【長編】イエメンの果てに飛ぶ(前半)

アラビア半島の尖端にあるイエメンの旅行記です。2006年に首都サナア、ハドラマウト地方のシバーム、ムカッラ、ソコトラ島を歩きました。お読み頂いた上でご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。

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(1)石膏のランプシェード

友人にアラブの国に出掛けると告げると「魔法のランプが欲しい」とか「アラブっぽいお土産がいい」とか子供みたいなリクエストを受ける事がある。流石に空飛ぶじゅうたんは機内持ち込みできないので買った事がないけど、チュニジアやトルコで古ぼけた魔法のランプを買ってきた時もある。

イエメンでは首都サナアの旧市街を彷徨っていた時に、石膏のランプシェードを買い求めた。タテ10cmくらい、ヨコ15cmくらいで、赤、青、 緑、 黄色のガラスが内側から嵌め込まれている。裏表とも同じデザインでなかなか綺麗だった。上に開いた小さな穴から豆電球を垂らせば、オシャレなランプになる。1つは「イエメンに行きたい」と言っていた友人に渡した。もう1つはウチの畳の上に転がっている。

イエメンはアラビア半島の先端にある。モカ・コーヒーのモカはイエメン南部の都市の名前である。付け加えると、コーヒーや砂糖の語源はアラビア語で、それぞれcoffeeはカフア、sugarはスカルとその名残りが感じられる。

かつて北イエメンと南イエメンに分かれていたが、私が旅した2006年には統一されたイエメン共和国だった。当時、サレハ大統領が再選されるべく選挙が実施されている時期で、子供達は自慢げにサレハ大統領のポスターを両手で広げて見せてくれた。そんな写真も何枚か撮った。

中世アラビアンナイトの世界が広がっている憧れ国、そんなイメージが流布されていたけど、アラブの白い装束(カンドゥーラ)や白いワイシャツの上に背広のジャケットを羽織っている姿は何ら不釣り合いではない。短剣(ジャンビーヤ)もひっくるめてなかなかにカッコいい。

残念ながら、ここ10数年ほど容易に入国できる国ではない。2010年にチュニジアで始まったアラブの春は北アフリカからアラビア半島まで一気に広がった。その中で、チュニジア、エジプト、イエメンなど私が訪れたアラブ諸国はことごとく政情不安に陥った。例外なのはヨルダンくらいだ。

なので、自分は本当にイエメンの大地を歩いたのだろうかと、自分の記憶を疑ってしまう時がある。それほど記憶とは曖昧なものか。ただ、サナア旧市街で買ったランプシェードを見るにつけ、確かにリアルな旅だったと確信する事ができた。
<ランプシェードの外側、内側 >

(2)泥の高層マンションに魅せられて

旅行好きの会社の後輩と呑んでいた。旅行好きとは言えレバノンやシリアに行く人はまだまだ珍しい。しかも女性だ。その後輩に「次はどこに行きたいの?」と聞くと一言だけ「イエメン」と返ってきた。その時は、あのお菓子の国みたいな茶色い建物が並んでいる国かぁ~。もしかしてイエメンならば、21世紀にあっても空飛ぶじゅうたんが実在するかも知れない。これまでにチュニジア、トルコ、ドバイを旅してきて、何処も気に入っていた。その流れでイエメンも旅先の候補に入れておこうか、そう最初はその程度の意識に過ぎなかった。

夏休みが近づいてくると、旅のターゲットがハッキリ決まっている場合もある。そうなればあとは航空券を手配するだけの事。旅先が絞り込めなくてモヤモヤしている年は、いつも書店の旅行コーナーであれこれと物色している。以前は手作り感が満載の「遊星通信」がいつの間にか綺麗に装丁された「旅行人」に変わっているのを発見した。「旅行人」の蔵前仁一さんには影響を受けており、私にとっては感謝すべき人だ。かつて「ゴーゴー・アフリカ」(上下巻)を読んで、なんだ西アフリカも旅行できるのかって調子に乗せられて、ついマリ共和国まで旅した事がある。地球上にいろいろな国があるだろうけど、内戦地帯を除けばマリのプリミティブ(原始的)な様相はその極地であり、あそこを旅したのだからもうあとはどこでも旅できるだろうと自信を持てたものだ。

