【長編】イエメンの果てに飛ぶ(後半)
====== 前半では ==================
首都サナア空港からセイユーンとシバームを旅する。泥のマンション群は現在もイエメン人の生活の場だった。機内誌で見つけたソコトラ島の白砂漠に惹かれて、無計画なままソコトラ島に上陸した。そこでアキコさんと出会う。
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Question/問合せ | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)
(11)部屋から出られない。ベッドに戻れない
災難はまず私に降りかかった。部屋のエントランス部に閉じ込められてしまったのだ。
これは部屋の構造と2本の鍵について説明しておかないと伝わらないだろう。ホテルのフロントで部屋の鍵を2本渡された。1本は部屋の鍵(図中の鍵①)、もう1本は寝室の鍵(同②)だ。2本目は入室する時だけ使う鍵だが、1本目の鍵は入室・外出どちらにも必要な鍵だった。
夜中にトイレに起きてボンヤリしたまま寝室を出る。用を足して寝室に戻ろうとしたのだが、ドアノブを回しても開かない。そこでようやく事態に気がつく。オートロックされたので2本目の鍵を差し込まないと寝室に戻れないのだ。不味い!
寝ぼけていたのが一気に正気に戻った。だったら、部屋のドアを開けて廊下に出ればいいじゃないかと思うのだが、1つ目の鍵を持っていないと廊下に出る事も叶わなかったのだ。エントランス部で完全に閉じ込められてしまった!
<ソコトラ島のホテルの見取り図>
ここがサナア旧市街ならトイレの上の方に付いている窓に向かって叫べば誰か助けに来てくれると期待できる。でも、ここはインド洋の中にポツンと浮かぶソコトラ島。ホテルの傍に都合よく人が通りかかるとは到底思えない。幸いなことに、廊下に出るドアの上にガラス窓が開いていた。そこに向かって
「誰か助けて!」
と叫ぶ。先ずは日本語だ。廊下の反対側の部屋に泊まっているアキコさんの耳に届いてくれ、と願うのだが気付いてくれない。仕方ない、英語だな。
「プリーズ、ヘルプミー!」
と繰り返してみる。閉じ込められてしまうと、次第に暑くなってくる。本当に暑かったのか、それともパニックで暑く感じているだけなのか。30分ほど喚いていた。幸い隣りの部屋の宿泊者が気付いてくれた。彼がホテルのスタッフを呼んでくれて、ドアの鍵を開けてくれる。これでようやく廊下に出る事ができた。助かった!
でも、これですぐに眠れると思ったら大間違い。流石は絶海の孤島に建つホテル。なんと、鍵②の合鍵をホテル・オーナーも誰も保管していなかったのだ。どうするの?
ホテル従業員の若い兄ちゃんが、おもむろにドライバーとペンチを持ってきてベッドルームの前に立ちはだかるドアをこじ開けにかかる。無理だと判ると、その頑丈なドアを壊し始める。あっという間にドアにねじ込まれていた金具を全て外してしまった。恐るべしイエメンの流儀だ。日本だと、「仕方ないね、朝まで待とうか。その代わり他の部屋を使って」などその場をなるべくマイルドな雰囲気に治めて代替策に走りそうなものだが、イエメンでは直球勝負で課題を突破してしまう。GDPも給与も殆ど伸びない「失われた30年」のトンネルに入った今の日本に欠けているのはこうした勢いなのか。それとも、幅広い選択肢から現実的な対応を選べるスマートさが備わっているって解釈すべきなのか。
*
ホテルの部屋で閉じ込められた翌朝、ガイド志願のサミーとソコトラ島観光に出掛ける。先ずはイエメニア航空のオフィスに立ち寄る。と、そこに見覚えのあるイエメン人がいるではないか。丸メガネを掛けて温和な表情の40代の男だ。向こうもこちらに気付いて、お互いにハグして再会を喜ぶ。とにかく彼が私の声に気付いてくれない事には、昨夜あの暑苦しい部屋から脱出する事はできなかった。とにかく感謝、改めて深く礼を述べる。
ガイドのサミーもアキコさんもポカンとしている。それもそのはず、旅の日本人にソコトラ島民の知り合いがいる筈もなく話についていけないのだ。丸メガネを掛けた柔和な顔の中年のオヤジは、実はイエメニア航空の社員だったのだ。と言っても、イエメニア航空のソコトラ島オフィスは社員1名の机があるだけの小さな事務所。しかもドアがないアジアでよくあるオープン・スタイル。彼はホテル住まいだった事もあり、きっと単身赴任でこの孤島に駐在しているのだろう。
実は、このイエメニア航空の彼とは、その翌日、またまた出会う事になる。サナア行きのフライトで搭乗手続きを済ませて、機内に乗り込む際に彼が搭乗タラップで機内に誘導してくれていたのだ。誰も知り合いのいない外国を旅している中で、知らず知らずのうちに妙な緊張感から硬い表情をしている時がある。でも、こうして同じ男と3度も巡り合うのは極めて珍しい事で、その瞬間にこちらの相好もつい緩くなる。なかなか嬉しいものだ。
以前にも、ベトナムのハノイ市内で乗せてもらったタクシー運転手さんと、数日後にバッタリ公園で再会した事があった。ベトナムは完全なバイク社会。車よりもバイクの数が圧倒的に多くを占めており、とにかくバイクが吹かす音がうるさくてハノイ滞在にウンザリして郊外脱出を図っていた。最初に出会ったのはそんな旅に疲れている時だった。その小柄な運転手でと思わぬ再会を果たす事ができたので、互いに喜んだ。こちらは帰国直前に友人への土産物を探しているタイミングだったので、「あと1時間くらいしたら空港に行きたいので乗せてって」と頼む。彼もちょうど休憩している所だったので、「いいよ」と笑顔で応じてくれたなぁ。
