【長編】客家の土楼で21世紀を迎えた
中国・福建省の客家土楼に関する旅行記です。お読み頂いた上でご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。
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(1)厦門の駅前食堂で注文ミス
TBS「世界ウルルン滞在記」が好きだった。とても自分では行けないような田舎にお仕事で1週間もホームステイができるんだから羨ましい。ある時、この番組で客家の円楼にホームステイしている回があった。西洋の城には感動しないけどこうしたアジアの堅牢な建物に惹かれる。円形の巨大な建物で数百年が経過しても、まだリアルに住み続けているのがいい。
なんだ、若手芸能人が旅できるのだからサラリーマンしている自分も行けるな、と軽く踏んだのがこの旅のはじまりだった。
土楼(中国語でトゥーロウ)とは客家の人達が暮らしてきた要塞のような3~4階建ての建造物で、円楼と四角形の楼がある。古いモノは1300年代に建造されている。客家は華僑として東南アジアに渡っており、著名人を輩出している。歴史上の人物では洪秀全や孫文、リー・クアンユー、鄧小平、李鵬などが知られている。芸能人では女優・余貴美子がいる。あまりに巨大な構造物なので、かつて米国NASAが衛星写真を見てヒミツの軍事施設だと疑ったとか。
で、21世紀を迎える直前、1999年の年末に初めての中国旅行に旅立った。当時の「地球の歩き方」を読んでも客家の円楼が福建省の永定(ヨンディン)にあるのは分かったのだが、最寄りの街から土楼へのアクセスがハッキリしない。旅行人で土楼のガイドブックが出版されたのはその数年後だったので、私の旅もまだアドベンチャー色を誇れるものだった。まあ出たとこ勝負だった。
上海で乗り換えて、厦門(アモイ、シャーメン)空港に到着した。もう日が暮れる頃だったが、空港の宿泊案内所でその日の宿を手配してもらう。20世紀末なので、中国でもそれほどIT化が進んでいない。中国語が喋れない日本人だと分かって、筆談で交渉してくれた。ただ、「190RMB」と書かれておりこの単位が何を意味しているのか分からない。今となってみれば何の事はない。東京・丸の内にも「人人人」と書いてレンレンレンと読ませる中国風居酒屋があった。人民元を「レンミンビー」と発音するので、その頭文字を取って「RMB」だったのだ。
「地球の歩き方」によると、厦門から土楼の手前の街・龍岩(ロンシェン)まで鉄道が通っているようだ。厦門駅のいくつかの窓口で尋ねてみても「バスで行け」と言われるばかり。折角キオスクで鉄道時刻表を買ったのに役に立たなかった。駅周辺には同じ福建省にある南靖土楼の看板があった。そっちに乗り換えるのもアリだと思ったが、ここはやはり当初の目的地であるメジャーな永定に行くのがミッションだった。
厦門駅も20年も経つと今では様変わりしているだろう。ただ、1999年当時は薄汚れた建物だった。駅舎をウロウロしてトイレを探す。驚いた事に、トイレで大をしようと思って個室を探すのだが見当たらない。お尻の辺りだけ1人1人の仕切り板があるだけで、しっかりした囲いも扉もない。ちょっと横を向けば隣人と顔が合う。プライベート・ゾーンが守られていない丸出しの空間だった。そんな濃密な空間で用を足すのは勘弁して欲しい。
もう最近では見かけなくなったけど、当時の中国では1元札よりもっと細かなお札が流通していた。1角とか5角で、1元と10角が同額になる。中国の人達はそのやや小振りなお札を更に粉末の頓服薬を包むくらいの大きさに折り畳んでいた。その丁寧に三角形にまとまったお札を、公衆トイレに入る時の小銭いに充てていたのだ。
さて、駅前食堂が何軒か並んでおり、そのうちの1軒に入った。テーブルの上に新聞紙を敷いているホントの安食堂だ。そこで小龍包を食べた。ちょうど食べ終わる頃、店の主人が他のお客さんにスープを運んでいた。美味しそうなので訊いてみるとメニューを指さして「肉片湯だよ」と教えてくれた。それに続けて「#○*△!※◆!」と言われても分からない。ここは雰囲気に乗ろう。取り敢えず相槌を打つつもりで笑顔で「うん」と答えた。というか中国語が分からないので妄想で会話するしかないのだ。