で、この時に平積みされていたのが「旅行人」のイエメン特集号だった。サナア旧市街もいいのだが、そこで初めて目にしたのがハドラマウトの乾燥した大地とそこに林立する地上7階建ての泥のマンション群だ。見開きの写真に、ザックリ50棟くらい映っていたと記憶している。西アフリカにある泥のモスクも強烈なインパクトがあったけど、もう2000年以上前から7階建てのマンションに住んでいるって事実になんだか興奮した。泥のモスクは壁がヘタレたら塗り直せば済む。でも、泥のマンションって生活の場なので、そうしたメンテナンスが不要なのか。砂漠地帯でほとんど雨が降らないからこそ維持できるのだろうけど、一体どんな場所なんだろうか。

(3)サナア空港で国内線チケットをゲット

9月某日、エミレーツ航空のドバイ経由の国際線チケットだけを握りしめて、「中世のアラビア」と称されるイエメンに入国する。ここまではエミレーツ空港の快適な旅の筈だった。ただ、エミレーツは灼熱の砂漠が広がる中東のキャリアとあって、機内のエアコンがギンギンに効かせている。おそらく主要キャリアの中でここが一番冷えているんじゃないか。中東のカタール航空にも搭乗しているけど、それよりガッツリ冷えている。以前にもエミレーツの冷気にやられて風邪をひいたのだが、この時もサナア空港に降り立ってようやくその冷凍庫から解放された感じだった。

アラビア半島の先端に位置するイエメンの首都サナアは、標高2300mと高地にあるため熱さを感じる事はなかった。サナア国際空港は平屋建ての小さな建物だった。サナア旧市街は旅のラストに回ればいいとして、まずはハドラマウトに飛びたい。サラリーマンの夏休みは周囲の目もあってせいぜい10日程度しか確保できない。なので、旅の目的地が複数あった場合に出たとこ勝負の無計画旅だと必ずしも全てを回れるとは限らない。まずは第一希望の場所に行ってしまうのがオススメなのだ。

シバームへゆくのに最寄りの街はイエメン東部のセイユーンだ。この時期、イエメン中央部はテロ危険地帯に指定されており外国人の誘拐事件も発生しているので、イエメン北部のサナアからバスで移動する事はできない。なので、飛行機でイエメン東部のセイユーンへ飛ぶつもりだ。とは言え、国内線のチケットは持っていない。

こういう時にコンパクト・サイズな空港はラクだ。サナアには国内線専用の空港がある訳でもなく、どうにか探せばなんとかなるだろうと決め込んでいた。航空会社のオフィスを覗いてみると、アラブ系の先客5~6名がスタッフの周りを取り囲んでいる。私も割り込もうとするが、これでは順番が来るまでどれだけ時間が掛かるのか分からない。うーん、と困った顔をしていると航空会社のスタッフがこちらを向いて声を掛けてくれる。ラッキー!

「セイユーンまで行きたい」
「今日の午後便で空席があるぞ。いつサナアに戻って来るんだ?」

呆気なく、サナア/セイユーン往復チケットが獲れた。締めて160米ドル。こんなにスンナリと事が運ぶとは思わなかった。一度サナア市内に出てしまえば貴重な時間をロスしてしまう。もし翌日のフライトだとどうしても初日の行動が制限されてしまう。それだけに、数時間トランジット・ルームで待つだけでセイユーンまで飛べるとは有り難い。

(4)イエメンに純白の砂漠が広がっている

イエメニア航空の国内線でセイユーンに向かう。機内ではCAさんが乗客を数えながら「アシュラ、アシュラ」と呟いている。アシュラって阿修羅原しか思い浮かばない。元ラガーマンのプロレスラーでアラブ男のようにヒゲを蓄えていたな。念のため訂正しておくとアシャラはアラビア語で10なので、10名ずつカウントしていたのだろう。ちょっと脇道に逸れてしまうが、アラビア文字の2とか3は現在の文字を右に90°回転させてスーッと線を伸ばしたもの。確かにアラビア文字が数字の期限だと分かる。アラビア数字は紛らわしいのもホントだ。涙の形をしたゼロが5を表して、ど真ん中の点がゼロを意味するので、中東でお札を手渡しする時につい混乱してしまう。

