【長編】コロナ禍で三遠南信をゆく

コロナの緊急事態宣言下で揺れた2020年の前半、東京暮らしが大変になり、東海地方と東京の2拠点生活となった。その頃に歩いた三遠南信地方の旅を浜名湖と姫街道を軸に旅行記としてまとめました。お読み頂いた上でご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。

Question/問合せ | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)

(1)緊急事態宣言の直前にコロナ疎開してみた  

2020年は旅好きの人もそうでない人もみんな行動制限を受けて、身動きが取れなくなった。突然テレワークを迫られても、そんなに恵まれた住環境の人ばかりではないだろう。私は新型コロナ感染に対する漠とした不安に駆られて東京を一時的に脱出した。見えないものに対する恐怖で、実家に帰省した方がいいと判断したのだ。首都圏に緊急事態宣言が発出される数日ほど前の事だった。

途中の乗換駅で電車を待っていると、スマホが鳴った。久々の相手からだった。「本日から弊社も交代でテレワークする事になりました」とご挨拶の電話だった。自分がもう組織に所属していないので、世間の様子から疎くなっている。ついTVや新聞の報道に踊らされてしまいがちだけど、やっぱり世間もテレワークに動いており、疎開の判断が決して大袈裟なものではなかったのだと、自分を納得させる事ができた。2020年の桜が咲く頃になると、日本中でもしかして武漢の再来になるんじゃないかと未知の恐怖が迫ってくるのを感じていたけど、それが自分事になってきた瞬間だった。

ただ、そんな長期間に亘って疎開する想定も抱いていなかったので、大した荷物を持ち運んだ訳でもない。登山用のザック1つに入る程度の荷物をまとめたくらいだった。なので、実家に帰って最初に困ったのがパソコンだった。パソコンを東京に置きっぱなしにしており、スマホでは長々と文字を打つのに疲れてしまう。やむなく実家に置いてあった15年以上前に買った古いパソコンを引っ張り出して、メモ帳にエントリしてそれをメールでスマホに送信してやり過ごしていた。写真類はたいていスマホに保存しているので、これで何とか旅のHPやブログ投稿くらいなら継続できた。

この疎開生活でいろいろな変化もあった。わざわざ標高の高い山に登らなくても実家の庭に季節ごとの花が咲く事も知った。タツナミソウやシャリンバイ、セッコクなどとりわけ春はいろいろな花が咲いて、賑やかなのだと気づかされた。自炊の期間も長くなると、ワンパターンの焼肉とカレーだけでは済まなくなる。味付けのパターンも増やしてみたし、鮭とブリだけでなく、サバ、赤魚、タイ、シイラなど魚料理もいくつかトライしてみた。東京での自粛生活には限界を感じていたし、新型コロナそのものは困った存在だけど、ニューノーマルな生活を送る中で違う生き方も在るものだと気づかせてくれたのは大きな収穫だった。

(2)ヘルペス発症! 馴れない自粛生活で体が悲鳴を上げた  

コロナ疎開と称する新生活も1ケ月も経過すると体が慣れてきた。東京では日が暮れてからも街が明るいので、当たり前のように時間にお構いなく活動していた。でも田舎で暮らすとそうもいかない。夕方、陽が落ちるのは即ち真っ暗になる事を意味している。
東京暮らしはどこにいても賑やかだ。ウルサイと思う事もままあったけど、田舎は至って静かな環境だ。これでは夜の活動もなにもあったものではない。田舎で暮らしを始めてみると、どこかで世の中から取り残されたような感覚に陥るから不思議なものだった。
これなら健康にいいんじゃないか。コロナ疎開が終わっても東京と田舎のデュアル・ライフを極めていくのも案外いいかも知れない。
そんな暢気な暮らしを始めて1ケ月ほど経過したある日、首元が痒くなった。暑い日に裸で畳の上にゴロンと寝転んでいたのでダニに刺されたのか。自分の部屋は高校を卒業してからずっと使っていない場所。雨戸を締め切っていればダニが繁殖していてもおかしくない。
首元をボリボリ掻く。赤みを帯びたエリアが徐々に広がってきた。
うん、なんか痛いぞ。
事ここに至ってようやくダニじゃない! と気づいた。
マズイな、この症状はヘルペス(帯状疱疹)だ!
胴部にできたヘルペスは体を一周すると死に至る病だという。それが単なる迷信なのか真実なのか分からない。いずれにせよ苦痛は早々に取り除きたい。致命的な病気ではないが、とにかくナイフの剣先で刺されたような痛みが辛い病気だ。
高額な抗生剤を服用すれば1週間くらいで治ってしまうが、皮膚科の医師から「中にはずっと神経痛に悩まされる患者さんもいる」と脅かされる。

実は、私がヘルペスに罹ったのはこれで2回目だった。かつては、右脇腹からみぞおち掛けてヘルペスの発赤が広がってきた。その時も暑い時期だったので最初は虫刺されくらいに軽く考えていた。それが次第に鋭角的な痛みを伴ってきたので焦ったのだ。
なので、ヘルペスの傾向と対策は一通り分かっているつもりだ。私の場合、メンタルで追い詰められた時にこの病気を発症している。
もう15年以上も前のことだ。IT企業でSE(システム・エンジニア)として勤務していた。SEにはシステム開発と保守運用業務がある。それぞれに面白さと悩みを抱えている。開発業務の課題は繁閑の落差が大きい事だ。1つのプロジェクトが完成した後で次の開発案件がスッと決まらず、自分の立場が宙に浮いてしまう場合がある。所謂”アイドル状態”というもので、会社によっては”努力”とか“アベイラブル”と呼ばれている。
当時は、某プロジェクト完成後、別の怪しいプロジェクトに放り込まれていた。明確な納期は設けられてないものの、準備段階として自分で主体的に調べておいてって曖昧模糊とした仕事だった。顧客からコスト負担してもらえるので恵まれている仕事だと云われればそれまでだが、具体的なターゲットがボヤけているのは辛い。次の試合が決まっていないのにコーチから「とにかくシャドーボクシングしておけ」って告げられたボクサー状態とでも言おうか。いかにもフワフワした日々だった。そんな仕事でズルズル働いているうちにヘルペスに罹患した。
その忌まわしい記憶が甦ってくると、早々に抗生剤を呑まなきゃいけない。慌てて皮膚科医院に駆け込む。