でも、これが間違いの元だった。程なくして私の前にドンと肉片湯が運ばれてきた。もうお腹いっぱいで食べられないよ、一瞬にして固まる。
どうやらさっきの会話は「このスープ美味しいぞ。どうだ食べてみるか?」だったのだろう。そうとしか考えられない。なにより私は猫舌なので熱いスープ類を注文する事はない。年に1回くらい寒さが極まった時期にラーメン屋に入っても、スープの上に氷を3つくらい浮かせている。冷やしてから麺をすするのだ。スープも少し冷めていた方がしっかり味わえるじゃないか。
この時はランチで焼きそばを食べており、しかも小籠包はバスの時間までの繋ぎで軽く食べるつもりだったのだ。そんな訳で既に腹いっぱいだったし、これ以上は腹に納める術がない。スープを前にして暫く固まってしまった。
ここで「私はスープを注文していない!」と日本人がきっぱり反論するのではいかにも棘があるし、治まらない。少し食べてから勘定するのが一番スムーズだ。
でも、中国旅行のはじめから妥協すると、なんだか金を払って解決するのがクセになってしまいそうで嫌だった。
で、恐る恐る店主と話しあってみる。向こうが喋れるのはどうみても中国語だけ。こっちも日本語とカタコトの英語しか喋る事はできない。中国語はニイハオとシエシエだけだ。これではコミュニケーションできないではないか。でも、中国と日本で漢字は共通のツール。「我想……(私は……と思う)」と日本の漢字でメモ用紙に書き始めた。筆談を何往復かする事で、向こうもどうにかこちらの意図は伝わってくれたようだ。で、どうするの? って顔をこちらに向けてきた。
「折半でどうか」、そう書いてみた。曖昧な返事をしてしまった私も悪い。でも、あなたも紙に注文を書くとか念押ししなかったし、お互い様って事で納められないか、そんな気持ちだった。勿論、老齢の店主が乗ってくれなければ全額支払うしかない。
決して儲かっているとは思えない安食堂、それでも店主はスンナリと折半に応じてくれた。
そうか、中国語が喋れなくても筆談すればなんとかイケるな、とちょっと自信を付けた瞬間だった。中国でも英語圏の国と同様になんとかなる、そんな安堵の気持ちを得て、龍岩行きのバスに乗り込む事ができた。
(2)永定土楼への道は手探りで長い
厦門から龍岩へバスは5時間も掛かった。中国大陸の大きさをリアルに実感できないので、同じ福建省の中で中核都市から地方までこれだけ時間を要するって事にどうにも頭が回らない。また別の旅をした時に青島から上海まで新幹線で確か5時間くらい掛かったと思う。それだと中国全土の地図でもその距離をリアルに感じる事ができるのだが、この時は初めての中国だったので、どうして、どうして、と疑問が尽きなかった。
夜8時くらいにバスが到着しても、旅人を上手く宿に運んでくれるシステムはありがたい。バスの降り口に爺さんが待ち構えており、なんとなく安宿に案内してくれた。1泊80元(RMB)の味気ないビル。不思議だったのが、フロントには真っ赤な制服を着た美女が2人、およそ安宿には似つかわしくない。フロア毎に詰所があってそこにも真っ赤な制服を着た美女が静かに座っていた事。安宿にどんな用事があるのだろう。もしかして監視されていたのか。その後、中国に8回ほど旅行したけど、こうした宿にお目に掛かった事はない。
この宿でお湯が出るのだが、なんと浴室にプロパンガスのボンベがそのまま置かれていた事。その元栓を捻らないとお湯は出ない。でも、なんとも大がかりな設備だ。あと、どの宿でも共通だった事だが、お湯はポットに用意してくれていたけど、いずれも木の栓で蓋をしていたのが不思議な共通点だった。
<福建省のホテルではこうしたポットを常備 土楼は川の近くに点在していた >
