【長編】四川省で揉まれて中国語を知る
中国・四川省の成都・九塞溝・黄龍・楽山大仏に関する旅行記です。お読み頂いたお読み頂いた上でご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。
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(1)「はじめての指さし中国語会話」
海外旅行はいつも航空券オンリーで出掛ける。出たとこ勝負で何とかなるって身をもって知ったためだ。なので、常に最低限の英語でやり過ごしてきた。
「そんな訳ないだろう」と言われるがホントの事。とにかくヒアリング・スキルが弱いのが悩みだった。試しにTOEIC試験を受けてみると、リーディングは人並みの成績だけどヒアリングは悲惨なもの。受験者全体の中でどれくらいの位置にいるのか、その身の程を教えてくれるのだ。なんと100人中下から9人目。これでは要領を得た耳からの情報収集なんて皆目ムリなのだ。
なので、言いたい事だけカタコトの英語で喋って要件の本筋だけは通していく。細かい事は想像力でカバーしていくのが旅のスタイルだった。勿論リスクはあるけど、そんな時は時刻や金額など数字を紙に書いて誤解を避けられるように努めてきた。
それはそれで構わないと諦めつつも、福建省の客家の土楼で初めての中国旅を楽しんだ時になんとももどかしかったのも本当だ。筆談ができるのはお互いに漢字を読み書きできるからであって、簡体字も繁体字も慣れてくればなんとなく読めるようになる。なので、あと一歩って気がするのだ。
そんな時に書店で見つけたのが「はじめての指さし中国語会話」。これはシリーズもので書店に60冊以上並んでいたので、タガログ語とかミャンマー語などレアな言語にも対応している。この本のありがたいのは、1つの事を3つに表記してくれている事。
・中国語
・カタカナ(中国語の読み方)
・日本語
ここまで丁寧に書かれていると、こちらは発音に自信がなくても指さしながら中国語で質問できる。中国人も簡体字を探して指させば、すぐに不勉強な日本人に伝える事ができる。例えば「ミョンティン(明天)」と何度言われてもすぐに「明日」だと繋がらない。そんな時にも、時制のページを探して、なんだ明日の事かと要領を得る事ができた。
フレンドリーな場面ではこれでそこそこ凌げたけど、空港のようにみんなが急いでいる場面ではそんなトロトロした会話に付き合ってもらえない。ようやく「ミョンティン」に馴れた頃には空港で「次のフライトはホウティェン(后天)までないよ」と何度も繰り返されて困った。日本人は「后」字を午后と西太后(清朝の王妃)くらいで見たくらい。どうにも想像できなかったと同時に、日本語の明後日の方が読んで字のごとくスッキリ分かりやすいなと思ったのだった。
(2)中国初日からボッタクリ被害
観光で訪れる場合、大抵はある国を旅すれば一度で十分分かったような気分になれる。それに何度も深堀りしていては200有余もある他の魅力的な国々を回る余裕がなくなる。
ただ、世界遺産が56(2022年春現在)もあって少数民族も個性的な中国を同じ気持ちでアッサリ片付けてしまうのはもったいない気がしてならなかった。どこに行こうか、雲南省、万里の長城、桂林など2度目の中国旅の候補地はいくつも湧いて出てきた。そんな中で、内陸部の2省を選んだ。1つは「三国志」の舞台、蜀の四川省だ。四川省の北部には澄んだ青が美しい九塞溝(ジュウジャイゴウ)と黄龍(ホワンロン)がある。もう1ケ所はきらびやかな衣装を纏った少数民族の村が点在する貴州省だ。航空券は上海経由で成都(チェンドゥ)イン、貴陽(グイヤン)アウトで購入した。
本来なら寄り道しないで成都に直行すればよかったのだが、上海での用事が長引いてしまった。予約便に間に合わなくて、その日の午後は上海市内で航空会社のオフィスを探して変更手続きに追われてしまった。ようやくスッキリした夕方、最も賑わっている南京東路を歩いていた。呼び込みの声がスーッと柔らかく耳に入ってきた。