(12)ドラゴン・ブラッド・ツリー
ソコトラ島の旅2日目は、珍しい植物と地形を巡る旅となった。ドラゴン・ブラッド・ツリー(竜血樹)の存在も、実はイエメニア航空の機内誌で初めて知った程度のもの。切り口から赤い樹液が滴る事は帰国してから知ったくらいだ。タイなど東南アジアを旅行しているとドラゴン・アイを見掛ける事がある。パチンコ玉くらいの大きさの茶色の果物で、特に美味しいものでもない。まあ、名前がユニークなもの。
2mくらいの高さから枝が急に360度扇状に広がって、しかもその枝が幹と同じようにイカツイ。将に傘を広げたように濃密に生い茂っていた。枝が細かく伸びている様はシンガポールのガーデンズ・バイ・ザ・ベイ(Gardens by the Bay)の樹木を模したオブジェがフワッと枝を広げる様のようだ。別の喩えだと、巨大なシイタケが傘を開いている状態と表現してもいいだろう。面白いもので全てが傘の恰好をしている訳ではない。稀に風に煽られて傘の骨がひっくり返った形で枝が伸びている竜血樹もあるから不思議だ。
そんなドラゴン・ブラッド・ツリーが内陸部の荒れた土地に延々と広がっている光景は、確かに地球上でここでしか見られないだろう。古くは映画「猿の惑星」の撮影に使われた独特の形状をした樹木なのだ。ガイドのサミー曰く、ここの地名はデフィクセム。陽が照っているうちは写真撮影に集中していたのだが、ガスが立ち込めてくると不気味な空気が漂ってくる。大した標高ではないけど、ソコトラ島の中央部に一人取り残されたらホテルまで自力で帰れるんだろうか、そんな不安が漂う異空間だった。
ガイドとドライバー、それに私たち物好きな観光客2人だけが佇む空間にヤギを発見した。ノマドの民が放牧していたのだ。牛も何頭かいた。岩と草の大地にドラゴン・ブラッド・ツリーがポコポコを傘を突き立てたように林立しており、やはりここが異空間なのだと思い直した。
帰国後にソコトラ島をネット検索すると、キリンビールの大瓶をもう少し太くしたような形をしたボトルツリーもあるらしい。ピンクの小さな花を付けた写真も見つけたが、こちらもなかなかに個性的だ。ただ、この旅でボトルツリーを見つける事はできなかった。
<ドラゴン・ブラッド・ツリー(2)>
(13)純白のソコトラ砂漠
さて、この日の午後はいよいよ待ちに待った純白の砂漠だ。ガイドのサミーは「巨大なケイブ(洞窟)に連れて行ってやる」と自慢げな表情だったが、私としては洞窟に何の興味もなかった。一刻も早く、純白の砂漠を歩きたいじゃないか、彼はどうしてその美しさを分からないんだろうと、完全に気持ちが先走っていた。
そこはノイジットと呼ぶエリア。ホントに純白の砂漠が広がっていた。風が作り出す綺麗な風紋も砂丘に描かれている。コレコレ、これが見たかったんだな。白い砂丘では足を取られながら、その稜線をサクサクと進んで行った。
まさかイエメン旅でこんな素晴らしい景色に出会えるとは思っても見なかった。旅行前の私の頭の中にはハドラマウトに建つ泥のマンションとサナア旧市街の中世の風景しかなかった。それが、嬉しい驚きとともに、今サクサクと白い砂丘をスニーカーで踏みしめながら歩いている。遠く彼方に海岸線が広がっていた。ずっと海岸線まで歩いていきたい誘惑に駆られる。
でも、どうして砂漠に惹かれるんだろうか。小学生の頃の遠足と言えば、中田島砂丘(静岡県浜松市)だった。あれが私にとって砂漠の原風景だった。数学(解析)に微分可能って用語がある。連続な関数で、尖った点や無限大に発散してしまう点がない事。そう、砂漠ってそのなだらかな曲線の中に身を鎮められる、埋まってしまいそうな感覚が好きなんだな。これは私の中で、雪山登山している時にフカフカの雪原にパタンと仰向けに倒れ込みたい衝動と同じものだ。
もしかして砂漠を掘り返してみると、数百年前の動物の骨とか砂漠の民の衣類を発見するかも知れない。それもロマンだ。また、砂漠の上に描かれる風紋も好きだ。ボーッツと眺めていられる。同様に、雪山で風の通り道に凹凸ができるシュカブラも好きな景色だ。
砂丘(Dune)と砂漠(Desert)の違いを知ったのは、ナミビアのナミブ砂漠の予習でロンリー・プラネットのSouth Africa版を買った時だった。Duneは砂に覆われた山で鳥取砂丘とかサハラ砂漠のように日本人が普通に想像する砂漠の事。Desertはもう少し広義の言葉で砂丘もあれば、アルジェリアのタッシリ・ナジェールやヨルダンのワディ・ラムのような岩砂漠も含めた言葉だと理解した。ワディ・ラム砂漠でテント泊した夜は、漆黒の岩陰と星でやや淡い夜空のコントラストに包まれて興奮した。夜中に目覚めるとギラギラと目が冴えて眠れなくなったのを思い出す。
砂漠はこの世の終わりのような悲しい雰囲気もある。でも、灼熱の大地に立っていると、ガッツも湧いてくる。喉はカラカラで辛いのはホントだけど、砂漠のサバイバルな大地を歩いていると生き延びんとするパワーが溢れてくる感覚がある。
そして、ブラジルのレンソイス(ポルトガル語で白いシーツ)は砂漠の中に無数のラグーン(湖沼)があって、水草の小さな花が咲き、小魚や亀が泳いでいる不思議な光景だった。それはまるでこの世の始まりだった。TBS「世界ふしぎ発見」でレンソイスに初めてTVカメラが入ったのが2005年の春先だった。それを見て驚き、すかさず2005年の夏休みはブラジルに飛んだ。
イエメンの旅でソコトラ島の白砂漠を知ったのは、その1年後2006年秋だったので、なおさら感動が大きかったのだ。レンソイスと比べて、砂丘の高低さはさして大きくない。上下のうねりがマイルドなので、暑ささえ気にしなくて良ければ、どこまでも歩いていけそうな気分だった。