ただ、この時はいかにもタイミングが悪かった。2020年春先と言えばまだ緊急事態宣言が発出されていて何もかも非日常だった。新型コロナ感染症はかなり恐ろしい病気だとみんなが警戒していた時期で、緊迫感があった。病院としては売上減少で経営が傾くのも困るけど、それ以上に感染の疑いがありそうな人には病院に来て欲しくない時期だった。
しかも、私の保険証に書かれた住所は「東京都○○区」。どうしてコロナ汚染地帯に住んでいる人が田舎の病院に来るのか怪しまれてしまう。事実、思いっきり怪訝な顔で受付のお姉さんに出迎えられた。どこの病院なのか流石に固有名詞を書けないので伏せておくけど、医師から「どーしてこの時期にウチに来たんですか?」と云われた。
思えばSE時代のヘルペスは明らかに仕事のストレスが原因だった。ではコロナ禍のストレスって具体的に何だろう。ここは人によって違うだろうが、私の場合には明らかにステイ・ホームだった。家の中に閉じ込められている圧迫感、閉塞感がストレスの原因だった。
ヘルペス・ウイルスはヒトの体の中にずっと潜んでいて、それがストレス下においてアラートを上げるべく騒ぎ出すと云われている。コロナ禍の前は毎年2回ペースで海外旅行に出掛けていたし、国内の登山も八ヶ岳や北アルプス、雪山と季節ごとにバリエーションを持って登る山域を選んでいた。それが、緊急事態宣言で何かと行動制限を迫られてきた。それが心理的にプレッシャーとなって耐えられなくなったのだ。

(3)三遠南信にはずっと低山が続いていた  

はて、体が悲鳴を上げるようではいかにも不健康。自粛生活がずっと続いて快晴でもリフレッシュできないのはいかにも辛かった。しかも、緊急事態宣言が発出されている時期は徐々に暖かくなっていく頃でもある。うずうずしてくる。やっぱり旅しよう! って安易な結論に至るのはホントに速かった。

旅は海外旅行だけではない。新型コロナの正体がハッキリしないと泊りがけの旅も難しそうだ。折角の疎開生活なので、今まで全く知らなかった近場にある三遠南信のヤマを攻めてみる事にした。

三遠南信とは、東海地方の3つの県に跨るエリアを1つの経済圏と見立てた時に使われる言葉。3つのエリアとは、三河(愛知県東部)と遠州(静岡県西部)と南信濃(長野県南部)である。まあ、三河(岡崎)は徳川家康の所領であり、浜松(遠州)は徳川家康が居城を構えて武田信玄と戦った街だ。またここ100年くらいでも、トヨタ自動車の本社は三河に在るけど、トヨタの祖業である豊田織機を起こした豊田佐吉は遠州地方(湖西市)に起源がある。なので、三遠は一体感がある。JR飯田線が豊橋から辰野まで、国道152号線が浜松から茅野まで北上していくので、南信(南信州)ともそれぞれに交流がある。今では、南北に三遠南信自動車道も走っている。

なので、2020年春の緊急事態宣言中に一部の人が湖西市で「愛知県の人は静岡県に来ないで」とアピールしていたようだけど、決して隣接した豊橋とか東三河の人に対して言っていた訳ではないだろう。そんな他愛のない会話もこの1年で、いくつかの低山を歩きながら交わしたものだ。

さて、ヤマと言っても三遠南信に高い山はないので低山めぐりだ。秋葉山、粟ケ岳、阿寺の七滝など、東は接岨峡温泉(川根本町)から西は渥美半島(蔵王山)まで三河と遠州地方を歩いてみた。勿論、マスクで口を覆ったままひっそりと登山口に向かったのである。

【参考】2020年春の山行録サマリ記事

【参考】個別のヤマ旅を1つ紹介

(4)緊急事態宣言下で賑わう湖西連峰。神石山ではのんびりとランチ休憩していた  

ある日、前から気になっていた湖西連峰に出掛けた。

湖西連峰の湖西とは浜名湖の西側って事、文字通り静岡県湖西市が存在する。この湖西連峰は神石山でも標高は僅か324mと立派な低山。この湖西連峰の面白いのは入山ルートが10くらいあり、とりわけ豊橋サイドから入っていくと葦毛湿原や赤岩寺など路面電車やバスのアクセスが充実している。登山道も「豊橋自然歩道」など県境尾根も豊富に整備されているのがありがたい。

何度も登ったけど、最初はJR新所原駅から登山口まで歩いていった。登山口から梅田峠や仏岩を通って神石山までは約75分だった。

首都圏等では緊急事態宣言が発出されている期間だったので緊張感はあったけど、静岡県はまだ平時。神石山山頂ではランチ休憩している人が15名ほどいた。改めて案内板を見ると普門寺を通ってなかった。この湖西連峰は東西南北に複数のルートが伸びていて、一筆書きでは行けそうにない。またの機会に来よう。

浜名湖はアメーバ状に奥のほうに入り組んだ曲線を描いているけど、目で追っていけばずっと辿れそうだ。その右手奥は遠州灘(太平洋)だ。浜名湖と太平洋の接点、今切口も見えたのだろうか。あの辺りは東海道新幹線も東海道線も浜名湖の上を跨いでいるので、どこが今切口なのか判然としない。今切口は2020年1月にNHK「ブラタモリ」で紹介していたので、きっと全国区に昇格した場所だ。浜松市の中心部はハッキリ判らないけど、浜松駅前に建つアクトタワーらしき塔がポツンと聳えているのがかすかに見える。

見晴らしがよく、すぐ近くに浜名湖の青い水面が見える。海も湖を眺められる登山って気持ちがいい。それがこんなに近くにあったのかとトクした気分になった。まあこんなヤマまで新型コロナウイルスも襲って来ないでしょう。ニュースやワイドショーでずっとコロナ報道ばかり見ていると、いくら田舎で疎開してみても新型コロナの罠から抜けられないような錯覚に陥る。でも、こうして低山の頂に立ってのんびりしてみると、そんな呪いから解放されたような気分に浸れた。

<神石山から知波田駅へ浜名湖に向かって下山、大知波峠廃寺跡>

(5)大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台となった引佐郡で犬くぐりを見つけた  

二度目の緊急事態宣言中には、気賀(静岡県引佐郡細江町、現浜松市)から標高433mの尉ケ峰(じょうがみね)に登ってみた。ルバング島の小野田少尉の「尉」を「じょう」と読むなんて知らなかった。これは読めないな。ヤマの呼称は難しいのがあるけど笊ケ岳(ざる)より難しいかも。

●二俣線が開通した理由

気賀には天竜浜名湖鉄道(旧、国鉄二俣線)が通っている。天浜線は、JR掛川駅からJR新所原駅まで東海道線を北側に大きく迂回するように走っている。気賀駅から西側にゆくと車窓左手にずっと浜名湖を見ながら進んで行く。天浜線は通学時間帯を除けばいつ乗っても閑散としているし、どうしてこんな内陸部に鉄路が必要だったのかずっと不思議だった。旧天竜市の奥の方は森林資源に恵まれており、龍山村にはかつて鉱山もあって栄えていたので芸者さんもいたなんて話も聞いた事があった。でも、既に時代は令和だ。