「50元、座るだけ、アンシン」
「ニホンジン、50元、ダイジョウブ」
ちょこちょこ海外に出掛けているとマイルが貯まる。この旅では成田―上海間がマイレージを利用した無料航空券をゲットしていた。国際線で初めての無料航空券。これでお金が浮いたので、気が大きくなっていたのだろう。つい、50元(約700円)ならまあいいか。大丈夫と言うので、軽い気持ちで呼び込みに付いていった。因みに中国語の「大丈夫」は「男らしい男」を意味しており、日本語における形容詞としての使い方とは異なっている。
最初は日本語を喋れる女性と呑んだ。2人目は中国語オンリーの美人さんが傍に付いてくれた。ここで「はじめての指さし中国語会話」が役に立つ。
で、その1~2時間後には目が虚ろになり、ソファに姿勢を保ったまま座っていられる状況ではなかった。酔いでつい体が左右に傾く。目の前にはウイスキーを呑んだグラスがずらりと並び、完璧に酔っぱらっていた。バーの男が会計を知らせに来たので、気だるそうにレシートを受取る。これだけ呑んで50元はあり得ない、500元くらいかとグワングワン頭が回ったままレシートを見ると3900元(約5.6万円)と書かれている。
一気に酔いが醒めた。立派なボッタクリだ! 主張したい事はあっても、たっぷり呑んだ事実は免れない。それにボッタクリだと訴えられるほどに中国語も英語も喋れない。ディスカウントを頼んでみても、不愛想に「メイヨウ(没有:ありえない)」を繰り返すばかりで埒が明かない。逃げるほど足は速くないし、なにより体力がないので殴られたら一発で終わりだ。もう大人しく観念するしかなかった。
初日から思いのほか散財してしまった。溜まったマイレージでせっかく航空券代が浮いたのに上海の夜の散財でチャラになった。もう騙されないぞ、と気を引き締めつつ虹橋空港に向かった。いよいよ四川省の旅が始まる。
(3)プーヤオラーダー
23時過ぎに成都(チェンドゥ)空港に到着した。勿論、いつもの調子で宿の予約はしていない。大空港なのでエアポートホテルもあるだろうしなんとかなる筈と無策に構えてみたが、どうやら様子が違う。ホテル案内カウンターはあったのだが、無計画な日本人にカウンターのスタッフ達もどうやら呆れている様子だった。
空港敷地内にある航空酒店があると言う。スタッフの車で送迎してもらった。と言うか、雨が降っていたので中国人も心配して乗せて行ってくれたのだ。中国語ガイドブックを手に取りながら
「我是日本人(ワォーシー・リーベンレン:私は日本人です)」
と伝えてみる。彼らは私を指さして何度も「リーベンレン」と呼ぶ。どうやら四川省では北京と発音が違うみたいだ。
その夜はベッドにありつけてぐっすり睡眠。ただ、夜中に尿意で便器の蓋を開けた所で一気に目が醒めた。まさか、便器の中に蟻が列をなして行進しているではないか。
中国のホテルは名前の後半でだいたいの序列が分かるようになっている。星5つは○○大酒店、星4~3つは○○酒店。星2つだと○○賓館になり、中には○○客桟と付く宿もある。正直なところ、日本人の衛生感覚で許容できるのはやっぱり○○酒店までだろう。○○賓館に泊まった事もあるが、それならゲストハウス(青年旅舎)を選んだ方が賢明だ。広西チワン自治区の村では「客桟」と付く宿にも泊まった事がある。バスを乗り継いでいくようなド田舎であればそもそも宿の選択肢がたいしてないので「客桟」でも快適に泊まれるが、主要都市では衛生面でオススメできない。
翌朝、四川省で朝食を食べたいのでホテル周辺をうろついてみる。と言うか蟻の群れに怖れをなしてノンビリ眠っている心の余裕がなかったのだ。
歩いてみると、ここがどうやら空港の敷地の外だと分かった。コンクリート3階建てのビルを覗いてみると1階が生鮮市場になっていた。東南アジアで遭遇する賑やかなマーケットと比べると静かだった。その一角にラーメン屋があった。食べてみたいが四川料理は辛い。いざモノが目の前に出てきても辛くて食べられないのでは困ってしまう。