<純白の砂漠、この日の夕食>
(註)ソコトラ島の地名について
竜血樹のディクセムと白砂漠のノイジット、この2つの地名(or地域名)をカタカナで記載した。これは音で聞いたものであって、文字で確認したものではない。「地球の歩き方」に島の地図は載っていないし、正直なところずっと曖昧だった。
ゆえあって、2024年になり改めてソコトラ島の地図を探し始めた。在日イエメン大使館のHPで確認すると、合致するものはないがそれぞれ似たような地名は見つかる。前者はDixam、後者はNogedだ。ただ、どちらも赤点はプロットされていない。イエメン大使館に電話とメールを介して、いずれも地域名であることを確認できた。
※参考サイト
https://www.yemen.jp/socotra_j.php
ソコトラ島の住民が英語表記を決めている訳ではなく、彼等はアラビア語を喋っている。英語表記は英語圏のツーリスト等がアラビア語の発音を聞いてアルファベットに落としたものがDixamである。勿論、イエメン人にとってDixamなどの英字から音に逆転させることはなく、そんな事をしたら別のアラビア語が生まれてしまうだけだ。
それは英語の発音を聞いて、日本人がカタカナ文字を決めたのと同じことだと想像できる。例えば、violinの発音を素直に聞き取ると「ヴァイオリン」になるのかも知れない。現代の日本人にとってそれは馴染みにくく、むしろ「バイオリン」と書かれている方がストレートにviolinを想像できる。
(14)ソコトラ島のホテルで盗難騒ぎ
実は、ソコトラ島のホテルではもう1つドラマがあった。ソコトラ島を発つ朝、どうもアキコさんの様子がおかしい。コソッと顔を出して私に告げる。
「盗まれたみたい。そっちの部屋はどう?」
「いや、特に問題ないけど」
「携帯電話、ミュージックプレイヤー、バッテリー、プラグ類など白いメッシュケースに入れておいたモノが丸ごと消えている。折りたたみ傘も無くなった」
と小声で囁く。
イスラム教は泥棒に対してかなり厳しい。そうした事実を思い起こさせるシーンをつい最近ドラマで見た。フジ月9「ミステリと云う勿れ」で主人公・菅田将暉の元に切り取られた手が届けられたのだ。その一瞬で「地球の歩き方」のコラムを思い出してしまった。確か「地球の歩き方」に載っていたコラムによると、イスラム世界では人のモノを盗むと、腕を切り落とされて衆人監視できるようにその断片を街中に吊り下げられておくとか。日本人の感覚で言うと盗みは悪い行為だけど、それで腕を斬り落としてしまうのでは些か罪と罰がアンバランスではない。だから強烈なインパクトだったのだ。
さて、そこからが大変。ホテルのオーナーに連絡して、従業員と一緒に探す事になった。アバヤを纏った黒ずくめの女性も探してくれたのだが見つからない。警察に盗難証明書を書いてもらおうとなったのだが、「大統領選で忙しいからそれどころではない」と否定されてしまう。こんな離島でも大統領選挙が盛り上がっているのだろうか。確かに子供たちは無邪気に現職サレハ大統領のポスターを持っていたけど、信任投票なのだからこの国、この島で選挙活動も選挙違反もないでしょ。なにより20年以上も続く独裁政権なのだから、心配ないのでは。しかも、「サナア行きのフライト時刻が迫っているから、お前たちも早く支度しろ」と言われてしまう。
確かに盗まれたのであれば、おそらく戻ってこないだろう。私も、かつて上海のホテルでザックの小さなポケットに人民元を1000元(約17,000円)を入れたまま部屋に置いておいたら、すっかり無くなっていた事がある。ホテルのフロントにクレームしても「知らない。もう夕方6時を回っているので当日のホテル代を今になって返金できない」と冷たくあしらわれた事がある。連泊していたのでおそらくホテル清掃スタッフが犯人なのだろうけど、証拠なんてないし諦めざるを得ず2泊目をキャンセルするしか術はなかった。
ただ、今回は自分事でないし、ここはアキコさんの納得感が大事。彼女は何故か手際よく、3点を済ませていく。旅の強者なのでこうしたトラブルにも慣れているのか。
・簡単なメモを作って、ホテルのオーナーに署名を貰う
・部屋のバルコニーの鍵が開いたままだった事をアラビア文字で付記して貰う
・後で警察に行って盗難証明を書いてもらい日本に郵送するように依頼する
アキコさんとはここまで丸2日間ずっと行動を共にした。絶海の孤島・ソコトラ島での旅友だ。と言うか、実はこの旅ではその後サナアやドバイのトランジット滞在でも一緒に行動する事になる。ただ一緒に旅している時に体調が悪いと如何ともしがたい。エミレーツ航空の冷え冷えの冷房のせいで、ソコトラ島にいる間ずっと私はくしゃみ・鼻水に苦しめられていて、なんとも不甲斐なかった。一緒に話していても鼻からスーッツと鼻水が垂れてきて情けない場面もあったけど、盗難ハプニングの事くらいはフォローしてあげたいと思ったのだ。
チェックアウト時にホテルの裏に険しい稜線が広がっているのを見つけた。北アルプスの稜線より激しい上下動で屹立している。シナイ半島の東岸で見た光景と似ていた。エジプトのシャルム・エル・シェイクからヌエイバまで無味乾燥な大地で車窓を眺めていた、あの景色だ。
確かにソコトラ島とシナイ半島は紅海を挟んでかなり近い場所にある。この島にもっと魅力的な場所があるんだろう、でも、週2便ではサラリーマン旅行者には如何ともしがたく首都サナアに向かった。
尚、この盗難事件には後日談がある。