その答えは意外なものだった。天竜二俣駅に残っている転車台を見学した時に教えて貰う事ができた。国鉄二俣線が掛川~新所原まで全線開通したのは1940年(昭和15年)であり、将に太平洋戦争が始まる年だった。転車台のガイドさんの話を聞いて、ようやく二俣線の役割が分かった。戦争中に、太平洋側の主要都市はどこも空襲で被害を受けた。浜松もものづくりが盛んな街なので狙われる危険があったのだろう。しかも、浜松はその街自身の機能も重要だけど、東京と大阪を結ぶ東海道本線のルート上に位置している。万が一にも爆撃されて東西の大動脈が遮断された時の備えとして、掛川から新所原にかけて迂回路を作ったのだとか。だから、全線開通したのが1940年(昭和15年)と言う微妙な時期だったのだ。

●旧二俣線・気賀駅

気賀と言えば浜名湖の北側にある小さな町だけど、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で有名になった。柴崎コウ、柳楽優弥、ムロツヨシ等が賑わっている気賀の港に集まっているのを見て、往時はそんなに繁栄していたのかと意外に思ったものだ。現在の気賀駅は大河ドラマの宣伝効果を狙っているのか、駅ホームにも駅舎にも赤い布に金色で井伊家の家紋をプリントしていた。駅周辺が閑散としているだけにその派手な赤色が目立つ。

さて、気賀駅から尉ケ峰登山口へゆく途中に、「犬くぐり」と書かれた看板がいくつもあって目に付いた。聞き覚えの無いワードで謎だった。駅改札から歩いて数分で、緩い斜面に家が立ち並んでいる中、住宅地と住宅地の間にヒトがどうにか通れるくらいの道が付いていた。そこを抜けていくとムシロをタテに吊るしてあった。案内板によると気賀関所(姫街道・浜名湖の北端)も新居関所(東海道・浜名湖の南端)と同様に厳しい取り締まりをしていて、夕刻になると閉門していたとか。ただ、それだと地元住民の暮らしの妨げになるため、関所の裏を四つん這いになって通行するなら構わないヨ、と当時の役人が配慮してくれたのが「犬くぐり」だと言う。そういう事ならばと、敢えて四つん這いなってそこをくぐる。

尉ケ峰からピストンで下山してから、帰路で歴史民俗資料館に立ち寄った。そこで「犬くぐり」のムシロに書かれていた模様の意味を訊いてみる。「みおつくし」だと言うが意味が分からない。沢口靖子のNHK朝ドラくらいしか私の語彙が追い付かない。不審げな顔をしていると「航路の標識」だと教えてくれる。「旧、引佐郡細江町のマークもこれと同じデザインだった」とか。この資料館には浜名湖で漁をしていた船や銅鐸が展示されていた。銅鐸って釣鐘として使われていたものだと、この資料館の展示を見て初めて知る。レプリカを触ってみると、金属はさして厚くなかった。銅鐸は器用に薄く鋳造されていたようだ。

<気賀駅には華やかな井伊家の家紋、徒歩10分で犬くぐり>

●旧二俣線・金指駅

気賀駅の隣り、金指駅の周辺には大河ドラマの舞台となった井伊谷があるが、その付近にはほかの史跡もあった。

その1つが標高466mの三岳山(三岳城址)だ。ヤマとしての眺望は尉ケ峰に劣るものの、三岳城は南北朝時代に井伊家が南朝方の皇族を庇護して今川方と戦った場所と記されていた。でも、まさか京の都で繰り広げられていた史実がこんな東海地方の片隅まで影響していたとは思いもよらなかった。大河ドラマでは井伊家が駿河の今川家に苦しめられていたが、それ以前にここは両者の戦場だったのだ。当時は立派な山城だったのだろう。低山ながらも双耳峰を形成しており、往時には2つの砦を構えていたと解説があった。三岳神社に続く参道の石段は朽ちたように古く、往時を偲ばせるものだった。

三岳神社に戻って、林道を進むと奇岩が立ち並ぶ立須がある。ここはユニークな地形で、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のタイトルバックを撮影した場所だ。

岩場に近づくと角がとれた灰色っぽい岩が樹林帯にいくつも転がっていた。これってつい最近どこかで見た景色だ。そう、ここからほど近い竜ケ岩山の登山道にひっそり隠れていたのと似ている。そこには条溝カレン(溶食条溝)と書かれていた。いよいよ立須に登る。切り立った断崖と表現するのは大袈裟だろう。でもこの光景は明らかにレアな存在だ。

僅か10mあるかないかの岩場だけど、高山帯のそれとは全く違う。岩の性質が脆くて、岩に筋状の切れ込みが入っている。人が踏んでいく箇所は自然とこすれて隙間が埋まっていくためマイルドな表面になっていた。逆に、風雨の浸食に侵された場所は、水に穿たれて深く窪んでいた。

一体としてこの一角だけ、どうしてこんな奇岩地帯になっているのか。竜ケ岩山とも近いし、もしかしてこの地下にも竜ヶ岩洞のような鍾乳洞が隠れているのか、そんな想像もしてみる。うーん、柴崎コウもこの立須(標高330m)に立って、遠州平野と浜名湖を見渡していたのか。

(6)姫街道はかつて東海道として栄えていた  

湖西連峰には6回ほど通った。いろいろなルートが豊富なので、なかなか飽きないヤマだった。大知波峠を越えて本坂峠に至った所で制覇したな、と達成感に浸った所で次の目標が見えてきた。それが姫街道だった。

2020年に何度か湖西連峰を歩いている中で、ある時に嵩山(すせ)から歩き始めたら姫街道の標識が目についたのだ。と言っても、嵩山宿(愛知県豊橋市)から本坂峠までの僅かな距離だ。

●姫街道とは

子供の頃から名前だけは知っていた姫街道だが、折角なので歩いたついでに調べてみるとなかなか古い歴史を重ねた道である事が判った。

<嵩山宿で見つけた碑、気賀駅駅舎にも往時を偲ぶ看板>

江戸時代、東海道には江戸から京都まで海道五十三次で53の宿場町が設けられていた。日本橋と京三条大橋を加えると55宿になる。東京から名古屋までは概ねJR東海道本線の線路と概ね同じ歩みをしている。名古屋から京都までは現在の東海道本線のルート(岐阜県経由)と異なり、桑名、四日市、亀山と三重県を通過して近江(滋賀県)に抜けている。昨年、御在所岳に登るので名古屋から四日市まで近鉄に乗車したけど、確かあのルートは木曽川とか矢作川とか川幅の広い水路を何度も渡るので、岐阜ルートの方が鉄路を整備するのに簡単だったのかも知れない。東海道新幹線を敷設する際にもどこかの政治家が勝手に三島駅(or岐阜羽島駅だったかも)を決めたんじゃないかと聞いた記憶があるけど、もしかして東海道線の開業当時にもそんな大人の事情があったのかも知れない。