ここでも「指さし中国語会話」本が活躍してくれた。辛い物が苦手な時には「プーヤオラーダー(不要辣的)」と伝えればいいんだな。調理場の兄ちゃんにそう伝える。
で、麺類が運ばれてきた。真っ赤じゃないか。一瞬、固まる。汁の表面が真っ赤に染まっていたのだ。もしかして「プーヤオラーダー」を理解してくれなかったのか。四川省に到着して早々、唐辛子の大盛りでは先が思いやられる。
まず一口食べてみよう。うん? 辛くない。この赤いものは何だ? それはトマトの薄切りだった。「プーヤオラーダー」はしっかりと伝わっていたのだ。トマトの下にストレート麺が隠れていた。
猫舌なのでいつもならラーメン、うどん類は食べ慣れていない。食べる時にはほぼつけ麺か冷やしうどんだ。温かいのを食べる時にはお冷をもらってコップ1杯の冷水でスープを冷ましてから食べている。余りに熱いと味を感じないけど、こうしておけば猫舌でもキチンと麺類にありつけるのだ。
ラーメンはオイシかったし、なにより自分の中国語がスッと伝わった事に満足したトマト麺だった。中国語で書くとトマトが番茄、麺はラフに面と書くので「番茄面」かも。
<トマト麺、謎の四川料理>
(4)九塞溝ツアー探しで、成都をひと回り
さて、成都市内に入って最初にしたのは九塞溝・黄龍へのツアー探し。出たとこ勝負の海外旅をしている身分としては、航空券を使い終わった所でその先の旅のプランが白紙なのだ。成都の中心部で旅行代理店をいくつか当たってみる。どうやら自力で旅するのは無理そうだ。
こちらの主張はハッキリしている。2泊か3泊でその2ケ所を回って成都に戻ってきたい、それだけの事。最初に飛び込んだ代理店はカタコトの英語で対応してくれ、おおよその相場観は掴めた。ただ、バスツアーのお客さんは100%中国人なのでオススメしないと言われてしまう。2軒目、3軒目と回れど、そちらの店では英語が殆ど通じない。旅行代理店なら日本人客からちょっと稼いでやろうと思ってもいいのだが、とにかく腰が引けていた。話しても埒が明かない。
思えば成都空港に到着した時に「川主寺空港」ゆきのフライトがあるのを見つけた。川主寺は九塞溝に尤も近い町の空港だ。そこまで行けば時間を短縮できるのだが、如何せんその先のルートが見通せない。日本からのパックツアーに参加していればきっとこのルートを使えるのだろう。でも、旅程は買うものではなくて、作るもの。そう考えると成都で苦労するのが一番。成都は四川省の省都で人口は2093万人(2000年時点)で東京の規模を裕に超える巨大都市である。
因みに中国には市街地人口が1千万人を超える「超大都市」が北京や成都など7つ、人口5百万~1千万人規模の「特大都市」が杭州や西安など14を数える。なので、成都は日本での知名度こそ今1つだが、とても1旅行者がホイホイと自由に観光できるような規模ではない。
そんな超大都市で九塞溝ツアーを探すのはかなり困難なのだと思い知る。しかも、沿岸部の巨大都市と異なり外国人の流入もまだ少ないのだろう。カタコトの英語が通じないのは困った。
5軒くらい回った所で諦めて、最初の店に戻った。
「あなたの英語が成都で一番聞き取りやすい。だから、ツアーを申し込ませて」
そう頼んだのだった。
代理店の女性はにっこり。それでも「本当に中国人と一緒のツアーで大丈夫なのか」と念押しされる。四川省を旅する限り辛い食べ物から逃げられないし、あまり深く考える事もできなかった。お経のように長い巻きものの書類が出てきた。当然ながら全て漢字で書かれており英語版はない。よく分からないけどとにかくサインするしかない。最後に「保険加入も必須」と促された。万一の時にどうやって保険請求するのだろう、そりゃあ無茶だなと独り言を言いながら保険の書類にもサインする。