なんと、ホテルのオーナーが盗難犯だったのである。数日後にサナアの日本人宿でアキコさんと再会してその事を知った。ソコトラ島の警察から彼女宛に電話があり、真相が告げられたと言う。ホテル・オーナーなら鍵を管理している訳だから盗むくらいは朝メシ前。携帯電話とか電化製品が珍しかったのか。まあ、そういうグッズをわざわざ持って行くのも女子旅なのか。私は最低限のモノしかザックに詰めて行かない。電化製品なんて髭剃りしか入っていないので、ホテル・オーナーも私の部屋に忍び込んでも盗むモノがなくて、貧相な旅人を憐れんでくれたかも知れないな。
<夕食は新鮮な伊勢えび、ソコトラ島の山塊は険しい>
(15)天空のマファラージはお菓子の街のてっぺん
サナア旧市街は世界遺産に登録されている。アラブの旧市街(スーク)はどこも同じようだが、ここイエメンの首都サナアは古い歴史を感じさせてくれる。正門バーバルヤマン(イエメン門)では痩せたイエメン男性が白いワイシャツの上にジャケットを纏って大勢たむろしている。別の日には10名ほどの中年男がジャンビーヤを振りかざしながら踊っていた。ジャンビーヤとは長さ30cmほどのアルファベットのJの形をした刀で、イエメンの男性ならみんな懐に帯刀しているのだ。これが21世紀の光景なのかと目を疑うのだが、イエメン男性の背広姿はアラブの白い装束にすごく似合っている。サマになっているので、もし日本で着ないジャケットがあれば、イエメンの旅行のついでにお土産として持って行くときっと喜ばれるのではないか。
アラビア半島には乾き切った砂漠が広がり、人が暮らすには過酷だ。ただ、イエメンはアラビア半島の南端に位置するのでインド洋から湿った風が吹いて雨を降らせてくれるのでイエメンには「幸福の」と形容詞が付けられる。そんな首都サナア旧市街を歩くと「幸福のアラビア」ってキャッチフレーズは尤もだと感じる。「最貧のアラビア」とも称されるイエメンはお世辞にも豊かな暮らしぶりとは言えない。でも、メディナでの暮らしを1000年くらい続けてきた歴史はきっと彼らの文化になっている。もしかしてじゅうたん屋の店の奥を覗くと、ホントに空飛ぶじゅうたんが眠っているかも知れない。
旧市街を何度も曲がって辿り着いたのが尖塔ホテル。幸いにも最上階が空室だと言う。600号室はMAFARAJ(マファラージ)と書かれた部屋は6階に唯一の部屋。
このゼロから始まる部屋番号がユニークで嬉しくなった。ゼロを発見したのは古代インドの数学で、それが中東のアラビア世界にも伝わったと言う。日本だとエレベーターで地上階を「1」、ヨーロッパの国々だと「G」と表記している事に慣れてしまった。でも、モロッコ・カサブランカの宿に泊まったら、地上階をゼロ、地下1階を「-1」と表記したエレベーターに出会った。そう、ものさしと同じで地面に接した所はゼロ、反対側は地下は敢えて「B1F」と書かなくても「-1」で正しいんだよな。誰かに伝えたくなる衝動に駆られたのを覚えている。この600号室にもそれと同様の驚きがあった。
さて、最上階の部屋には大きな窓が3方向に計5つ据えられており、窓の上部にも赤や黄色のステンドグラスが分度器みたいな形状で嵌め込まれている。しかも、部屋はじゅうたん敷きで内周にはビッシリとクッションと肘当てが並べられていた。カート・パーティーを催すのに恰好の空間だ。しかもバルコニーまで付いて20米ドル(約2200円)だと言う。これは最高!
翌朝4時、空が白み始めた頃にアザーンの祈り声が拡声器から聞こえてくる。正に中世にタイムスリップしたような心地よさだった。1泊200米ドルを超えるような高級ホテルに泊まるのもいいが、それとてゴージャスを同じ様式で競っても似通ってしまうし限界がある。サナア旧市街のホテルには他の都市にないようなオンリーワンの個性が残っていたのが嬉しかった。こうした宿なら1週間くらい連泊しても飽きないだろう。
<マファラージの内部、その表側>
イスラム建築と言えば、アラベスク(幾何学的な模様)やドーム型の天井がよく知られている。イランのモスクに見られるムカルナス(立体幾何学装飾)もある。ムカルナスとは写真で見れば一目瞭然ながら、言葉で書くと球体状に空間をお椀で刳り抜いていきピラミッドの殻のような空間構造だ。中世アラビア世界では数学が大きく発展したと言う。こうした構造も数学の力に立脚したものだろう。エジプトのピラミッドも忘れてはいけない。ヨコ2m、高さ1m弱の石を延々と四角錐の形に積み上げたものであり、四方から積上げたモノを頂点で正確に合わせるには数学の知識をベースにしたのであろう。
はて、イエメンにはそうしたアラブ世界に特徴的な幾何学的に優れた模様はあるのか。それがサナア旧市街の分度器型の窓だと思う。半円形の中に、その半径を直径とする小さな円が描かれている。
そもそもこの窓は必要なのか。採光が目的であればその下の四角い窓だけあれば十分じゃないか。でもここに色とりどりのガラスが嵌め込まれており、これが白一色に塗られた内壁に華やかさをプラスしている。
また、外装においても石膏なのかセメントなのか、白い枠線の装飾を施す事でレンガの茶色にいいアクセントを加えている。この白色は窓枠に塗られているだけでなく、各フロアの梁の部分にもプリミティブな模様を描いている。それは私が表現できる言葉で示すと、縄文土器の模様のように見える程度のラフなものだ。でも、それがサナア旧市街の高層建築のドレス・コードとして用いられている事で、街としての統一感を与えてくれている。これが、お菓子の街のような優しい印象を与えてくれた正体だったのだ。