遠州(静岡県西部)や三河(愛知県東部)で最も有名なのは、浜松宿と吉田宿(豊橋)だ。その前後に見附宿(ジュビロ磐田の磐田市)や二川宿、それに浜名湖の今切口の西側に新居関所が置かれていた。大名行列はこのルートを通るのだけど、浜名湖の北側を迂回して見附宿(磐田)から御油宿(豊川市)を結ぶルートとして姫街道がある。

姫街道の途中、浜名湖の北側には、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台にもなっていた井伊谷や気賀宿と気賀関所、三ヶ日みかんで有名な三ヶ日宿がある。また、愛知県と静岡県の県境が本坂峠(湖西連峰の主稜線で北側に位置している)であり、そこを越えて西に降りると嵩山宿に至るのだ。この辺りの位置関係は地図で見た方が判りやすいだろう。

<東海道と姫街道>  ※この地図はWikipediaより転載

姫街道の言われは2つあると言う。

①江戸時代に迂回ルートとして利用

1つは、東海道は大名行列が通る正式ルートで新居の関所のチェックが厳しい。なので、そのお調べを嫌って姫街道へ迂回したと言う説だ。

浜名湖は太平洋と繋がっている汽水湖だ。2020年初にNHK「ブラタモリ」で放送していたけど、浜名湖の今切(太平洋と湖との境目)はかつて切れていて、それが天竜川の砂州が堆積しながら西に伸びて浜名湖の口を塞いだとか。京都の天橋立も砂州が積もって延々伸びていったらしい。

でも、江戸時代の地震で今切口が更に広がってしまったのだ。このお陰で、浜名湖で美味しいウナギが生育する条件が整ってきたようだ。ただ、東西を往来する人々にとって「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌われたように、海路は厄介である。なので、今切口が開いた浜名湖の縁を通過するより、多少は距離が嵩んでも本坂峠を越える山道の方が手堅かったのだと想像できる。

②古く平安時代から使われていた正規ルート

もう一つは、古い事を意味する「ひね」が訛って姫になったと言う説だ。と言うのも、姫街道は江戸時代後期からの呼称で、それ以前は本坂峠を越えて三河と遠州を往来するため、本坂通りと呼ばれていたようだ。更にそれ以前に遡っていくと、浜名湖が太平洋と繋がっていたため東海道の本道として使われていたのは実はこちらのルートで、二見の道と呼ばれていたとか。

姫街道には平安時代の遺構が残されていた。三ヶ日(旧引佐郡、現浜松市)から本坂峠に向けて歩いていくと、板築(ほおづき)駅跡と書かれた立て看板があった。時代的には僅か10年くらいだけの事だったと云うが、平安時代の842年(承和9年)に橘逸勢(たちばなのはやなり:空海、嵯峨天皇とともに日本三筆の一人に数えられた)がこの地で亡くなったとか。橘逸勢神社も近くに建立されていた。

また、本坂峠から湖西連峰を1時間ほど南下した位置にある大知波峠廃寺跡もほぼ同時代に使われていたものらしいし、ここは豊川道の山越ルートに位置している。Wikipediaによると「当地での土地利用は8世紀頃に始まったが、寺は10世紀半ばに本格的に造営され11世紀末に廃絶」とあった。他にあと一つ挙げると、三ヶ日町から北上していくと富幕山のすぐ下に幡教寺跡がある。こちらも貞観17年(875)に開創されたと言うから同時代になる。

都(奈良や京都)に近い琵琶湖が近江、それに対してずっと遠くにある浜名湖を遠江と呼んだのは確か坂上田村麻呂(平安時代)だった。これまでそれが浜名湖のどの場所だったんだろうと考えた事もなかったけど、もしかして浜名湖の北側の姫街道の沿線だったのかも知れない。

翻って今の浜松市は江戸時代の東海道に沿って繁栄しており、姫街道が潤っているとは言い難い。うーん、地形の変化によって人々の往来や街の動静まで大きく変化してしまうのか。もしかして姫街道(二見の道)がずっと東海道として使われていたら徳川家康の浜松城は今の場所にはなかっただろう。むしろ田舎だと思われていた井伊谷や気賀(いずれもNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台)がずっと栄えていたんじゃないか。浜名湖の最も奥まった場所なので、波は立たないし海運上の要衝としてもずっと便がいいと思うのだ。NHK「ブラタモリ」に拠ると、天竜川が江戸時代250年で250回も氾濫していたとか。これも驚きの事実だったが、天竜川からやや離れている旧引佐郡には洪水が及んでいなかったのだろう。

●三ヶ日宿から本坂峠へ

で、嵩山から本坂峠まで歩いた後、今度は天浜線・三ヶ日駅から本坂峠を目指した。

先ずは、駅から5分ほど歩いて姫街道に出るが、それと判る標識はどこにもなかった。これで正しいのか迷っていると酒屋の看板に大きく「三ヶ日宿 姫街道」と書かれていたので間違いない。西へ街を抜けるとみかん畑が広がり、民家の軒先で三ヶ日みかんが1袋100円とか200円で売られていた。みかんの樹液のせいなのか、この付近の川原に群生していたススキの穂はやけに暖色かかっていた。まあ気のせいかも知れないけど、かつてベネズエラで見た風景だと、近くにコーヒーの木が群生しているためオリノコ川にその樹液が流れこんで川の色が茶色を帯びていた。茶色と言ってもアメリカン・コーヒーみたく濃い茶色ではなく、ウーロン茶のさわやかな茶色だ。

さて、橘逸勢神社と板筑駅跡のほか、小高い所に姫街道の一里塚があった。江戸からここまで72里だと言う。嵩山から本坂峠に登り始めてすぐの所で73里の立て看板を見つけたので、あそこから4kmほど東を歩いている計算になる。湖西連峰の山並みがまだ少し離れて見えた。振り返るとまだ三ヶ日の街とみかん畑が広がっていた。