3泊4日で780元(約10,600円)、それに保険料30元(約410円)を支払う。これは西アフリカ・マリ共和国のトレッキングと比べて格安だ。ザックリ3分の1か4分の1で抑えられている。タイの山岳民族の村をトレッキングする場合でももうちょっと高く付いている。ただ、人数を集めるので旅行会社としてもペイできるのだろう。
はて、どんなツアーになるのか。「明日5時にピックアップだよ。ヤマは寒いからすぐにジャンパー買っといてね。」と念押しされて、成都の街で人ごみに紛れた。
(5)おいとまします
九塞溝へ行く目処が付いたのでホッと一息。成都の街を彷徨ってみる。
公園など屋外にテーブルを囲んで4人でゲームをしている人達が目立つ。麻雀ではなく、白と黒のキューイフルーツ大の牌で遊んでいた。囲碁の碁盤よりずっと粗く、オセロのように8×8くらいのマス目だった。みんな、マイボトルを持ち込んで長期戦で粘っている。
武候祠(ウーホーツー:諸葛孔明の霊を祀る)を観光した後で、足のマッサージをしてもらう。香港の足裏マッサージだと棒を使って思いっきり押してきたのでヒーヒー悲鳴を上げていた。本場中国ではどんなものかと体験したかったのだ。
部屋に通されると、冷たいお茶とスイカが運ばれてきた。スイカは薄めの2切で、概ね食パン2枚分くらいの分量だ。ちょうど喉が渇いていたので、こういうサービスは嬉しい。冷茶のコップは細長いもので、そこは長い茎が付いた茶葉がグッと押し込まれていた。これはさっき成都市民が呑んでいた茶葉と同じものだろう。
若いマッサージ師さんが入ってきて、桶に入った薬草湯に足を浸すように促す。足の緊張を解くまで時間があったのでお茶を頂く。が、甘党の私には苦みがある。
成都のマッサージは足裏から膝下までしっかり揉みほぐしてくれる。香港の棒で押し込むようなキツイものではなかったので、安心して身を任せていられた。なんだか幸せ。
少し中国語で話そうとするが、こちらが何を言っても「ティンプトン」と言って笑うばかり。参った。とにかく成都を歩き始めてからずっとこの言葉につきまとわれている。上海や福建省では全く聞いた事のないワードだった。おそらく「分からない」って言いたいんだろうけど、こちらとしては要領を得ないし何ら解決しないのでストレスも溜まってくる。
帰国してから中国通の同僚に聞いてみると、それは「聴不憧」と書いて「聞いても理解できない」意味だと知る。ガイドブックには「不明白(プーミンパイ)」と載っていたので、こちらとしてはガーッとまくしたてられるといつもこの言葉で遮っていた。それと同じ場面で、四川省の中国人は「ティンプトン」と言っていたのか。気持ちは分かるけど標準語で「不明白」と伝えて欲しかった。どうしても投げやりに聞こえてしまうのが、どうも「没有(メイヨウ)」の語感に似ているのだ。
因みに、見ても分からない事を中国語で「看不憧(カンプトン)」と言う。「聴不憧」と「看不憧」を繋げて早口で喋ると
「ティンプトン・カンプトン」
「ティンプン・カンプン」
「チンプンカンプン」
と訛って、今では子供でも知っている日本語になったとか。
さて、「指さし中国語会話」本を見ながら慣れない中国語会話をしてみる。中国語(漢字と読み方)と日本語が併記されているので、お互いの会話がいきなりスムーズになってきた。
「請多関照(チンドーグエンシャオ:はじめまして)」
「私は東京に住んでいます」
「あなたは何歳ですか?」
最初はそんな何気ない会話だった。
マッサージしながら足の裏のタコが気になったようで何か喋ってくれる。分からないなりに返事をすると白衣をまとったヒゲのお爺さんが登場。道具箱からナイフを取り出してきた。いったい何が始まるのか。
なんと、ナイフとカッターで足裏のタコを綺麗にそぎ落としてくれた。切った所に微妙な段差が付かないようにヤスリで滑らかに仕上げてくれた。痛みは全く感じない、プロの手技だ。足の裏がこんなにツルツルしたのは大人になってから初めてじゃないか。まさに中国4000年の秘儀だった。これには感謝。