1時間程度のフライトだ。何のことはない。が、軽く手に取った機内誌で驚きの写真を発見する。「Socotra Island」と書かれた英語とアラビア語の特集ページがあったのだ。そこに純白の砂漠が広がっているではないか。どうやらイエメン国内の観光地のようで、インド洋に浮かぶ小さな島だ。アラブの島にリゾート地帯があるのか、いやイエメンはリゾートって柄でもないだろう、と悶々とする。

砂漠好きな私としては、この写真に完璧に惹き付けられてしまった。しかもそれが、褐色のナミブ砂漠(ナミビア)や中東によくありそうなマイルドな色合いの砂漠(ドバイとか)ではなく、純白の色合いにやられた。と言うのも、その前年にブラジルのレンソイス大砂丘に行ったばかり、あの素晴らしい光景がここイエメンの片隅に存在するのだ。そう思うと興奮してしまった。折角サナア/セイユーンの往復チケットを買ったばかりなのにもうキャンセルする事を既定事実のように突っ走っていた。わざわざ「幸福のアラビア」まで来て、その幸福な砂漠に出向くチャンスを逃す訳にはいかないのだ。これからハドラマウトで憧れの泥のマンションを見られると言うのに、イエメニア航空の機内では心ここにあらずドキドキしてしまった。

改めて地図で確認すると、イエメン本土よりもアフリカの危険地帯ソマリアに近い。もしかして海賊が出没しているやも知れないワイルドな島だったのである。因みに、ソコトラ島は私が訪れた2年後、2008年に世界遺産に登録されている。
<私の砂漠遍歴>

私が訪れた世界の砂漠(前編) | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)

私が訪れた世界の砂漠(後編) | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)

(5)セイユーンの道端で黒ずくめの少女と話す

セイユーン市内に到着。サナアと違って思いっきり熱い。と言うか、セイユーンがイエメンに入国して初めての街だった。街角の安食堂には屋外にテーブルが並べられており、人々が午後のひとときを寛いでいる。日本人観光客はかなり珍しいのだろう。イエメン人は私の存在を全く気にしないように行きかっていた。店先でチヂミのような粉ものと生絞りレモネードを頼んで一息いれる。喉が渇いていたのですぐに呑み干した。余りの暑さでバテそうだった。因みに、イエメン初日のこの日、日記帳にはジュースを10本呑んだと書いてある。

街にそこそこ車が走っている。大した交通量ではないが、如何せん暑苦しいので砂埃を巻き上げて走っていくのをウルサく感じた。荷台の付いたトラックが目立ち、荷台に板を敷いた椅子に黒ずくめの女性が何人か乗っているのが見えた。アバヤを着た黒ずくめの女性をリアルに見るのは初めてだ。黒い布を全身に纏っているだけと言ってしまえばそれまでだが、年齢も顔も判らない不気味な存在だ。

シバーム行きのバスを探している最中に、道端で黒ずくめの女性から「ハロー!」と明るく声を掛けられた。アラブ世界ではよそ者の男が女性と話して何かトラブルにならないものか余計な心配をしてしまい、一瞬たじろぐ。やや小柄で、声からして10代の少女だった。手に短い棒切れを持っていて、ヤギ追いをしている所だった。

「どこの国から来たの?」
「日本だよ」
「ヤギは何頭くらい飼っているの?」
うん? 彼女にとってそこが英語の限界だったのか、会話は止まってしまった。ぎこちない笑顔で終始したが、決して雰囲気が悪くなったものでもない。

全身黒づくめの姿で、僅かに目の辺りだけ細く隙間が空いている。なので、どんな表情をしているのか確かめる事もできない。TVで見るアラビア女性って、家の中では黒づくめのアバヤを脱いでカラフルに着飾った姿ながら、外ではイスラムの教えに則して見えない存在に徹している。だから、アラブ女性との接触は見えない壁に遮られていると思い込んでいたが、そんな勘違いを打ち砕いてくれた事が素直に嬉しかった。