●三ヶ日宿から気賀宿へ

別の日には、三ヶ日駅から気賀駅へ姫街道を東へ辿ってみた。このルートは天浜線の駅だと都築、東都築、寸座、佐久米、西気賀、気賀と6駅分も歩く事になる。ここでもみかん畑が続いていたが、高札場跡など三ヶ日町は史跡に基づきキチンと説明を書き加えてくれていた。これは、三ヶ日駅から本坂峠へ歩いた時にも感心した事だけど、ホントありがたいと思う。橘逸勢とか板筑駅跡など全く知らない事だった。三遠の周辺市町村の中でも一番丁寧な対応がなされていると思う。旧引佐郡のヤマと姫街道を何度も歩いてみたけど、どうして浜松市と合併したんだろう、町として固有の文化を守った方が良かったのにと思った。まあ、余計なお世話だけど。

標高200mの引佐峠は藪の中だった。ちょうど佐久米ルートで尉ケ峰に登る登山道とクロスしているのでつい1ケ月前に歩いた場所を再訪した事になる。その付近には象鳴き坂、姫岩、薬師堂、ダイダラボッチの足跡など旧跡が多い。八代将軍・徳川吉宗の時代に長崎に着いた象を江戸の将軍様にお目見えさせるため東海道を引いて行ったのだが、今切の渡しに象はムリなので姫街道を通る事にしたとか。その象が引佐峠を登るのがあまりに辛いので啼いたのが、象鳴き坂の由来だと言う。

姫岩も大名家の姫様の休憩所だったと書かれていた。ただ、この辺りは高台になっているものの藪が茂っており、浜名湖の景色は全く見られない。往時は今と違った景色が拝めたのだろうか。

(7)NHK「ブラタモリ」で改めて知った浜名湖の今切口  

浜名湖と遠州灘の境目が今切口だと簡単に書いていたが、ここもちょっと掘り下げてみよう。

●今切口とは

江戸時代の東海道は浜松宿から豊橋(吉田宿)に掛けて太平洋に近い所を進んで行く。そうすると、どうしてもどこかで浜名湖を渡る必要がある。浜名湖は完全に閉じた湖(淡水湖)ではなく海と繋がった汽水湖だからだ。

その湖と海を繋ぐエリアが今切口である。その細い通路が、浜名湖と遠州灘(太平洋)の境目であり、両者を結ぶエリアとなっている。かつて浜名湖が淡水湖だった時代もあるけど、室町時代や江戸時代の地震・津波で浜名湖と海が繋がって汽水湖になったとか。そうなると舞阪宿から新居宿まで海路を使うしかない。

どうやら淡水湖だったのも進化の途中経過であって、もっと昔(6000年前)は浜名湖そのものが内湾だったとか。天竜川が運んできた土砂の影響で次第に内湾が塞がれていき、湖になったのだと言う。

浜名湖そのものも、三ヶ日近くをカッコ書きで猪鼻湖と記したり、気賀の付近をカッコ書きで細江湖と表記している。庄内湖ってエリアもある。もしかしてそれぞれのエリアも単独の湖だった時期があるのかも知れない。新幹線や東海道線も通っている弁天島も成り立ちも考えてみたら謎が詰まっているのだろう。こうした事もいずれ調べてみたい。地形の変遷に関しては不勉強なので、あまり不確かな事も書けないのだ。

さて、こうした事は文章で細かく書くよりも昔の絵図で見比べると一目瞭然だ。2020年年初のNHK「ブラタモリ」では以下3点を明確にしていた(と思う)。

・天竜川が土砂を下流に運び、西側の遠州灘に砂が堆積して砂州が伸びていった
・江戸時代の地震と津波で今切口が切れた
・汽水湖になったので、うなぎの生育に適している

ただ、調べてみると、今切口が開いたのは室町時代(1498年)の地震のようだ。江戸時代(1707年)には砂州の切れ目がより広がったのだろう、渡船距離が6kmに伸びたと書かれている。できれば、もうちょっとその辺を正確に知りたいな、と思い始めた。

●浜名川の流れが逆向きになった

今切口について調べていると、もう一つ面白い事を発見した。浜名川の流れが逆転したと言うのだ。

浜名って呼称は遠州地方、それも浜名湖の周囲でよく用いられている。かつて浜松市と湖西市に挟まれた遠州灘沿岸の一帯は浜名郡と呼称されていた。まさしく舞阪町、雄踏町、新居町などだ。浜名湖は文字通り浜名であり、浜名高校って学校もある。でも、浜名川って聞いた事がなかった。初耳だ。

時代ものの絵図を見るとしっくりくる。「平安時代~鎌倉時代」の地図だと天竜川の砂州がずっと西方に流されており、浜名湖から遠州灘への水路がスーッと南西方向に伸びている。言わば砂州が取り残した部分だ。それが「鎌倉時代~室町時代 今切出現」の地図だと浜名湖のド真ん中に今切口が表れているのだ。

どうやら、浜名川は新居町にあるようだ。今切口から僅かに西側に位置している。その川が、かつて淡水湖の時代には浜名湖から西側に向いて遠州灘に注いでいた。ただ、それが今切口が開いた事で浜名湖が汽水湖になると、浜名湖の水がそのまま遠州灘に出ていけるようになったので、役割を終えた浜名川は逆向きになり東の浜名湖に注ぐようになったとか。現在の地図を見る限り、旧河口は役割を終えて涸れてしまったのだろう。

これはなかなか珍しい現象だしロマンがある。ブラジルのポロロッカは気象条件が揃った場合の一次的な逆流現象だけど、浜名川は周辺の長期的な地形変化によって川の役割が変わったと言うのだからスケールが大きい。

この現象はどんな地殻変動の結果もたらされたものなのか、概略次の通りだ。

最初、Wikipediaに載っていた地図(以下に転載)を漫然と見ていただけだったでは全くimageが湧かなかった。調べてみる事で、灰色部分を「明応地震後消滅した陸地」と記している意味をようやく理解する事ができたのだ。

平安時代には遠州灘と浜名湖には標高差があり、浜名湖の方が1mほど高地にあった。なので、浜名川も浜名湖から遠州灘へ南西に流れていた。ところが、室町時代の明応大地震(1498年)で浜名湖の水位が1m沈下して、更に地震に伴う津波で今切口が現れた。それは即ち、浜名湖と遠州灘の水位が等しくなって汽水湖に変わったと共に、灰色部分の土地が水没した事を意味している。結果として、浜名川の水の流れが反転したのだ。

改めてこの地図を見ると、現在の弁天島がどうして浜名湖の中に浮いているんだろう、村櫛(図の右上から垂れ下がっている村櫛半島)ではなぜ干拓を続けていたのか、そんな事が朧気ながら理解できるようになった。