年末年始を利用した短期旅行なので、朝食のお粥とゆで卵、大根の煮物を食べてとにかく先を急ぐ。龍岩から永定までバスで2時間。レンガ造りの家、数軒まとめた長屋造りのコンクリート打ちっぱなしの商店が目立つ。終点間際、街中の一角に露天風呂を発見。確か「永定○○温泉」と書かれていたと思う。露天風呂の雰囲気と言うよりも屋外プールにみんなで浸かっているように見えた。もちろん入ってみる。中国にも温泉文化があるのか。温泉もその後の中国旅行で1度もお目に掛かった事はない貴重な経験だった。
旅の甘い皮算用によると永定までの途中に客家の土楼があるか、あるいは永定村そのものが土楼で溢れる村だと思い込んでいた。でも、ここも地方の小さな都市であって私の目的地ではなかった。永定のバスターミナルを見つけて、土楼行きの時刻を調べる。と言っても窓口はなかった。珍しい外国人の登場に、外野席が賑わしい。どうやら20人くらい集まっていたその殆どがバイク・タクシーの運転手だった。英語は通じないし筆談で教えを乞う。
どうやらバスは朝1本だけあるらしい。とっくに出発時間を過ぎている。次のバスは明朝だ。
「俺のバイクに乗れ!」
そんなアピール合戦になった。その中にもなんとか英語を喋れる兄ちゃんがいた。彼の「50元」に決めてバイクの後ろに乗った。そもそも何時間くらい掛かるのだろう。そんな事すら分かっていなかった。舗装道路はすぐに終わり、田舎道が延々と続いていく。しばらくすると、兄ちゃんがバイクを止める。
「お腹は空いていないか? 昼を食べよう」身振りを添えて促してくる。
まあいいか。でも、土楼ってそんなに遠いのかと今更ながらに広い中国の国土を思い返す。道端に立つバラック小屋みたいな食堂で、煮物椀くらいのサイズの植木鉢に入った白飯が出てきた。やや固めだけど、植木鉢に盛ったままずっと蒸していたので、熱すぎるくらいだった。おかずはトンポーローと牛スジ煮込みスープで、場所に似つかわしくないほど美味しかった。こっちはおっとり食べていたのに対して、バイクの兄ちゃんはガツガツ喰いまくる。ゴハンもお代わりしている。
(3)20世紀最後の夜、振成楼に泊まる
午後一気に走って、いよいよ客家の村に入る。円楼や四角形の方楼を横目に見ながら、しっかりと振成楼(シンチンロー)の前まで送り届けてくれた。いざ、この土壁の前に立つとあまりの大きさに圧倒される。それはタテもヨコも面で圧されるような感覚だった。タテは4階あり、ヨコは直径100mくらいありそうな円形で威圧感ある。これなら外敵の襲来を受けても籠城して持ちこたえられそうな安心感がある。
中に入ってみよう。居間や台所があって1階が客家の生活空間だと分かる。2階の部屋は物置のようだった。3階と4階にずらーっと部屋が並んでいる。ザックリ100部屋くらいありそうで、一族郎党うち揃って居を構えられるサイズだ。その1つを見せてもらい、外壁の厚さが1mもある事、隣の部屋との壁も土を練って作っている事を教えてもらった。部屋のドアも頑丈な太い木材で据え付けられており、床には石組みだった。
3階の廊下で内円のカーブを目で辿っていくと、確かに土楼が丸い事を納得する。柱は四角く切り出した石を積んでいた。洗濯物を廊下側に干しているのでそこそこの人数が暮らしている事が分かる。円楼の中央部には小さな2階建てのミニ円楼が建っており、その奥に社があった。
そうこうしているうちに、バイクの兄ちゃんは「(土楼観光は)もういいだろう。早く街に帰ろう」って顔をしている。うん、大丈夫かな。こっちは客家の土楼に泊まりたいんだけどなぁ。そう、元々そのつもりバスとバイクに揺られてここまで来ていた。勿論、宿は予約なんてしていない。
振成楼の赤ら顔のオバちゃんにどうみても英語は通じない。で、手を合唱して枕に見立てて首を傾けて寝るポーズを作ってみた。幸いオバちゃんはすぐにこちらの意図を察してくれて交渉成立。ここでも、でたとこ勝負で旅がなんとか成立する事を証明できた。
そうなるとバイクの兄ちゃんとしては「話が違う!」と怒り出す。どうやらこんな主張だった。
「片道70元で往復だから140元だ。俺はそのつもりでここまで来た。もし、どうしてもここに泊まるなら片道100元だ。それに、ここで一泊しても誰も明日ここまで迎えに来てやらないぞ!」
