラリーマンの平均年収は1990年代の後半がpeakでその後はずっと横ばいに留まっている。では、アジア諸国の賃金が日本並みになるまで日本の所得水準もずっと停滞するのか。もう四半世紀くらいスタックしている日本では、今の若者は成長も金利も知らない。それはジェネレーション・ギャップを通り越してある意味で悲劇だ。
彼女達と喋りながら、資本主義と経済成長が世界を平準化するのも本当だろうけど、どこかで限界があるんじゃないかと、自分の感覚を伝えた。ソウルや東京も、ロンドンやニューヨークもそこそこの緯度に位置しており寒い季節がある。そこでようやくヒトの頭は冷静に働くようになる。だからこれらの国々は進歩してきたんじゃないか。インド人がどんなに賢くてもエアコンが効いたオフィスにじっと閉じこもっていない限り、インドもバングラデシュもあまりに暑いので、思考停止して工夫とか発展を重ねるにも限界があるだろう。一年中夏だったら進歩しようにも頭も気力も萎えてしまうヨ、そんな事を拙い英語で喋った。もう朧げな記憶だ。
<登山道を荷揚げされていくニワトリ、山小屋で韓国人の女性2人組と>
(6)山小屋にペンキで書かれた皮肉「I never do it again」
お国柄を比較をしようとする時、インド人はあまりに独特なのでなにかと1つの基準になる。ネパール人もザックリ分類するとインド系だ。ネパール人とインド人は同じキャラなのか。体格はインド人の方がやや大柄だけど、顔つきは同じように見える。旅人には区別できない。
「インド人と似ている」と評すると、ネパール人は明らかに不快な顔して「ノー」と繰り返してくる。別の人種だから同じカテゴリーに押し込まないでくれって悲鳴のように聞こえた。確かにネパールでバクシーシを要求された記憶も皆無だ。インドとは逆だ。
それをあたかも象徴するような標語が下山途中の村はずれの小屋にペンキで書かれていた。タテに5つの英単語が並んでいたのだ。最初のスペルをタテに読んでいくとIndiaになる。
「I never do it again.」
意訳すれば、インド人には一貫性がない。彼らと約束しても守ってくれるとは限らない、って事だろう。
それに対して、自国ネパールに関してはかなりpositiveな自己評価が下されていた。これも最初のスペルをタテに並べてみると国名Nepalとなる。
「Never ending peace and love.」
ネパール人は永遠に愛と平和を誓う。そしてそれを守るヨ、って訳したい。そこにはネパール人のプライドが現れている。
私もインドを2度旅している。夜行列車で奢ってもらったウイスキーの水割りで腹を壊して一晩中唸っていても、リクシャーに頼んでいないホテルに連行されても、インドにはインド旅の面白さが詰まっている事を知っている。決してインド人は嫌いじゃない。元気をくれる稀有な国民性がある。でも、この落書きに罹れた2国の素顔は全面的に正しいし、笑って肯首したい。インド人13億人の誰も反論できないだろうし、インド人も笑って許してくれる筈だ。
スリランカ人も顔つきはインド系そのものだ。私はそこまでの付き合いがなかったけど、シギリアで会ったゲストハウス経営の日本人女性は、スリランカ人キャラにかなり参っていた。スリランカ人に「インド人と似てるよね」と言ってもそんなに抵抗がないだろう。ニヤニヤ笑って、うやむやにしてくれる姿が容易に想像できる。まあ、いつかスリランカの旅を書く時にもうちょっと深堀りしてみたい。
(7)プーンヒル登山行程
ここでは登山情報について書き足しておきます。
この3泊4日で歩いたルートはザックリ下図のようになります。これは平板な地図ではなく、ヤマをシンプルな三角形に見立てて、標高を意識して描いたものである点に注意して下さい。
旅の記憶は意外とアヤフヤなもの。私は耳で聞いた音で山頂をブーンヒルだと信じ込んでいました。勿論、山頂の標識には「Poon Hill」と書かれていたのは覚えており、ずっと現地ネパール人と英語の発音が微妙に違うのだろうと勝手に自分を納得させていました。つい最近になって改めて確認する機会を得て、自分の間違いに気がつかされたものです。
同様に、標高に関する情報もアヤフヤで調べれば調べるほどスッキリしません。出発地点のナヤプルは約800mと聞いていたものの、ネット情報を調べるとサイトによって1050mとか1070mなど微妙に違ってきます。プーンヒルの標高は3210m、3200m、3198m、3193m、ゴレパニ村も同様に2874m、2860m、2853mなどいくつかの記述が見つかりました。そのため、もしこの記事をご覧になった方が登山を計画される場合には、下図に記した標高に関しては一定の幅をもって参考していただきたく、ご了解願います。
出発時刻、到着時刻に関しては旅日記に書いてあった時刻をそのまま転記したものであり、間違いありません。
<おおまかな登山行程>
(8)チトワン、そこには動物がいっぱい ―ゾウ、サイ、孔雀―
この旅ではネパールのジャングルにも出掛けている。首都カトマンズより南に位置するチトワンだ。