<明応地震と浜名湖の姿>  ※この地図はWikipediaより転載

●浜名の橋と古典「更級日記」

さて、もう少し時代を遡ってみよう。
かつて平安時代から鎌倉時代にかけて、浜名湖と遠州灘を結ぶ浜名川に浜名の橋が架かっていたという。橋を架けられるほどに天竜川の砂州が成長していたのだ。浜名川の河口は今切口よりも西にあり、浜名の橋は浜名湖からの流入口(川の源流部)付近に掛けられていて、現在の湖西市新居町大倉戸にあたる。

そんな事をネットで調べていたら、平安時代の文学「更級日記」に出会った。同書は菅原孝標の次女によって書かれたもので、上総(現在の千葉県)の国司に任ぜられた一家が任地から京の都に戻る3ケ月の道中について記されている。

古典そのものは読んでいないが、同書を紹介した本・杉本苑子「古典の旅⑤更級日記」(講談社)によると、三遠地域だと浜名湖以外にもいくつかの地名などが登場している。順に挙げていくと
駿河: 富士川
遠州: 大井川の川会所(島田と金谷)、小夜の中山、夜泣き石
三河: 宮路山の紅葉、知立(池鯉鮒)、カキツバタの八橋
濃尾: 墨俣、輪中、不破の関
等である。

さて、京都から上総に下った当時は浜名湖に黒い丸太の橋が架かっていたが、京都に戻る際には舟で渡ったと書かれていた。その数年の間に橋が朽ちたのか、それとも地震や水害に見舞われたのか定かでない。ただ、丸太の橋が架かっていた時点で、もともとそれが暫定的な架橋であったと思われるし、交通に難儀していたのだろう。

それにしても、1000年以上も前の記録が京都から遠く離れた遠州地方にしっかり残っていた事に驚いた。そして、交通の要衝は交通手段の変遷だけでなく地形の変化にもしっかりと影響を受けているのだと改めて認識させられた。天竜川でも旧天竜市を歩いていると、史跡の案内板に筏師と言う言葉を発見するし、往時は川が人の往来の障害でもあったけど、物流に大きな役割を果たしていた事も本当なのだ。

●JR新居駅から今切口へ歩いてみる

湖西連峰や北側の引佐郡から何度も浜名湖を眺めていた。神石山だったり尉ケ峰だったり、晴れていれば浜名湖も太平洋も輝いていてその境目はハッキリ判らない。そんな旅が続いていたので、眺めていたその今切口をこの目で見たくなった。

実際に今切の西側にある新居の海寄りの場所を歩いてみた。新居は新居関所があった東海道の宿場町だ。JR東海道線・新居町駅から西へ進めば新居宿・新居関所跡があるが、湖西市の地図に沿ってあてどなく南東方向へ歩いていく。大凡1時間くらいあれば今切口まで辿り着きそうだ。ただ、その先端部まで立てるのか、どこかで行き止まりになっているのか、そこはお楽しみ。

駅から2~3分で川が目に入った。漁船とかレジャーボートが30艇くらい停泊している。もしかしてココが浜名川かと思ったけど、どこにもそんな案内板は無かった。ネットで「川の名前を調べる地図」を検索すると、やっぱりここが浜名川で間違いない。下図の青色が浜名川であり、右下の遠州灘が途切れている箇所が今切である。
<川の名前を調べる地図サイトで検索した結果>

大きな松の大木が並んでいるなあとボンヤリ思っていたのだけど、おそらくこれが東海道の松並木だろう。確かに今切口を渡って来て新居関所に向かうルートに当たっている。大通りの呼称も東門松風通りと書かれていた。

しばらく歩くと、左手に青く輝く湖面が見えて民宿や旅館が数件並んでいた。確かにこの辺りの眺望は最高だ。湖面もヤマも見える。案内板によると、天気が良ければ富士山や南アルプルの聖岳も拝めるようだ。おおー、海! と言いたいところだけどここも未だ浜名湖。穏やかなビーチがずっと伸びていた。遠くに2021年になって登った奥浜名湖の山々(尉ケ峰、富幕山、三岳山など)も見えているはず。2020年に何度も登った湖西連峰(神石山や大知波峠)からも何度となく快晴の浜名湖を眼下に眺めていた。今はその場所に立っているのだ。なんだか不思議な気分がした。ヤマの自分が今は海抜ゼロメートルの海辺に立っている。どちらも遠州地方の一コマなのだ。

今切の先端部に掛けてT字の構造物が4~5個も並んでおり、海釣りしている人で賑わっていた。左手を見ると、弁天島と浜名湖に架けられた橋を通って東海道新幹線の車両が行き交っている。コロナ禍で本数を減らしていると言っても、ボンヤリ見ているとそれなりの本数を眺めた事になる。そう、新幹線も東海道本線も浜名湖の中に浮いている弁天島を経由しているのだ。

今切は風が強い。この日は北西方面からの風が強く湖面も波立って来た。東海道の道中で大名はこのルートを通って新居関所を通過したのだが、確かにキツイかっただろう。しかも、今でこそ舞阪(浜松市)側と新居側の隙間は100~200mくらいの距離なので波や潮流が穏やかなら容易に泳いで渡れそうだ。でも、1707年の地震の後は渡船距離が6kmに伸びたと言い、大名や商人が往来するにはそんな事はできまい。女性や子供にとっては姫街道の方が明らかにラクだっただろう。そんな事が容易に想像できる風の強さだった。

今切口に着いた。正確には真上には浜名大橋が架かっていて車はスイスイ走行している。丁度そこに立入禁止の看板があって、その先には行けない。コンクリートで補強された尖端部には波が打ち返しているのが見えた。穏やかな浜名湖とは一変している。

<東海道の松並木が残る、今切口(新居側)は強い西風だった>

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これでコロナ禍の三遠南信の旅も一区切りとなった。灯台もと暗しで案外と知らないもので、歴史や地形に関する収穫も得られた。知らない所を探検するのが旅の醍醐味だけど、身の回りを深堀りしていく旅もなかなか愉しいものだと、コロナ禍で思わぬ発見をする事ができた。

(8)家康と信玄の峠道

前項までに書いてきた三遠地方の湖西連峰、直虎の舞台となった低山、姫街道、浜名湖などは、いずれもコロナ禍1年目(2020年春~2021年2月)に歩いてみた場所だ。
コロナ禍が続いているとこうした近隣を巡るミニ旅は次から次へと興味が涌いて、次の旅先がすぐ見つかるから面白い。
以前、BSイレブンに「世界の国境を歩いてみたら」って番組があった。なかなか観光しないエリアだけに、国境を跨いだお国柄の違いなどレポートしてくれるのが面白かった。実は日本の登山はそこそこ県境を歩く事が多い。例えば、北アルプスで白馬村から唐松岳に登ったつもりが尾根の越えた先で泊まった山小屋の住所が富山県だったとか。そうした事はよくある。同様に、三遠の県境を越える旅にもそそられるものがあったのだ。