うん、呉越同舟だったのか。その言い分に多少は同情の余地があるけど、どう言い返したらいいモノか迷っていた。スッと答えるほどの英語力もない。それを見かねた振成楼のオバちゃんが上手い具合に仕切ってバイクの兄ちゃんは退散。でも、3時間も掛けて送ってくれた事には十分に感謝している。
昼間は承啓楼、景陽楼、五雲楼(漢字が読めなかったので五雪楼かも)など周囲の土楼も見学した。円楼も四方形の土楼も見た。防御のため、いずれも1階には窓がない。でも、よくこんな要塞みたいな巨大な住居を何百年も維持してきたものだと改めて感心する。橋には練炭を干してあり、川で洗濯している人もいた。土楼村はいたって長閑だ。
夕方になると、オバちゃんがバケツに汲んだお湯を2つ用意してくれていた。「これで体を洗え」と言う。三方を板で囲った狭いスペースに石が敷かれていて、そこで体を洗った。シャワーも湯舟もない簡素な風呂場だった。
これまで、泥の建物をいくつか見てきた。マリ共和国の柔らかいフォームのモスクや泥壁の家、イエメン・シバームの7階建て泥マンション、パプア・ニューギニアのゴロカ郊外の村にある泥壁の小屋。それらは概ね熱帯地方や砂漠地帯にあり、総じて原始的な造りだ。シバームのマンションは形状からして緻密に計算されており、地上階に窓がないなど土楼と同様に城壁の役割を果たしていた。シバームに関しては内部の見学が叶わなかったのでハッキリした事は言えないが、炊事や入浴など水を使った生活も全てこなせる点でこの土楼の方が持久戦に強そうだ。 【註】マリ共和国とイエメンの旅行記は弊HPに掲載済。
夜は、オバちゃんとご主人、高校生と中学生と思しき娘さん2人と食卓を囲む。地元の酒を勧められて「カンパイ!」と言うと、御主人の口元も綻ぶ。円卓には骨付き鶏肉、えんどうと肉炒め、野菜炒め、白飯が並んでいた。大晦日の食卓を5人で囲むなんて何年振りの事だったのか。子供の頃、大晦日の食卓は「お年とり」と言っていつもよりおかずが多かった。ハッキリ覚えているのは刺身とトンカツと茶碗蒸しが一気に食卓に並んだ事だ。中国では旧正月を祝うため年末にはそうした習慣がないのか、それとも骨付きの鶏肉を食べている事がお祝いだったのかも知れない。
この夜は大晦日、しかも1999年の12/31だったので20世紀最後の日だ。私はIT企業のサラリーマンで、IT企業には開発部隊と保守部隊がある。当時システム開発担当だったので忙しかったけど、開発が佳境でなかったので年末年始をしっかり休めた。他方、保守部隊は2000年問題で元旦に向けてテスト、テストの日々だった。
<振成楼、景陽楼>
当時のシステムでは西暦年を「1999」と4桁で管理しているものと頭に「19」と付ける前提で「99」と2桁で管理しているものがあった。噂では、2000年を迎えた所でシステムが1900年と勘違いして飛行機が飛ばなくなるとか、銀行ATMでお金が引き出せなくなるとか社会全体に関わるトラブルが頻発するんじゃないかと恐れられていた。私の周辺では、経理システム、給与システム、物流システム等を運用していたけど、とにかく2000年に向けて運用テストを繰り返していた。製造工程では4桁管理が基本だったけど、OSやミドルウェアが原因となって想定外の障害に繋がる事態も考えられる。稼働確認は生産性のない仕事だと分かりつつも、顧客に迷惑を掛けてはいけないので、テストに忙殺されていたのだ。そして、夜が明ければ即2000年、本番を迎える際どいタイミングだった。
夜、星を見ようと思い振成楼の重い扉を開けて外の空気を吸う。田舎で空気が綺麗なのだろう。満天の星だった。夜は寒いので山小屋に泊ってもわざわざ星を見る事も少ない。星空がきれいな場所ってそれほど多くない。当時の旅先の記憶だと福島・浄土平、沖縄・宇出那覇、マリ共和国のドゴンの村くらいだった。
冷えて張りつめた空気の中で星空を仰ぎ見ながら、何世紀にも亘って生活を営んできた客家の土楼で21世紀を迎える瞬間に立ち会える事にちょっと喜びを感じた。ITシステムの2000年問題でどんなトラブルが生じるのか知らないけど、もうそんなのは全く埒外の事だった。帰国便も1/3なので間違いなく飛ぶだろう。