ジャングルって言葉はいろいろ想像するものがあって魅力的だ。ただ、アフリカやボルネオのジャングルとは異なり、ムチャクチャ暑い訳でも、熱帯雨林が広がっている訳でもなかった。植生こそ日本より温帯だけど、農村風景に近かった。そこで、トランクス1枚でゾウの背中に乗って川に入っていく。そこで、ゾウが鼻からプシューと水を吹きかけてくれたり、手加減しながらあのデカイ図体を器用に揺らした末に川に落としてくれた。ゾウ使いもタイのチェンマイと比べたらゾウに対してソフトな扱いをしていた。
別の日には、4WDで繰り出してサイ、クジャク、バンビなどを見つけた。ヒョウは見られなかったけど、羽根が青く輝いているキングフィッシャーとか、羽がペリカンのように長く垂れ下がったクチバシを持つ鳥も生息していた。そんな環境でノンビリ、マッタリしていた。勿論、30~50cmのトカゲ、大きなクモ、毛虫などありがたくない虫もいるけどそれらもひっくるめてジャングルなのだ。偶々、旭山動物園のTシャツを着ていたのだが、4WDで同行していた欧米ツーリストが「私もアサヒヤマ・ズー行ったよ」と喜んでくれた。
宿の近くに、泥壁の家が立ち並んでいた。ホテルも民家もちょうどナショナル・パークの柵が張られているすぐ外側にあった。欧米ツーリストも私もそこの11才と9才の女の子たちと親しくなって、夕方から夜にかけて喋っていた。家の中に入ってみると大きな鍋が焚火に掛けられていて、子供が薪をくべていた。彼女たちの家はおよそ豊かではないけど、けっしてバクシーシを要求してこなかったので気持ちがラクだった。
「明日も夕方5時に来てね」と約束を交わして再会した。近隣の家族も含めて結局のところどれくらい集まってきたのか定かでなかったが、闇の中で会話しつつ別れ際に記念撮影した。で、帰国してからよくよく見ると子供だけではなく美女も含めて6~7名のネパール女性と映った写真が出てきた。
<チトワンの女性たち、チトワンの宿のオーナーと>
(9)チトワンの英語は難しい、ザルマニアって一体どこの国なんだ
アジア各地で耳にする英語はブロークンなので日本人にも聞き取りやすい。でも、この辺りの英語はヤケに聴き取り難かった。最初に驚いたのがバラトプル空港で聞いた「お前は宿をブッキングしていないのか。俺はザルマニアの客を待っているんだ。彼が来たら村に連れて行ってやる」って一言だった。ザルマニアって国は一体どこに存在しているのか。そんな国が地球上にあったのか、もしかして世界史を紐解いていけばそんな国名が登場するのかも知れないが、まったく想像が付かなかった。
とにかくチトワンの村まで行く探りながら会話していると、どう訛ったのか不明だけど、どうやらゲルマニアの事らしい。ゲルマニアってゲルマン人であり、読み方を変えてみればジャーマン、ドイツ人だなって推測ができた。そこまで辿り着いてようやくスッキリした。フィスって英語も理解できなかった。これは吃音を思いっきり縮めたフィッシュで魚の事だった。
ネパールを訪問したのは、3.11東日本大震災のあった2011年だった。大震災から僅か2ケ月だったため世界がフクシマを心配していた時期だった。ネパールでも「地震で原発は大丈夫なのか?」と訊かれた。
なんでもない会話ならラフな英語でやり過ごす事もできるけど、キッチリと英語を喋れないとこういう時に辛い。あまりにもボキャブラリーが貧弱なのだ。フクシマって地名は彼らも知っているけど、原子力発電所を英訳できなく。思わず「Atomic bomb(原子爆弾)と口を滑らせてしまった。それこそ原発事故の比ではない、失態だった。東京オリンピックの招致活動の演説を聞いた後なら無責任に「under controlできている」と言えただろうけど、あの頃は最も深刻な時期だった。こちらが困った表情で口ごもっているのを見て、ホテルオーナーが「(原発事故は)Still openなんだな」とフォローしてくれた。
ネパール人はみんな等しく優しかった。インド人のニヤニヤした表情、堂々としたウソも嫌いじゃないけど、明らかに国民性は違っているな。
(10)そして、今
あれからもう10年くらい経過している。この10年の間にネパールは大地震に見舞われた。2015年4月の地震はマグニチュード7.8だった。建物が倒壊している映像をTVで見て、ネパールの赤レンガは6つくらい大きな空洞が開いていて実はスカスカだった事を思い出した。あれではとても構造的に持たないだろう。
チトワンのホテルオーナーが無事なのか知りたくて、インターネットでホテルのサイトを検索した。そのアドレスにメールを送ってみたけど、結局返信は来なかった。ホテルのオーナーが「お前が結婚したらまたここへ遊び来い。その時はホテルじゃなくて俺の家に泊めてやる」と優しい表情で言ってくれた男だったので、猶更その消息が気になる。
今でも八ヶ岳とか北アルプスに出掛ける時には、いつもポカラで買い求めた安物のポンチョをザックの奥に詰め込んでいる。同時に買ったサンダルはソールが丈夫だけどいかにも硬くて山には不向きなので、スーパーへ買い物に行くのに履いている。
ポンチョを被ると偶に思う。ダンカジはプロの登山ガイドに成長できたのか。それとも、登山コックとしてフランス人ツーリストに料理を振舞っているのだろうか。
【2022.6.23追記】 タグを追加しました。
【2024.9.10追記】「 (7) プーンヒル登山行程」章を追加して、標高や出発/到着時刻を付記しました。