マッサージ師が戻ってくると、足裏をチェックして「好(ハオ:良い)?」と笑顔で訊いてくる。お互いに中国語会話本ページをめくりながら会話を続けていくと、表情も柔和になる。形容詞のページを見つけるともうそこから離れなかった。互いに形容詞を伝え合うようになっていた。
「有意思(ヨウイス:面白い)」
「高興(ガオシン:嬉しい)」
「漂亮(ピャオリャン:かわいい)」
マッサージが終わるともう一度お湯を汲んできて桶に足を浸してくれる。最後に彼女がニッコリ笑って文字を指さす。
「先走了(シンゾーラ)」
「指さし中国語」本の日本語訳に「おいとまします」と書かれていた。なかなか柔らかい言葉を選んでくれたものだ。些細な事だけどそれが嬉しかった。一言「謝謝(シエシエ:ありがとう)」でも「再見(サイチェン:さようなら)」でも簡単に済むところを丁寧に伝えてくれた事が嬉しかった。やっぱりこの本を持ってきたのはやっぱり正解だったのだ。
初めて中国を旅する前には、ニュース報道の影響もあって中国は怖いって先入観があった。でも福建省の旅はいい思い出だ。漢字を使いこなせる民族は日中港台くらいに限られており、お互いに漢字も容姿も似ているけど円滑にコミュニケーションを図れないのが距離を感じる一因なのではないか。確かに戦争の悲劇はあったし、戦後に反日教育がなされた。でもやはり国と国の関係は政治家に考えてもらうとして、民間はフレンドリーに交流すればいい、そんな四川省の旅の始まりだった。
(6)3泊4日中国人満載のバスツアーに出発
さて、いよいよ九塞溝・黄龍ツアーが始まる。バスは確かに5時に迎えに来てくれた。ただ、成都市内のホテルとバスターミナルでツアー客をピックアップしていくので、実際に郊外へとバスがスピードを上げ始めたのは8時過ぎだった。その間、ずっと成都市内を回っていた訳だが、成都市民は概して小柄で、服装も暗っぽい色合いが多かった。
人の往来があまりに激しい事、成都の巨大さはバスに乗って改めて実感する。もしごった返したような街角に放り出されたらきっと無傷で戻ってこられないだろう。上海なら地下鉄網が整備されてきているので、迷っても駅を探せばなんとかなりそうだ。でも2004年当時の巨大都市・成都にはまだ市内鉄道網が発達していなかったし、そんな不安を感じながら車窓を眺めていた。
バスは約40名で満席になり、ガイドさんも客も100%中国人だった。いくつもの街を通って田園地帯を北上していく。
その中で気になる場所があった。ド田舎に突如として城壁都市が姿を現したのだ。巨大な四角い城壁に囲まれた街だ。日本で喩えると江戸時代の暮らしがそのまま現代まで続いているのではないかと期待させるものがあった。如何せん集団行動なのでここを見学したいとも言い出せないし、もしここで我がままを言い出したらこの旅で九塞溝の大自然を拝むのを諦めるしかないだろう。
正確な地名を記憶していない。帰国後に調べた限りでは、それはおそらく松州古城だろう。この憧れの存在がずっと頭の片隅に残ったまま、それから8年後に西安を訪れた。西安は唐の都として栄えた長安であり、そこには今でも巨大な城壁があり、その厚さも5mくらいあった。城壁の上をゆっくり歩いた事でようやく松州古城の記憶を昇華する事ができた。
山岳地帯に入るとかなりの悪路が続く。休憩所で待ち受けている人々の顔つきも大都会・成都とは異なってくる。寒さで頬が赤く染まっており、田舎っぽさが滲み出てくる。ヤクを曳く男は厚手のジャケットを羽織っており、カーボーイハットは不釣り合いだった。
左側が崖になっており、日本のように法面をコンクリートで固めているわけでもない。木が生えない岩の山肌でいつ落石が襲ってくるか分からない。そして、右側は谷が切れ落ちている。どのバスが被害にあって横転、谷底に転げ落ちるか何とも言えない。まさに運次第だ。事実、その渓谷では長距離バスが2台も横転しているのを目撃している。そんな未舗装道路が延々と続いていたのだ。
<山岳地帯の休憩所にて(2)>