(4)土楼の正月はいきなりグロテスク
2000年の正月が明ける。おめでたい朝、1階に降りていくと、おっと、いきなりグロテスクな絵に遭遇した。オバちゃんと娘さんがしゃがみ込んで鳥の毛を剝いでいるではないか。ニワトリにしては痩せていたけど、毛を剥いでいくとこんな格好になるのか。私に気が付くと作業を続けたまま顔だけこっちに向けて「ザオシャンハオ(早上好:おはよう)」と挨拶を交わす。よく見ると、桶に汲んだお湯に鳥をつけて温めながら毛をむしっていたのだ。
もう日本ではこういう場面に日常の中で遭遇する事はない。でも、肉を食べる、生きるものの命を奪ってヒトが頂くって意識が薄くて、こういうプロセスを通過しないと食べモノにありつけないのだと実感しにくい。そんな分かり切った事を心の中で反芻しながら、それでも正月くらいやめとけばと余計なお節介を口にしたくなった。
朝食は豆腐炒めの干しエビ乗せ、青菜炒め、お粥だった。改めて村を散策してみるが、TVもない客家の村では元旦の朝は至って静かだった。子供たちが凧あげしているくらいで、おそらくいつもと変わらない朝だった。もし旧正月だったらもっと賑やかだったのかも知れない。
<内装には石柱、別の円楼では木が目立つ(写っているのは村の青年)>
この一家と別れはアッサリしていた。オバちゃんは一泊二食の宿代(50元+2食10元)を貰うと、あっさり家事に戻って行った。ちょうどどこかに出掛ける所だった無表情な長女が小走りでやって来て、野太い声で「ツァイチェン!(再見:さようなら)」と一言。夕べの食事時に英語でちょっと話しただけだったが、綺麗な発音だった。それと不釣り合いに重たい「ツァイチェン」だったのだ。
語学ってどんなにガイドブックを読んだりにわか勉強しても覚えられるものではない。でも、こうして旅の一コマとともに耳に残った音はしっかり記憶されて、もう2度と忘れる事はない。
はて、中国人はどうして笑わないのだろう。龍岩のバスターミナルに着いた時、思わず目が合った屋台の若い女性は笑顔だった。大晦日の夜にカンパイしたオジサンも笑顔だった。でも、笑顔の記憶はそれくらいしか思い出せない。
どの国でも「さようなら」って伝える時はふつう笑顔になっている。中国では「チ」にドシッと強いアクセントが乗っかり、「ェン」は吐き捨てるように発声している。語尾が吐き捨てるような語調になるのは四川省の省都・成都のチェンドゥを「ゥ」が突き出すように発音するのと同じでずっと耳に残った。
客家の土楼での別れは無表情なものだった。私の訪問が歓迎されていなかったのか、まさかそんな事はなく単にそういう文化圏なのだろうと思った。五大陸40数カ国を旅する中で、子供が旅人に対して笑顔を見せないのは、東アジアの3ケ国・日中韓くらいだ。これは地域的な民族特性なのだろうか。国によってはバクシーシをせがむ子も混じっているけど、総じて子供たちは無邪気に寄って来て写真を撮ったりする。でも、中国では日本と同様に距離を感じるのだ。日本だとカメラが珍しいモノではない。ただ、当時の中国だとまだまだ興味を惹く珍しいモノだと思っていたので意外だった。まさか10才以下の子供たちにも反日感情がどっぷり植え付けられているとも思えない。
この旅で唯一、睨みつけられた事があった。これは私が悪い。それは厦門のホテルをチェックアウトする際、フロントの女性が掃除係に電話して「部屋のタオル(毛巾)が無くなっている」って知れた時だった。フロント女性の無表情がいきなり怒りの表情に変わった。カシャカシャとペンを動かして、メモ用紙に「毛巾、10元(約140円)」と書いてペン先を机にトントントンと叩いて苛立ちを示してきた。初めての中国旅行の記念にタオルを持ち帰ろうと思ったのだが、思わぬ反撃を受けた。使い古しのタオルだったけど、まあ折角なので反論する事なく10元を支払った。
もしここが香港のホテルなら備品が紛失していてもそのまま放免されるだろう。向こうはクレジットカード番号を控えているので、後で追加請求すればいいだけだ。と言うか、外出用のトートバックを持ち帰った後で、実際に50香港ドルくらい課金されていた事がある。