改めてシバームやセイユーン、ソコトラ島の窓と比べてみよう。いずれも大きな窓の上にもう1つの窓が付いている。最も古いのはシバームの泥のマンションなので、上の小さい窓が元々は換気口として使われていたのではないか。それが時代を経るに従ってステンドグラスを嵌め込んで装飾が加えられていったのではないか。
<イエメンの窓を比べてみた>
(16)イスラム圏でビールを呑みたい
イスラム圏では女性がオシャレをして街を歩く姿を見掛ける事はない。戒律で禁じられているためだ。マレーシア等では薄いグレーの布を頭部に被っている程度だが、中東や北アフリカになると黒い布で女性の姿そのものをなるべく覆い隠すように行動制限されている。国によってもその程度は異なるが、イエメンでは目が覗いているだけで、女性の表情すら確認できないほどとりわけ厳格に守っている国だ。
それと同様に、イスラム教の戒律で酒を飲めない。この戒律も国によってかなり厳しい事もあれば、ユルユルな事もある。マレーシアでは外国人ツーリストは何の気兼ねもなくビールを呑んでいる。中東の某国には酒呑みのムスリムに出会ったし、彼に「ホントにムスリムなのか」と訊いても苦笑いしてごまかす輩もいた。それでいい。モロッコのカサブランカでは確かにビールを注文できるが、メニューを立ててグラスをなるべく周囲の客から見えないように置いてくれる。最初はその意味が分からずメニューを畳んでグイッと呑んでいたのだが、店員さんから「呑んで構わないけどとにかく隠しておいてくれ」と懇願されて参った事もある。
女性の表情を拝む事と同様に、イエメンでビールを呑むことはほぼ叶わなかった。それは、地方都市はおろかサナア旧市街でも同じ事。韓国人経営の焼肉レストランに入った以外、市井の食堂ではビールにありつけなかった。ただ、日本人旅行者と話して、5つ星ホテルに潜入すればビールにありつけると聞く。ならば行くしかないな。
サナア旧市街の尖塔ホテルに投宿していたが、バーバルヤマンを出て、5つ星のタージ・シバ・ホテルを目指す。この日は旧市街のインドカレー屋でアールー・ゴビ(じゃがいもとカリフラワーのカレー)を食べて満腹になった状態でビールだけがお目当てだった。どれくらい歩いただろうか、夜のイエメンを「地球の歩き方」の地図を見ながら1時間くらい歩いた。
ホテルのレストランに入って、普通に「ビール」と頼む。「ノー」と答えられてしまう。「もし呑みたいなら秘密のレストランがあるからそっちに行け」と促されてしまう。確かにエントランスの近くに黒いカーテンで仕切られた一角がある。でも、レストランと書かれた看板はどこにも見当たらない。日本のホテルで言えば「改装中」にしか見えない。不安になる。外国人目当てのボッタクリ・レストランなのか、中の様子をうかがい知れないのは気分が落ち着かない。
イエメン旅行の数年後に、朝方トランジット滞在でカタール・ドーハ市街に入った。ちょうど朝食時だったが、生憎のラマダン月間で市井では食べ物にはあり付けない。なので、ヒルトンホテルに向かった。朝8時なのに、ホテルのフロントもロビー・レストランも閑散としていた。で、フロントに小声で訊いてみると「最上階に行け。ヨーロピアンスタイルの朝食を食べられるヨ」とありがたい情報をゲット。確かに、その仕切られた空間ではラマダンお構いなしに白人観光客が当たり前のように朝食を食べていた。
この時はまだそんな事情も知らないアラブ初心者だった。別世界に足を踏み入れる覚悟で、真っ黒いカーテンをくぐる。結婚式の披露宴会場のように円卓が10~15くらい並んでいた。客は全て白人かアジア系。確かにみんなアルコールを呑んでいた。
フィリピン人風のウエイトレスが注文を取りにやってくる。フィリピン人はユーラシア大陸の中でも欧米人と英語で喋るのに慣れているので、こうした場所で働いているのだろう。日本でも短期英語留学とかダイビングライセンス取得で「セブ島に行こう!」なんてチラシを見た事がある。
こうした閉ざされた空間だからだろう、メニューを見てもあまりに値が張って食べるものがない。
「ビール、プリーズ」
「オンリー、ビール?」
「イエス」
「オッケー、ミニマム2ボトル、プリーズ」
えっ、食事しない人には最低2缶じゃないとビールを注文できないのか。350ml・2缶で23米ドル(約2500円)ではあまりに理不尽じゃないか、そう言い返したかった。が、ここはムスリムにとって禁断の酒が呑める別世界。仕方ないなと観念した。因みに、韓国レストラン(焼肉屋)では1缶1100リアル(約600円)でビールを呑めた。それがここでは2倍強。この夜はビールにありつけただけで満足だった。
<サナアの少女、オシャレした姿>
(17)イスラム教徒の静かなるプライド
旧市街の中には、香辛料、衣料品、金物屋などが曲がりくねった路地の左右に所狭しと立ち並んでいる。ある日宿に戻ろうとのんびり歩いていると、後ろからやってきたヒゲ面の男が追い抜きざまに声を掛けてきた。
「お前、日本人か?」
「そうだよ」
「ちょっとここで待っていろ」
うん、なんだろう。仕事帰りの職人風で悪い人ではなさそう。彼はほんの1,2分で戻ってきた。
「日本に帰ってからで構わない。これを読め」
とクリアフォルダに入った冊子を渡される。
タイトルには日本語で「イスラム教の歴史と教え」と書かれており、ざっと30ページくらいある。カラー写真もふんだんに盛り込まれていた。どこかの新興宗教と異なり勧誘される訳でもない。ポンと渡されただけなので、素直に受け取った。