初日は結局17時までずっとバスに揺られていた。丸々移動日だったのだ。現在では九塞溝までもっとラクなアクセスがあるのだろう。けど、2004年当時、中国語を殆ど喋れない私が現地に着いて思いついた手段はこれしかなかった。現地調達を旨とする旅行スタイルでは苦労を厭わない主義だ。
どうにか川主寺(地名)のホテルに到着。中国人のオジサンと相部屋になり、夕食は8人掛けの円卓で四川料理がこれでもかと並ぶ。こちらとしては辛いモノが苦手だが、そうも言ってられない。辛いのが四川料理なので、えり好みしていたら食べるものがなくなってしまう。ニンジンも厚揚げも唐辛子を箸でよけて食べていく。白飯はテーブル中央に洗面器に山盛りになっているので、何杯でもおかわり自由だ。ホント馬にくれるような盛り付けだった。
他のツアー客は20代カップルが2組ほど混じっていたが、概ね年配女性が多い。男女比が3:7だろうか。彼らの食べっぷりを見ていて驚くのが、海老の殻や魚の骨など、バンバンこぼしていくのだ。誤って床に落としてしまうのもあるけど、大半は円卓の上にバシバシ捨てていく。円卓の白いテーブルクロスの上にビニールシートを被せてあり、ツアー客がどんなに汚しても大丈夫なようにカバーしていた。日本人の感覚からすると皿の脇によけておくとかもっと綺麗な食べ方が無いモノか考えてしまうけど、そんな常識は通じない。これを豪快と表現すべきなのか。
(7)ゲートは混沌、中は青く澄んだ九塞溝
中国人ツアー2日目の朝、ガスで煙る中を早朝に出発して、九塞溝のエントランス・ゲートに到着。なんと1000人、2000人の大集団がこの入口に密集していた。日本の観光地でも中国人ツアーの特徴として見た事があるが、各グループそれぞれで赤や黄色など目立つ色の帽子を被っていた。既に「イー・アール・サン(1,2,3)」と記念撮影に余念のない中国人の渋滞が形成されていた。
ここで迷子になったら大変。と言うかパニックになって焦った。こうしたトラブルに巻き込まれては大変なのでツアー客の顔を覚えておかなくてはいけないけど、まだそこまで親しくない。他のグループが前を遮るとあっという間に自分のグループが分からなくなる。平静を装いつつも、頭の中は完全に混乱していた。とにかく歩く。5分くらいして前方から同じバスのオバちゃんが手招きをしてくれた。ありがとう! 助かりました。
エントランスをくぐるとあとは自由行動。九塞溝は緩やかな傾斜の渓谷が2筋あり、それぞれを自由に往来できる。最初は開放的な緑の木道を歩き、しばらくすると視界が大きく広がる。無数の池があり、その池と池の段差を滝が繋げてくれているのだ。池は「臥龍海」など中国語では海と書く。
まず驚いたのは池の水が青く澄んでいる事。池に沈んでいる倒木もくっきりと見える透明度。青森県・津軽地方に十二湖がある。十二湖の青池も森の中の澄んだ池が美しいが、九塞溝はもっと開放的なワンダーランドだ。
もう1つ驚いたのは桁違いの広さだ。九塞溝へ旅した頃にはまだ山登りをしていなかったので、私にとって日本で最も開放的な空間は尾瀬ケ原だった。尾瀬が小さく感じられるほどに九塞溝は広く、谷筋の上の方までずっと続いていた。この日は朝8時から18時まで自由行動だった。自分としては歩き倒したつもりだったが全てを回れた訳ではない。
<九塞溝の透明で澄んだ青(2) >
中国と言えばチベットやウイグルなど人権問題が報道される。人権問題を論じられる立場ではないが、九塞溝には赤、青、白など5色のチベット旗(タルチョ)がはためき、水辺の小屋では水車にリンクした大きなマニ車が回っていた。私も、登山するようになってから、硫黄岳山荘のロゴが入ったタルチョ柄の黄緑色のTシャツを買った。読めないお経が書かれていて、なかなか目立つグッズだ。
九塞溝の掃除をしている人々は明らかに小づくりで顔つきが異なるのでチベット系民族だと分かる。元々、九塞溝はチベット族の村が9つあり山奥でひっそりと暮らしていたエリアだと言う。