因みに中東アラブ世界のどこでもこのアバヤに包まれている訳ではない。私が旅した限りではイエメンがもっともイスラム教の教えに忠実だった。他の国では黒いスカーフを纏っている程度だったり、マレーシアだと薄いグレーのスカーフなので存在を消すほど大袈裟なものではない。

(6)イエメンのマンハッタン

シバームの泥マンション群に向かう。泥のマンハッタンは圧倒的な存在感で道路の右側に姿を現した。沈んだ茶色の泥で固められたマンションが林立している。まだ陽が高い午後2~3時くらいだった。殆ど人の気配がない。まさか、もしかして今では誰もここに住んでいないのか。しばらく辺りを彷徨う。

確かに泥のマンションは地面から垂直に立ち上がっている。綺麗な造形だ。こんなプリミティブな建造物が2000年も残って(現在の建物は16世紀以降のもの)おり、しかも現役で使われているのを目の当たりにすると驚く。最近ではマンション内に水道を引くようになったので、水漏れで内部から建物が崩れる事があると言うが、それ以前は雨も降らないのでずっと無傷だったのだろう。近年はSDGs(持続可能な開発目標)が要請されているけど、寿命がきて潰したとしても土に還るだけなので、シバームの泥マンションは将にエコそのものだ。事実、セイユーン郊外でその崩れた遺構を目にしている。

シバームの遠く北側だろうか、ずっと高い崖地が続いていた。シバームの泥のマンション群よりも標高が高い。はて、このマンションはどのように造ったのだろうか。日干し煉瓦を固めて積み上げていったのか、それとも背後に連なる崖地をくりぬいて四角く切り出していったのだろうか。流石に切り出すのは途方もない労力が必要であり、日干し煉瓦が順当なところだろう。壁は平板に塗られており、角はキッチリと90度に曲がっている。建物の角も上端の突起部も丸っこい形状が特徴的だった西アフリカのマリ共和国で見たモスク(先端部が高さ3階くらい)や泥の家(平屋)のような雑な造作ではなかった。ただ、写真家・野町和嘉の著書「メッカ」に「シバームの仮装部に窓も戸もなく城壁を兼ねていた」と書かれているが、そこまでの観察眼は持ち合わせていなかった。

中東のマンハッタンを見回していると、子供が顔を出した。どこに行っても笑顔で歓迎されるものと信じて疑わないのが日本人旅行者の習わしだが、イエメンの子供はその想像を裏切ってきた。なんと石を投げられたのだ。小石を2つ。よそ者は出ていけって事なのか。

逃げる筋合いはないが、子供相手に反撃するのも大人げない。何より異国の地でトラブルは避けたいので、東西の大動脈とも言える唯一の舗装道路を渡ってだだっ広い空き地の木陰に座って泥のマンハッタンを遠目に眺める事にした。17~18才くらいの少年2人がやって来て「何しているのか」と問う。彼等は地元の少年だった。少し当たり障りのない会話をした。お互いにハドラマウト座り(布で下腿と背中を縛った状態で体育座りする姿勢)して、頭のターバンが暑さよけに役に立つんだと教えてもらう。お互いに英語が拙いのでほどなくして沈黙したまま、並んで泥のマンションを見ていた。

この泥のマンハッタンは一体どれくらいの数があるのだろうか。一瞥すると100棟以上はありそうだ。帰国後に上空から撮った写真をネット検索してみると、裕に500棟はありそうだった。しかも建物どうしが詰んでいる。ニューヨークのマンハッタンなら道路が2列幅、4列幅あるだろうけど、この泥マンションの区画はせいぜい馬車が往来できる程度のわずかな幅だった。

この泥のマンションはおおよそ6~7階建てだ。タテヨコいずれも規則的に窓が配置してある。でも、よくよく見ると大きな窓と小さな窓がタテに交互に並んでいる。いくら雨が降らない地域で頑丈な建物だとして、あの2種類の穴はどんな意味があるのだろうか。そもそも大きい穴が上にあるのか、それとも逆なのかハッキリ判らなかった。できれば、内部見学ツアーなどあれば嬉しいのだが、この土地は観光客馴れしていないので下手な申し出を試みるのも憚られた。