私が喋れるアラビア語は僅かしかない。アッサラーム・レクイエム(こんにちは)、シュクラン(ありがとう)、インシャラー(神のみぞ知る)の3語で終わりだ。これではお世辞にも危機管理できているとは言えない。いつか中東の旅先でテロや強盗に遭遇した時にコーランの経典の一節でもそらんじる事ができるようになっていれば命拾いできるかも知れないな。そんな邪心もあってそのまま受け取ったのだ。
帰国後、忘れた頃にそのパンフレットを読もうと試みた。イスラム教の歴史について数ページは読んでみた。でも、興味が湧かないものを読むのは苦痛だし、なによりイスラム教に対して失礼だ。もちろん、イスラム教をネガティブに考えているのではない。世界で最も信者が多いのはイスラム教であり偶像崇拝を排しているのは無駄な宗教的な金儲けに走ることがないので、好意的なイメージを持っている。自分が仏壇の前でどこまで真剣に手を合わせているか自信がないだけに、中東の国々で靴下が大きく破れているのも気にしないでひざまずいて祈りを捧げる光景は敬虔な信徒の姿だ。
イスラム圏で欠かせないのがハマム。かつて、トルコ・イスタンブールのハマムでの体験が忘れられないからだ。外から見るといかにも不細工なハマムの天井を形作っているコンクリートだが、あのドーム状の高い天井は静謐なムードを醸し出す。灯り採りの丸い窓に蒸気が朦々と立ち込めているのが、いかにもイスラム圏に足を踏み入れたのだと言う確証をこちらに与えてくれた。それと、屈強な垢すり男がシーツを石けん水に浸していた。すると、おもむろにその球状にしたシーツを中央の洗い台にうつ伏せ寝している私の背中にフワッと押し当ててくれる。あの幸福感は何とも言えず心地よかったのを今でも覚えている。なので、イスラム圏を旅する時にはいつもハマムを捜し求める。
*
イエメン旅の最終日、旧市街で土産物を捜していると、石膏で造った半円形のランプシェードを見つけた。冒頭の「(1)石膏のランプシェード」に写真を載せたものだ。その両面に赤や黄色、青のガラス片が嵌め込まれていて、上に開いている小さな穴から電球を垂らすと綺麗に光る。これはいい! アラブ好きの友人に渡そう。それと自分用に買い求めるのもいいな。
値段は650リアルだと言う。イエメンではまだ値切る感触が判らなかったので「600リアル(約350円)でどう?」と軽い気持ちでディスカウントを要求。スンナリ折り合った。インドと異なり中東を旅しているとあまり値切ろうという邪心も生まれないから不思議だ。インドだとさっき400ルピーって吹っ掛けてきたものが2分後に100ルピーに下がる。でも、100ルピーで買ってもきっと相手にとってボロ儲けなのだ。そんな土産話は壊れた笛とかいろいろある。ただ、イエメンにおいてはまだ値切る感触に自信が持てない中で、私は不用意な一言を漏らしてしまった。
「(日本人相手に)たくさん儲けられたんじゃないの?」
土産物屋のおじさんは私の不躾な言葉に不快感も示さずに、答えてくれた。
「(私たちはイスラム教を信仰している。イスラムの教えで)不必要な儲けを追い求めてはいけないのだ。そうした事はしない。もし大儲けしたいのなら私は日本に行って商売している」
これには参った。思わぬ所で自分の軽口が相手のプライドを傷つけてしまった。彼は誠実に一見さんの観光客を相手に商売しており、外国人だから儲けてやろうなど邪な考え方ではなかったのだ。本当に申し訳ない一言だった。プライドに矜持、普段の生活の中であまり口に出す言葉ではないが、イスラムの矜持、イエメン人のプライドを感じたイエメン最後の夜だった。
(18)イスラム社会の穏やかな交易が続くワケ
土産物屋のオジサンの一言にやられた。彼の言葉が穏やかだっただけに突き刺さった。ディスカウント交渉して、650リアルが600リアルになっただけでまだまだ土産物屋の利幅はガッツリ厚いと思い込んでいた。だからこそ失礼な物言いになってしまったのだ。日本人とイエメン人でどうしてこうも思考回路が違うのだろう。インドで妙な偏見に晒され過ぎただけだろうか。それとも、私がどっぷり邪悪なモノに浸かっているのだろうか。
サラリーマン稼業を続けていると毎年必ず来期計画を策定する時期がやってくる。そして一旦策定した計画は修正が難しい。上半期が終わった段階で無理だと分かっていても、とかく「やり遂げる」事が求められるのだ。
今年これこれの売上・利益だったので「来期はプラス○○%で」と無理難題を要求される。えっ、今年はたまたま大型開発案件がリアライズしただけで、二次開発があるのかどうかすら見えてないヨ。今年はこんなに頑張ったじゃないかと言い返したくなるのだが、そう素直に上司に訴えられる訳でもなく「よろしく」と押し返されてしまう。
確かに、今年実績を下回る来期計画は提出できない。自分の給料もアップしたいし、だったらその原資となる売上・利益も成長する筈だと説得されるのがオチだ。しかも、理解できない親会社の理不尽に付き合わされて「ここは君たちのアピール・ポイントだ。ここで成果を出せば次の仕事を発注してあげるヨ」とか「君たちは効率化の努力が足らない」と煙にまかれてサービス残業に時間を割かれる事もある。来年プラス○○%を達成しても、その翌年には更に上のレベルを要求される。
これって現代の無間地獄なのか、それともIT業界の構造問題なのか。確かに、目を見張るような立派な成長を果たさなくても、前年と同様の態度で仕事に携わっていけば顧客の信用とそれなりの成果は継続的に持続できると思う。とりわけIT業界はメンタルを病んで会社をフェードアウトする人材が目立つ。「探さないで下さい」と書かれたポスト・イットを机の上に貼りつけたSE(システム・エンジニア)もいた。成長と引き換えにメンタルを病む社会よりも、ステークホルダーの満足も得ながら貢献できる社会があれば、それが1つの理想形だと考えるのだ。