●鳳来寺参道で見つけた案内板

阿寺の七滝へ行った翌年、鳳来寺山に登った。長い石段を登るとそこに鳳来寺東照宮があり、それは三大東照宮の1つに数えられるものだった。起き上がりこぼしのような恰好をした寅童子は、家康が寅の年、寅の刻に産まれた事に由来するのだろう。この鳳来寺参道にはアートな家康像も祀られている。
実は、もう1つ面白いものを発見した。それが、鳳来寺道や秋葉道、伊那街道など三遠地方の山間部を結ぶルートを示した看板だった。
東海道と姫街道は平野部に位置しているので人口も多く、車道が整備されている。でも、こちらは往時こそ参詣で人の往来もあったのだろうが、少なくとも21世紀の今日この東西のルートを歩く事は難儀だ。東海自然歩道が整備されているが、龍山村市ノ瀬から天竜区熊に抜けるトレイルなど舗装道路が途切れた場所でいきなり雑草が生い茂っており、進むのを躊躇してしまった。犬居城址から秋葉神社下社に下るルートもシダが生い茂って足元が隠れてしまい、およそ安全とは言い難い30分の道のりだった。
でも、このルート図によると、鳳来寺から東へずっと辿れていたって事。巣山には阿寺の七滝があり、熊、秋葉山、犬居と秋葉詣でのルートがあったわけだ。
あるHPに載っていた別の古地図には、鳳来寺から秋葉山への参詣ルートがもっと詳細に描かれていた。巣山が地図の西端にあって、そこから順に川宇連(かおれ、古地図では河宇連と表記)、神沢、熊村、石打、西川、戸倉と続いて秋葉山に至っている。1日で歩ける距離ではないので宿場が栄えていたのだろう。それと、この地図に載ってなくて当然だが、巣山集落の西にJR飯田線・三河大野駅や本長篠駅があり鳳来寺山はもうすぐそこだ。
いざ山間部を歩こうとすると、どうしても南の平野部からピストンで往復する事になってしまう。かつては、今ほどは平野部と郡部で交通・宿泊インフラの充実に差はなかったであろうし、山間部の往来も現在より頻繁にあったのだろう。交通手段が鉄道と自動車に置き換わった現代と昔の姿を見比べて想像してみるのも面白いものだ。

●三遠県境の峠道
湖西市と豊橋市の境界部に湖西連峰が南北に連なる。湖西市の地図だとその北端は行政上の境となる本坂峠だ。私も本坂峠を東西に越えた事で県境トレイルを踏破したと勘違いしていた。
でも、三ヶ日町など旧引佐郡(現、浜松市北区)の山を探検していくと、県境尾根がまだまだ続いている事が分かってきた。より北側の県境で目印になるポイントを南から順に挙げていくと次の通りだ。本坂峠の先になだらかな稜線が続いている。
・坊ケ峰
・中山峠
・宇利峠
・雨生山
・金山
・瓶割峠
・富幕山
・陣座峠

コロナ禍の晩秋から春先に掛けて、このルートをずっと辿ってみた。公共交通機関を使ってアプローチするので、どうしても思うに任せない。常に峠から入って次の峠まで歩く小刻みなスタイルになってしまうのだ。県境を歩く時間はそこそこ制限されてしまい、なかなか進まない。陣座峠まで辿り着いたのが2023年2月のことだった。
でも、短い距離を繋ぎ合わせて歩いた事で、峠ってなんだろうと改めて意識してしまった。
それにしても峠とは不思議な場所だ。どこも平地ではなくて下界からすると登った末に辿り着くところ。そして、山頂から峠に向かう時には常に下って行くわけで鞍部になる。

八ヶ岳を真横から眺めた時に思う事だが、まさに極小点や変曲点のような存在だ。私が八ヶ岳で初めて覚えた峠が雨池峠(標高2243m)だった。あそこは雨池(2070m)からガッツリ登り切った場所であり、また別の山行では縞枯山(2403m)や北横岳から下山して一息つく場所でもある。他にも有名なヤマだと大菩薩峠(1897m)と大菩薩嶺(2057m)が分かりやすい。
国境を越える峠は昔の暮らしでも使われた場所だったという。長野・新潟県境に信越トレイル(標高1000~1400mくらい)がある。私にとっては残雪期にスノーシューで歩く好きな場所だ。そこで、昔は飯山の村人が織物を織りあげると峠まで運んで旗を立てておく、それを見つけた越後の村人が織物を運んで代わりに海産物を届ける、そんな風習があったのだとガイドさんから伺った。

●ヘビの言霊
2022年の春先に雨生山と金山、中宇利丸山を回って宇利峠へ戻ってきた。この日はミモザ、キブシ、トサミズキ、レンギョウと黄色い花をたくさん見つけて収穫もあった。
朝は平山小学校前までバスを使えたのだけど、そもそもバスは1日4便なので帰りはアテにできない。しかも、峠から天浜線・三ヶ日駅まで歩くと1.5時間くらい掛かりそうだ。さて、もうひと踏ん張り歩くか。でも舗装道路は嫌いなんだな。
迷わずタクシーを呼んだ。タクシー会社は遠い県境まで呼ばれたのに驚いていたけど、しばらく待つとお迎えの車が来てくれた。
「お客さん、山登りするの。俺なんかヘビが嫌いだから、ヤマは歩かないなあ」
「えッ。登山していてヘビに出会う事はないですよ。田舎の集落のコンクリ法面をヘビ2匹がクネクネ登っているのは見た事あります。それと、川べりの舗装道路で見掛けたのはあるけど、登山道ではこの10~12年くらいで1回も見た事ないですよ」
と自信たっぷりに言い切った。正確には言ってしまったのだ。喋った瞬間すぐ後悔した。下手な事を言って、その後で祟りでも起きたら不味いな。運転手さんは被せるように脅かしてくる。
「ヘビは体を乾かすために雨の翌日とか道路に出ているヨ」
*
懸念した通り、2022年のヤマ旅でその直後からヘビに何度となく出くわす事になった。言霊とか信じないタチだけど、これには流石に参った。
愛知: 金山から中宇利丸山に降りていく砂利道
静岡: 瓶割峠から富幕山に向かう枯葉に覆われた登山道。更に同じ日に、富幕山から奥山方広寺に下山した舗装道路でも
埼玉: 鐘撞堂山からの下山する舗装道路
岐阜: 双六岳の山頂手前の登山道
過去12年ずっと毎月登山していて登山道でヘビに出会った事は一度もなかった。それが、2022年に限って5回もご対面だ。やっぱり言霊ってあるんだろうか。