陽が傾いてきたのでマンション街に戻ってみると、住人たちが屋外に出てきていた。アラビア半島の過酷な暑さを避けるために日中は屋内でやり過ごしていたのだろう、少しずつ賑やかになってきた。別の子供たちはポスターを広げて見せてくれる。それはイエメンのサレハ大統領(現職で任期1978~2012年)の選挙ポスターだった。2006年9月はちょうど大統領選の期間中で子供たちもどこまでその意味を知っているのか、大統領の写真を自慢げに見せてくれた。

私達は日本で暮らしているので民主主義や資本主義が当たり前のもので、改めてありがたいものだと意識するものでもない。中東では独裁的な指導者がずっとその地位を守ってきた国が多い。イラクのフセイン大統領もそう、イエメンも北イエメンと南イエメンで内戦を繰り広げていた時期を経て、私が旅した時期はサレハ大統領がずっと政権を維持していた時期だった。独裁国家の良し悪しはさておき、そうした政権下において国民には一定の安心安全が担保されているのもホントだろう。独裁と聞いて抑圧された印象を受けるのだが、大抵はむしろその独裁政権が崩れたあとに内戦と混乱の時代が訪れてしまう。

あと、これは穿った見方かも知れないが、どうしても日本人は白人に対してコンプレックスがあるように思えてならない。イエメン旅行記を書いている2022年3月現在、ロシアがウクライナ侵攻して多大な被害が生じている。それは確かなんだろうけど、事細かくキエフ等の映像が映し出される。でも、それはイエメンなど他の中東やアフリカの紛争地帯でも悲惨な状態に陥っていた点では同様だ。なのに、ウクライナ侵攻ほどには報道されてこなかったのは些かバランスを欠く。

ただ、私に政治的なコメントを綴っていくだけの素養がないので、これ以上の深入りは避けておきたい。
<サレハ大統領のポスターと一緒に、泥のマンション>

(7)日干し煉瓦はいくつ必要なのか ―二次方程式で考える―

シバームの泥のマンハッタンからちょっと離れて、脇道に入ってみよう。

長沼伸一郎の数学本はその本質を独特の切り口で解説してくれるので、なかなか面白い。彼の「物理数学の直感的な方法」から引用すると、数学における「ルネッサンスの大発見もアラブの焼き直し」であり、「代数学の部分はイスラム文明によって確立されている」と言う。

はて、それって何なのか。例えば、以下の方程式を見てみよう。
x^2+16x=57

これまで、中学や高校で普通に数学を習ってくると、この式を見た瞬間に因数分解する事、それと二次関数のグラフを描くくらいしか頭に浮かばなかっただろう。私もすぐにそんな条件反射にハマった。

x^2+16x-57=0
(x-3)(x+19)=0
答えx=3、-19

ただ、イスラム世界ではこの式に全く違う解釈を与えていた。正方形を9分割した図形を使って解説しているのだ。

図の真ん中にあるのが辺の長さがxの正方形なので、xの二乗に対応する。次の16xは4つの4xに分解すると辺の長さが4とxの長方形になるので、図のB部分を意味する。で、それら5つの面積を合わせたものが57になる事を右辺が意味していると解釈するのだ。xの2乗は底辺の面積と考える事ができる。それを2倍すれば天井の面積もまとめて計算できる。16xは高さ4、幅xの側面と考えれば、壁の面積と考える事もできる。現代の小学生に説明するなら立方体の表面積を求める式になる。古代から続くシバームにおいては日干しレンガの個数を数えるのに役立ったんじゃないか。

この図形からは因数分解する事で得られるマイナス解こそ導出されないものの、タイルの枚数を数えるなど旧市街の建設に必要な計算をこなすには十分に事足りそうだ。これまでの中学数学や高校数学ではこんな角度から二次方程式を眺めた経験がなかったので、何とも新鮮な気持ちになった。わざわざマイナスや二次関数がなくても家を建てる時にタイルやレンガの数をあらかじめ計算できそうなのだ。