「失われた30年」を経ても成長を諦めない日本には、不機嫌そうな大人と無表情な子供で溢れている。でも、イエメンを旅していてどんなに貧しかろうともそうしたネガティブな表情は見当たらないのだ。勿論それはイエメンに限った事ではない。いろいろ旅してみても表情が乏しいのは日中韓の3ケ国なので、もしかしたら東アジアの民族的な特長やも知れない。
ちょっと話が逸れてしまった。
さて、日本人の金銭感覚と異なり、商業中心のイスラム社会では利息が付与されない。正確に言えばイスラム法で金利を得る事を禁じられている。だからこそ地道な商売を続けられるし、あのような言葉が澱みなくスッと出てくるのだろう。
この事に関して、数学者・長沼伸一郎が「経済数学の直感的な方法(確率・統計編)」で面白い自説を展開している。
経済成長神話に憑りつかれた西洋や日本では、年ごとに加速度的な経済成長を当たり前のように期待される。まるで成長が止まったら会社やサラリーマン生活が破綻するのではないかと追いまくられるように、永続的な利益増を強いられている。その事を「黄金時代の資本主義は一定方向に上昇する『トレンド』の部分に投資して……」と表現している。将にトレンドの成長圧力だ。無理なく成長が続けられる時期は気分いいが、やみくもに永続性を期待されると堪らない。確かにグローバル資本主義もアジアやアフリカの最貧国に辿り着いた段階で終わってしまう。
それに対して、「意識的に農耕的な停滞社会を作ろうとした」江戸時代の日本や金利のないイスラム世界においては「(商売の)拡大上昇が『直線』で与えられる」のだと言う。普通に商売していく中で日常的な変化(うねり、著者の言葉だと「擾乱」)を上手く捉えていけば、商いで必要な利益は自ずと計上できていく、と説くのだ。強力な上昇トレンドに乗っかってガツガツと稼ぐ資本主義の奴隷にならなくても、十分に暮らしていけるマイルドな考え方だ。彼の言葉を引用すると「過去の世界で自然発生してそれなりに長期間、安定して社会と共存していた金融システムは(中略)『ボラティリティ型』のような直線的なパターンのものだったのでは……」となる。これこそ持続可能なSDGsな稼ぎ方だ。
金融用語であるトレンドとボラティリティをそれぞれ経済のスタイルに当て嵌めているしまうのはやや強引な気もする。投資家の役割に関しても、欧米では出資先の会社と契約に基づく対立関係にあって利回りを求めるのに対して、イスラム社会ではどうしたら会社がよりよく仕事をできるか投資家も一緒になって考えていく、と説明が続いていく。そして、この二項対立を数学的な話に引き寄せて二次関数的な成長と直線的な成長で図示してくれる。長沼伸一郎の発想の広さにはいつもながら驚かされるのだ。
この二択に甲乙つけるのも将来的な興味としてあるものの、まずは旅先において自分の見方が狭量になっていた点を反省しなくてはいけないな。
<サナアの子供たち、男はジャンビーヤを帯刀>
(19)イスラム教徒のセクハラ騒動
善良なイエメン人もいれば困ったちゃんもいる。アラブ系は勧誘がしつこい。まだ15~16才にしか見えないブッチャー君が「ロックパレスを回るツアーに行け」と、こちらの顔を見るたびに誘ってきた。ソコトラ島で出会ったアキコさんに教えてもらったダーウッド・ホテルは日本人宿なので、彼も馴れたもの。
以前、日本人客に書かせた日本語の推薦文を見せて、積極的にアピールしてくる。しかも、ツアーに行く前日から「お前も推薦文を書いてくれ」とねだってくる。確かに彼が見せてくれた紙キレは勧誘するたびに何度も開いたり畳んだり繰り返しているので、折っている箇所がボロボロになっており新しいリコメンドの文章が必要なのだ。
他の街を回ってきたアキコさんとサナアで合流した。その翌日、一緒にロックパレスやコーカバンを回った。ただ、シバームの泥マンションとソコトラ島の大自然を見た後だったので、1つ1つの観光地で感動は薄い。
むしろ、イエメン人の逞しさを知る事になった。この旅で30代半ばのアキコさんと5日間ほど一緒に旅をした。ソコトラ島、サナア、そしてトランジットで観光した夜のドバイ観光だ。旅の仲間って1日行動を共にする事はあっても、そう何日も続く事はなかった。確かに話して楽しい人だけど、どうしてずっと旅する事になったのか、ソコトラ島ではハッキリ判らなかった。むしろお互いに孤島での観光を上手く成立させるのに2人連れがいいと思っていたくらいだった。
彼女はこれまでに30ケ国以上を旅して旅の達人ながら、女性であるがゆえの苦労もしてきたと言う。一番驚いたのがイタリアの船旅で監禁事件に巻き込まれたとか。それは本人にとって恐怖の体験だったろうけど、笑い話として敢えて明るく話してくれた。そして、中東の旅で女性にとって大変なのがセクハラ。サナアでもアキコさんと一緒に観光や飲食していた。ありがたい事だけど何故だろう、と思わなくもなかった。その理由がツアーの最中に分かったのだ。
1日ツアーはガイドとドライバーに私達の4名で回った。ランチも4人が車座になってじゅうたんの上に豪華に並べられた料理を食べた。で、食後に私がトイレで中座して戻ってくるとアキコさんが思いっきり不機嫌な表情になっている。
「どうしたの?」
「さっき私ひとりになった瞬間にドライバーにだっこされてお尻を触られた」
はあ? たった2~3分の隙にイエメン男はそこまでやってくるのか。抜け目ないな。イエメンに限らずアラブ社会では外界で女性の姿は晒さないようになっている。だからこそ、外国人の女性と接する機会が貴重なのか、しかも外人だから「やめて!」って抵抗しても「まあまあ……」とかわして、ナアナアな態度で事を続けようとしたとか。自分が男なのでそうした欲望がないと言うとウソになるが、それをやったらオシマイでしょと理性で抑制している。アキコさん曰く