●家康の東進ルート

今年、2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。歴代の大河ドラマの登場人物の中で最多出演を誇るのが家康公なのだ。確かに、信長、秀吉、信玄、正宗、直江兼続、光秀、利家、一豊と誰を主人公に据えても同時代を生きた家康は必ず絡んでくる。最近では幕末ものの「青天を衝け」でもナレーターとして出演して驚かせてくれた。
若き徳川家康は三河国を平定した後に遠江国へ領国を広げてきた。これまでは、戦国武将がどのルートを通ったのかなど考えてみた事もなかった。当然、自分が後年整備した東海道か姫街道(本坂通り)だと思い込んでいた。その中間地点にも多米峠(ここは登山道として県境を通過しただけで峠越えしていない)がある。
でも、それがそうでもなかった。陣座峠(標高297m、静岡県道303号線)から遠江に攻め入ったのである。この峠をそのまま南下していくと、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台、井伊谷がある。
中山峠は荒れていて豊橋側への下山ルートこそあるものの、三ヶ日側はヤブがひどくて下山できなかった。逆に三ヶ日側から登ろうとしても、今日では山腹にみかん畑が広がり、ずっと電気柵で囲まれているので峠道に取りつく事すらままならなかった。
宇利峠(標高150m)はなだらかな峠道だが、集落が比較的近い場所に形成されているので敵に気づかれやすい。
桜の花が綺麗な瓶割峠(標高235m)も捨てがたい。この付近はすぐ北に世界の桜の園(新城市)があり、南の三ヶ日側も春になると山肌がピンク色に染まる。ただ、視界はすぐに開けてくるのが厄介だったのか。
こうして本坂峠より北側の峠をリアルに歩いてみると、なるべく遠江の手近な城まで気付かれずに接近するには陣座峠が最も安全な侵攻ルートだと分かる。
陣座峠から奥山方広寺方面に歩いてみた。県境からやや下に砕石場があって、その先を30分ほど歩くと新東名高速の高架橋をくぐる。更に延々と舗装道路を南下していく。家康もこの道を通って井伊谷に向けて進軍したんだな。400年前に思いを馳せてみた。確かにこの道なら敵の警戒心を煽らせなくて済むんだな、と納得した。

●信玄の三遠侵攻ルート

三河と遠江の山間部で家康を苦しめたのが武田信玄。今川氏の衰退を機に甲斐の武田信玄は南進して駿河国を落とし、更に遠江国や三河国に攻め込んできた。この地域で歴史上有名なのは信玄の三方原の戦い、そして武田勝頼の長篠の合戦だ。
彼等はどのように侵略を試みたのであろうか。駿河(静岡市)を落とせばそのまま東海道に沿って西に進軍すれば良さそうだ。
信玄は軍勢を複数に分けて遠江に侵攻してきた。東海道ルートの他に、南信濃から青崩峠(信州との国境)を経て犬居城(清流気田川の西)まで南進する。そこで、案内役・天野氏を得て要衝の二俣城(天竜川と二俣川の間)を落としている。
また別動隊は奥三河に回り込み長篠城を攻めてから、的場峠(陣座峠の北)を通って遠江・伊平に襲い掛かってきた。それらの軍勢が一塊になってなだれ込み、三方原の戦い(1572年)に至る。家康を蹴散らしたあと、信玄は緩やかな宇利峠(陣座峠と書かれた説もある)を抜けて三河の野田城攻めに向かっている。
それから僅か3年後、長篠の戦い(1575年)では武田勝頼も二手に分かれて進軍した。勝頼は長野県茅野あたりから南下して犬居、二俣を経て西に進路を変えて三河国に侵攻した。この時の国越えルートも宇利峠と陣座峠の2説があるようでハッキリしていない。
*
はて、家康も信玄もどうして平野部を進む事なく敢えて山間部を往来して他国に侵攻したのだろうか。
1つには前述のように敵に悟られないためだ。二手に分かれて挟み撃ちする作戦も有効な術だろう。また、信玄の領国は甲斐や信濃など山国だったので、三遠の山道を進軍する事にさしたる苦労を感じなかったのかも知れない。他にどんな理由があるのだろうか。
2023年に入って、長篠城址を訪れた。そこで2つの事を知った。
1つは武田勝頼が正式に武田の家督を継いでなく先ずは力を蓄えるように諭されていた事。長篠城址史跡保存館に遺された古文書を見ると、遺言で「信勝(勝頼の子)に家督を譲り勝頼はそれまでのつなぎとする」、「自分の死後3年間は力を蓄えるべく他国に攻め入るな」と書かれていた。これは勝頼本人にとって承服しかねる内容だっただろう。
もう1つは東にあるヤマの存在だった。長篠城は豊川と宇連川の合流地点に造られており、すぐ傍に延びるJR飯田線の線路は長篠城の堀を一部壊して敷設されたものだった。で、線路と宇連川の向こうに聳える鳶ノ巣山(標高706m)を見上げた。鳶ノ巣山は武田の別動隊が陣を構えていた場所だった。
鳶ノ巣山。はて、このヤマの名前をどこかで聞いた事がある。そう、弓張山地は赤石山脈(南アルプス)の支稜線であり、その基点となっているヤマが鳶ノ巣山だった。県境の山塊はかくも戦国の両雄に縁が深かったのか。
これまでJR新所原駅から陣座峠まで県境トレイルを歩いてみたものの、弓張山地の稜線はまだまだ長い。陣座峠からここまで稜線と辿ってみることで、もしかすると戦国武将の思いに近づけるかも知れない。また次の冬にこの県境トレイルを歩いてみよう。

<三方原の戦いにおける信玄の進軍ルート> ※浜松城天守閣にて

【註】参考資料

(6)項を記述する際には、細江町の歴史民俗資料館に置かれていたパンプレット類を参考にしました。同様に(7)項においては、杉本苑子「古典の旅⑤更級日記」(講談社)、及び以下5つのサイトを参照しました。
・Wikipedia
・川の名前を調べる地図
・更級日記紀行
・浜名商工会庄内支所サイト
・「・・デジカメ持ちある記・・」サイト

https://river.longseller.org/rc/2200810002.html

https://sarasina.jp/

www.hamana.net/shounai/rekisi/rekisitop.htm

http://www2.odn.ne.jp/mochiaruki/iseki/hamanagawa/hamanagawa.htm

また、鳳来寺で見つけた看板に絡んで、以下サイトを参照しました。
・遠州の街道を歩こう&寺島の歴史を探る

http://www2.wbs.ne.jp/~ota/

【2021.3.31追記】(7)項に明応地震による地形変化の記述、並びに「更級日記」に関わる記述を追加しました。
【2022.6.23追記】 タグを追加しました。
【2023.3.29追記】 (8)章を追加しました。

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