因みに、アラビア数学のxに相当する部分をシズル(根)、x二乗に相当する部分をマール(財)と呼ぶ。確かに二乗で急激に増えるイメージを財と表現するのは的確だ。

<上:現代人の発想、下:中世における二次方程式の理解>

図形Aと4つの図形Bからなる十字形に4つの図形Cを補って大きな正方形を作る。その正方形をタテヨコにずっと展開していくと、テーブルクロスのような模様ができていく。ここにセンス良く器用に斜線や円弧を加えていくと、イスラム建築で有名なアラベスク模様が浮かび上がってくる予感がする。これはまさしくアラベスク模様の粗い設計図になりそうではないか。やっぱり数学は綺麗かつ面白い。

<大小の正方形を並べていくとテーブルクロス模様になる、モロッコ・カサブランカのハッサン2世モスクにて>

実際のイスラム建築で確かめてみよう。モロッコを旅した時に、カサブランカのハッサン2世モスクを見学した。その天井には四角形を基調としたアラベスクが描かれている。大きな正方形と小さな正方形がベースとなって、その中に細かなデザインが施されている事が分かる。さらに言えば、斜線に注目して45°傾けて目を凝らして見ると、もう1つテーブルクロス状のデザインが埋め込まれており、より複雑な印象を与えてくれる事に気付かされる。

【註】この項は放送大学「数学の歴史」5章を参考にした。

(8)セイユーンの街中

街の中心部に宿を得る。悲しいかな、窓枠が上下に2つあって上の方には窓ガラスが嵌まっていない。2階だから治安の問題はないだろうし1泊だからまあいいかと思った程度。昼間は屋内の方が涼しかったので気にならなかったが、夜いざベッドに入っても暑くて眠れない。これだけ暑いと窓枠なんて無駄なんだと判る。窓の半分は閉まった状態なのだし、少しでも外気が入って涼しくしてくれた方がありがたいのだ。それと窓が高い所にあるので、自ずと天井は高くなり、熱気は上に上がって体感温度は気休め程度には下がっているんじゃないか。

はて、それにしても窓が2段重ねになっているのはどうしてだろう。思えば昼間ボーッと眺めていたシバームの泥のマンションも同じような形状だった。あそこでは小さい窓と大きな窓が上下交互に付けられていたのだ。最初は大きな窓の上に梁があるように見えたので、大きな窓が通気と採光のため、小窓は床のゴミを捨てるための小窓をくり抜いているものと想像していた。でも、ビルの一番上に付いているのは小窓だった。いざセイユーンの安宿に泊まって眠れない夜をやり過ごしてみると、やっぱりあれも暑さを凌ぐための工夫だったんじゃないかと思い直してみた。
<ホテルの窓がどうして2つあるのか( セイユーンの宿、シバームの外壁 )>

セイユーンの街中に白いパレスがあった。入ってみようとしたのだが、ムスリムじゃないと無理だと断られる。「いやいや、俺はイエメニアン(イエメン人)だよ」だと判り切った嘘をついてみるけど、ムチャだった。笑われて終わり。でも、何故ムスリムでないとダメなんだろう。イスラム世界では時々理不尽な扱いを受ける事がある。ヨルダンのペトラ遺跡を訪れた時にも、高い入場料を払わされた。でも、仲良くなったヨルダン人の話だと「入場ゲートに書かれているアラビア語が読める奴はタダで入れる」と言うではないか。ここイエメンでも割り切れないものを感じながら、ふらふらとセイユーンの街を歩く事にした。

とにかく頭の中はソコトラ島の白砂漠で一杯だった。セイユーンの街はそんなに大きくない。旅行代理店はすぐに見つかり、ソコトラ島へのチケットを得る。ただ、セイユーンからダイレクト・フライトはなかった。アデン湾沿いのムカッラまで車で移動すれば、島へのフライトがあると言う。