「どうもイスラム圏では痩せている女性よりも私みたいに太っている外国人女性の方が触られる。太っている方がよく働いてたくさん子供を産むって思われているみたい」
なんだとか。事の真相はイエメン男子に確かめないと分からない。ただ、イエメン在住のアバヤを被った若い日本人女性と話す機会があったが、彼女はそうした被害に全く遭遇していないとか。どうやら日本人男子の趣向と異なっているのはホントのようだ。
(20)景色を見るだけで泣いた事はあるか
このイエメン旅では泥のマンション、ドラゴン・ブラッド・ツリー、純白の砂漠、サナア旧市街と見どころが尽きないのでデジカメのバッテリーが切れてしまった。如何ともし難い。旅行にはデジカメの予備バッテリーを持って行くが、充電キットまでは用意してないのだ。10日程度の旅なら大抵それで十分に足りるからだ。ホントに困った時スリランカではタダで充電してくれた。スイス、イタリアでは500円くらい請求されたな。これが契約とか交換で考えるヨーロッパとふんわり穏やかなアジアの違いかも知れない。
かたやアキコさんは、望遠レンズまで装着できる一眼レフを担いでいた。ソコトラ島で盗難騒ぎに巻き込まれるくらいだから、充電対策もしっかりしているだろう。
そんなある日、アキコさんがカメラを降ろしてイエメンの乾いた大地を眺めながらふと呟いた。
「景色を見るだけで泣いた事はある?」
「感動する事はあっても、そこまでさせる光景には出会ってないな。」
詩的な感情に乏しいので、私にはそれ以上の気が利いた返事はできなかった。アキコさんはあの時に何を言いたかったのだろう。
緑が豊かな日本で暮らしていると分からないけど、イエメンに限らず乾いて荒れた大地がどこまでも続くような土地は意外と多い。南部アフリカのナミビアではソーサスフライからスワコプムンドまで何時間も荒れ地が続き、ポコポコと半円形をした低い丘が無味乾燥に連なっているエリアがあった。ここでガイド氏の車が故障したらどうなるんだろう、後続の車はあと何時間くらいしたらここを通過するのだろうか、と不安に駆られた事もあった。中国のシルクロードでも乗合タクシーで走った先にホントに敦煌の街があるのか信じられない感覚があった。いざ敦煌の街の賑わいをこの目で確かめてもそれを奇跡のように感じたものだ。
あの時のアキコさんはイエメン旅に疲れていたのか、もうすぐ帰国日なので日本の懐かしい景色が甦ってきたのか。決して綺麗な景色を見ているわけでなかったのでこちらとしてもあまり深く考える事はなかったが、帰国した後になってふと気になった。
最近は日本国内でヤマ旅をする事が多い。コロナ禍なので仕方ないと思いつつもヤマ旅でかなり満足できている自分がいる事もホントだ。でも、泣けるレベルだとハンパない感動が要りそうだ。私の場合には、過去の経験と重なって泣けるくらいの感情の昂ぶりくらいだな。開腹手術をした2ケ月後に登った飯盛山(長野県東部)、あの山頂で見渡した周囲の山々の新緑とレンゲツツジのオレンジ色が生命力に満ち溢れていて嬉しかった。毎年のように登っている1月の八ヶ岳・北横岳も同じだ。ウン年前のこの山頂は某社のシステム開発プロジェクトで追い込まれていた頃だったなあ、とか仕事の記憶とその景色がリンクしている事も多い。
コロナ禍が終息してもしイエメンを再訪できる時が来たら、サナア旧市街のアザーンを聞いて、そしてソコトラ島の水不足に喘ぐ旅に戻ったとして私は何を感じるんだろうか。イエメン内戦の空爆で多大な人的被害と都市機能の破壊を被っているのは明らかな事実だ。それでも何も変わっていない「中世のアラビア」の暮らしがそこにそのまま続いていて欲しい、そう願っている。
<イエメン旅行の訪問地> ※Google-Mapに追記
※旅行記の終わりに
私がイエメンを旅したのは2006年9月だった。あの時期に旅できたのは幸いだった。残念な事に、現代においてイエメンの平和は長く続かなかったのだ。1960~80年代にはサナアを首都とする北イエメンとアデンを首都とする南イエメンに分裂していた時代がある。21世紀に入っても、チュニジアで始まった「アラブの春」の民主化運動を受けて2012年にサレハ大統領が退陣した。その3年後、2015年6月にサウジアラビア軍の空爆によりサナア旧市街が破壊されたのだ。2022年現在でもイエメンの状況ははっきりと判らず、外務省の安全情報(最終更新日2021年4月30日)を確認しても最悪レベルの4(退避勧告)となっているのが悲しい現実だ。
この旅行記を書き始めた2022年2月、奇しくもロシアによるウクライナ侵攻が始まった。正義とか真実はそれぞれの立場に応じていくつも存在する。でも、民間人が殺害された、病院が攻撃されたと言う個々の事実は1つしかない。他国が武器供与など軍事支援する事で戦闘が泥沼化して被害が拡大していく事は避けたい。それは、最近のウクライナにおける状況も、2015年から内戦が続いているイエメンも全く同じ事。
しかもそれが大国の思惑に翻弄されたウクライナやイエメンのような小国で繰り返されるのが悲しい事だ。日本国内ではなぜウクライナ情勢ばかり報道されるのだろうか。そうした疑問は残るけど、両国とも早期に収拾して平和な日々が戻って欲しいと願う。
【2022.5.27】タグを設定しました。
【2024.9.11】3(5)章の末尾にソコトラ島の地名を補足した。また、英語のスペルミスをdesertに修正した。