さて、日本の子供の事はさておき、中国人がどうして笑わないのか。その答えの1つとなりそうな理由を橘玲「言ってはいけない中国の真実」から引用してみよう。これは元々「橘玲の中国私論」で出版されていた本の文庫本だ。
「アラブ人のムスリム(イスラーム教徒)に接したとき、私たちは『相手のことがわからない』と不満を感じたりしない。……(中略)……しかし日本と中国の場合、お互いに相手のことを自分と同じだと思っているから、『ちがっている』ことが不満につながる(p.60)」
要は、日本人と中国人、顔つきは似ているし漢字を使いこなせるのも共通点だ。それなのに言葉も歴史もお互いにスッと判り合えないのが政治の場面でイラつく原因なのかも知れないし、それが個人どうしの接点にも絡んでくるかも知れない。
でも、それだけで説明できるものでもない。内陸部の他の省で欧米人と同じツアーに入って旅した事もある。その時には彼らが欧米人に対しても全く同じような態度で接している、笑わないのを見てやっぱり不思議に思った。勿論、フレンドリーな対応もいろいろ経験しているので、人それぞれなのは分かっている。もう一ケ所、同書から引用してみよう。
「中国では抗日の機運が盛り上がり、『国恥』と『弱国意識』から中国民族のアイデンティティがつくられていった。(p.264)」
すでに2011年に中国のGDP(国民総生産)が日本を抜いて世界第2位になるまでに成長しており、こうした見方は過去形になっていくのだろう。
<この部屋で21世紀を迎えた、バス停の傍にあった食堂>
(5)一番おいしかった中華料理
土楼で僅か1泊するためにバスとバイクを乗り継いで向かった福建省のかた田舎。最後に、毛をむしられて真っ白くなった鳥と野太い「ツアイチェン」の声が残った。
村の兄ちゃんにバイクでバス停まで送ってもらう。なんだ厦門まで直通のバスがあったのか、とここに至ってようやく知る。(註:この日の夕方、客家の村はずれから厦門バスターミナルまで狭苦しいミニバスでなんと7時間ほど掛かった。)
バス停は田舎の一本道にあり、傍にバラック小屋が建っていた。兄ちゃんに「まだ時間があるから昼飯を食べていくといいよ」と促される。バラック小屋のご主人は、ヒゲ面の50~60代で着衣もしっかり汚れている。しかも左手前腕は包帯を巻いていた。果たして、大丈夫なんだろうか? 味の心配、そして衛生面の心配ともに不安だった。
「何を食べたい? 肉か?」とぶっきらぼうに喋ってくる。まあ、食べられれば何でもいいってのが こちらの思いだった。
中華鍋をサッと煽って出てきた皿は2品。一つは豚肉とさやえんどうの炒め物。もう1品は豚肉とカリフラワーの炒め物。どちらも肉は僅かで9割方は野菜の炒め物だった。2品とも脂ギトギトだが、辛くない。オイスターソースで仕上げていたのか、美味しくいただく。特にプリプリのさやえんどうが美味しかった。中華鍋で一気にガッと煽っているからウマいのか、とにかく中華料理に改めて驚かされた田舎の野菜ランチだった。
その後も中国に行っては市井の安食堂でも5つ星ホテルでも食べているけど、シンプルなのにこれだけ美味しい料理にはお目に掛かっていない。日本の中華料理屋のメニューに空心菜のニンニク炒めがある。ただ単に強火で煽っただけなのに中華屋さんの青菜炒めはニンニクの香りで熱いものがこみ上げてくる堪らない美味しさ。その空心菜をさやえんどうに変えて、肉片をちょっと散らした程度の原価が安い一品だった。きっと野菜が新鮮だったのだろう。
今でも空心菜の炒め物を作る時など、この時のさやえんどうの炒め物を想い出す。どうすればあんなにいい味を引き出せるのだろうか。中国渡航歴が8回を数えても未だに最高の中華料理として輝いている。
以上
※あとづけ
本来なら土楼の人々もさやえんどう炒めも写真があると分かりやすいのだが、如何せん旅したのは1999年末のこと。私がデジカメを買ったのはもうちょっと後だったので、まだこの時には24枚撮りフィルムを3本くらい持って旅していた。なので、土楼の写真ばかりでそうした写真は1枚も撮っていなかった。