ムカッラまで5時間車で移動する。セイユーンの郊外には崩れて廃屋になった泥のマンションがいくつもその姿を晒していた。確かにエコなんだな。その先はずっと果てしなく続く岩の大地。9人乗りの乗合タクシーに押し込められて、他の客は全てイエメン人のむさくるしい男たちで、長い道中に誰も喋らないので不安になる。沈黙の中でボーッと車窓を眺めていた。岩の大地の中に1本の舗装道路が続いており、そこをひたすら走って行く。舗装道路の真ん中に何度も水溜まりを発見する。オアシスでもあるのかとぬか喜びするのだが、それはあまりの暑さで発生する逃げ水。そう、乾燥し切って何も人工物のないハドラマウトの大地をひたすら南下していくのだ。
<アバヤを纏った女性たち、軽食>

(9)ソコトラ島にはミネラル・ウオーターがない

ムカッラからアデン湾を跨いでソコトラ島に渡る。旅は予定調和では面白くない。いつも出たとこ勝負なのだ。

イエメニア航空の機内は満席だが、白人もアジア系も見当たらない、思いっきり中東のむさ苦しい香りに包まれていた。久々に異界に突入していくような錯覚を覚える。ホテルも観光ルートのアテもない。ただ、国内線の機内誌の写真だけが頼りでいかにも心許ない。

「地球の歩き方」に載っていないソコトラ島ってどんな場所なのか。帰国してから調べてみると、面積は3796k㎡で埼玉県(3798K㎡)とほぼ同じ、人口は4万人なのでナミビア(南アフリカ西岸の旧ドイツ植民地で人口密度が最もまばら)並みに閑散としている。

飛行機を降りると空港スタッフが名簿で乗客を確認している。で、その名簿を覗き込むと、「xxxx△△コ」と明らかに日本人っぽい名前があった。異邦人だからチェック用なのか私とその人のところだけマーカーでハイライトされていたのだ。こんな孤島で仲間がいたらホント助かる、そんな思いに駆られて慌てて周囲を見渡す。それらしき女性に声を掛ける。

「日本人ですか?」
「はい」
「観光ですか?」
「僕もそうなんだけど、何も情報も持ってないのに、白砂漠の写真に釣られてつい来てしまいました」
「私は日本でいろいろ調べてきたヨ。この島にはホテルが……」

そんな会話をしていると、一人の男が近づいてきた。インド洋の孤島に充実した観光案内所があるとも思えないし、ちょうどいい。ここは成行に任せる事にした。で、サミーと名乗る男に連れられて、近くのホテルに宿を取る。名前こそタージ・ホテルだがあのインドの5つ星ホテルとは当然ながら関係ない、2階建てのローカルな存在だ。

サミーは「飛行機は明後日までない。自分がガイドするヨ。今日は海岸線沿いをドライブしよう。明日はドラゴン・ブラッド・ツリーを見に行こう」と誘ってくる。

私ともう1人の女性(アキコさんとしておこう)、日本人2人は何ら異存ない。私はソコトラ島の純白の白砂漠が目当てなのでそれさえ拝めれば他はお任せで構わない。2人でその誘いに乗った。

さて、ここで大きな問題が発生した。私はお腹が弱いので、旅先では生水を飲めないタチだ。インド旅でデリーからバナラシへ向かう寝台列車ではインド人からウイスキーの水割りをご馳走になって、思いっきり腹痛に苦しめられた。フィリピンのマンゴーシェイクでは3日ほど弱った経験もある。とにかく生水は禁忌だ。

「先ずミネラル・ウオーターが欲しい。無いと困る」と伝える。サミーは同意してくれ、ビーチに行く前に何軒が小さな商店を回ってくれる。なのに、「ノー」、「ナッシング」と繰り返されるばかりで、ごく当たり前に買える筈の水が手に入らないのだ。

もしかしてここソコトラ島の住民は海水から塩分を取り除いて飲用水としているのか。それとも、海水を難なく飲めるアラビアン・パワーが備わっているのか。確かにドバイのジュメイラ・ビーチは日本の海岸とは異なり思いっきり塩分濃度が濃い。更に言えばヨルダンの死海は塩水のしぶきが目に入るだけでも、痛くてヒリヒリする。

それとも、井戸水でも湧いているのか。サミーに訊くと驚くような返事が返って来た。
「ここ1ケ月ほど海が荒れていて運搬船が着岸できていないんだ。それでイエメン本土から物資が届いていない」

えっ~?! 島暮らしってそんなに大変なのか。
「でも、飛行機は飛んでいるじゃないか?」
「旅客便が週2便だけなんだ」

イエメン旅から帰国して数年後、自分がソコトラ島を旅したなんて忘れた頃にこの島の名前を目にする事になった。会社でメールを開くと、オフィシャルなメールの最後に何故かこの島の名前が出てきた。何? 彼はどうしてこんな世界の果てにあるローカルな名前を知っているのか。本人に聞いてみると、北杜夫「どくとるマンボウ航海記」にソコトラ島が登場するのだと言う。確かに本屋で立ち読みするとこう書いてある。

「ソコトラ島の下を通過した朝、(中略)雲か水かわからぬように、広大な陸地が見えはじめた。アフリカ大陸だ。」

旅の最中には、この珍しい島を歩き回るのに必死だったけど、もしかして目を細めてみればアフリカの大地、ソマリアの海賊とご対面できたのかも知れないな。そう、それほどまでにソコトラ島はイエメン本土からポツンと離れた一軒家のような位置にあるのだ。

ソコトラ島に一体どれだけの商店が軒を連ねているのか分からない。あっても10軒、20軒のレベルじゃないか。もしこのままミネラル・ウオーターが見つからなかったらどうしよう。下痢が怖くて生水は飲めないし、ずっと炭酸飲料やスープで凌ぐのだろうか。まさかの緊急事態だった。5軒目くらいだったろうか、海沿いにポツンと立つ小さな個人商店でようやく水にありつけた。ここで、ペットボトルを4本買い求める。将に命の水だ。

(10)ソコトラ島の碧い海と暗い鍋

ようやく水を調達できたので、安心してソコトラ島観光に出発する。ゴツゴツした岩場が続く海岸つたいにドライブしていく。どこまでもエメラルド・グリーンの綺麗な海が広がっている。海の色は一様でなく、遠くにターコイズ・ブルーも見える。あー、カヤックしたい!

綺麗な海で思い浮かぶのはパラオ。ただ、パラオと言えど海岸線沿いでこれだけ美しい海面に出会える訳ではない。ボートに乗ってアイランド・ホッピングしてようやくその絶景を拝めるもの。ソコトラ島の海は正にエメラルド・グリーンの海と陸続きのような近さだった。

海岸沿いの道路を誰も歩いていない、すれ違う車もいない。この世に自分たちしか生き残っていないような、そんな錯覚を覚える。目的地のビーチには、高さ5cmくらいの小さな三角錐がずっと隆起していた。その主は一匹だけ逃げ遅れてトコトコ横歩きしていたスナガニ(ヤドカリみたいな大きさ)だった。

遠浅の海でのんびり寛ぐ。まあ、ソコトラ島から脱出する飛行機は明後日まで飛ばないのだから、いくらでも時間があるのだ。アキコさんとお互いの旅行遍歴を喋ったり、海岸線に迫る真っ白な砂丘を登ってみたり。

「ソコトラ島の白砂漠ってまさかこれじゃないよね?」
と念の為サミーに聞いてみる。
「大丈夫だ。明日、もっと広大な砂漠と洞窟に連れて行ってやるヨ」

無計画で訪れたソコトラ島だったが、ここは個人旅行できる場所ではなかった。サミーの運転でレストランに直行した。何を注文した訳でもなく、暗闇の中で出てきた料理を食べる。普通、ロウソクの灯りくらいあるだろうと思うのだが、もしかしてロウソクも貴重な生活物資なのかも。スプーンを持たされて、ただただモノを腹に納めた、完璧なヤミ鍋だった。これでは目で味わう楽しみもなく、とにかく腹に押し込むだけの夕食だった。

恐るべしイエメン、遥かなるソコトラ島の初日が更けていく。が、この夜、事件が起きた。

<ソコトラ島の子供たち、ソコトラ島のビーチ>

【2022.5.27 】タグを設定しました。
【2024.8.23】「 日干し煉瓦はいくつ必要なのか―二次方程式で考える―」章へアラベスクに関する文章と写真を追加しました。

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