橘玲「言ってはいけない中国の真実」によると、中国の漢民族の受け止め方は必ずしも西側諸国のそれと正反対驚いたと言う。むしろ差別されているのは漢民族なのだと訴えられたとか。ちょっと引用してみよう。
「チベット問題はチベット亡命政府と欧米の人権活動家の陰謀だとされている。……(中略)……チベット仏教徒はxxさんには理解不能で、そんな彼らが少数民族というだけで自分達より優遇されるのは許し難いのだ。」
人権問題を先入観として据えておくと、黙々と働く彼らがかわいそうに思えてくる。元の住まいを追われて好むと好まざるに関わらず九塞溝の掃除に駆り立てられているのだろう。が、彼等と何ら会話していない以上はそれ以上の詮索をできないのだった。
ただ、引用元の本にはこんな記述もある。
「帰りの車中で、xxさんは堰を切ったように話しはじめた。」
実はこうした中国人が滔々と不満を口にし始めた場面には、私も遭遇した事がある。日本で何度も喋っていた相手が、事こうした話題になると豹変したように話続ける。この件はまた別の旅行記で書いくつもり。
【註】引用文の中の個人名をxxさんに変更しました。
<タルチョがはためく、円卓には四川料理が並ぶ>
(8)ツアーバス締め出し未遂事件
中国人ツアーに紛れて3日目になると、少しずつ周囲の顔も認識できるようになってくる。なかでも、40代のヒゲ男と何度か話しをするようになった。彼はチャーリーと名乗り、ニュージーランド在住と書かれた名刺をくれた。なんだ、外人がツアーに参加していたのかと安堵したが、話を聞いてみるとやはり中国人だった。現在はニュージーランドに移住しているが、一時帰国して親孝行を兼ねて中国在住の父親とこのツアーに参加していると言う。確かに爺さんの風貌はいかにもずっと働きづくめで働いてきたものだった。
3日目に、バスガイドの女性がおかしな提案を持ちかけてくる。
「バス・チェンジしてくれ。私は英語が話せない。あなたは中国語が話せない。だから、このバスを降りて英語対応してくれるバスに乗り換えろ」
はあ~、ツアー途中のしかもこんな辺鄙な場所でそんな理不尽な提案に乗る訳にはいかない。「困る。嫌だ」と拒否した。ところがバスガイドは
「このバスは満席だ。ここで中国人ツアー客が1人乗って来る。だからあなたの席はない」
と続ける。何を言っているのか。さっきの話と違うじゃないか。押し問答の末に、私がバスから降りる事になった。誰も引き留めてくれない。他のツアー客と挨拶くらいはできるようになったが、まだ唯一の日本人ツーリストを庇ってもらえるほどの関係性は築けていなかったのだ。
そもそも、ホントに外国人ツアーバスがここに来るのか、そのバスはどん日程でどこに行くのか、最終的に成都に戻るのか、サッパリ分からなかった。しかも慣れない異国のバスツアーで少しでも周囲の中国人と親しくなってきたばかりだ。ようやく慣れてきた時にいきなり別の環境に放り込まれるのは勘弁願いたい。バスガイドの扱いは酷いものだと思いつつ、彼女の立場はハッキリ分からない。本人の意志もあるのだろうけど、ツアー客が途中で増えるってどういう事なのか。日本では考えられないトラブルだった。
不安なまま、30分ほど過ぎただろうか。結局、バスガイド嬢がアテにしていたバスは来なかった。バスガイドがどういう判断をしたのか知る由もないが、幸い中国人ツアーバスで旅を続ける事ができた。あれは一体なんだったのだろう。結局、これ以降バスガイドは自分の席を途中乗車の客に譲って、彼女自身は通路に座る事になった。
うーん。だったら最初からそう治めてくれれば良かったのに。
ツアー後半のハイライトは黄龍。標高3000m超えなので高山病の心配もある。標高を上げる前に物売りがバスに乗り込んできて、酸素吸入器の販売が始まった。年配の女性が何人か買い求める。私は外国人だったためか、くだんのバスガイド嬢から「とにかく買え」と促されて買う羽目になった。長さ40cmくらいの紙でできた筒状の容器だった。コロナ禍の時代ならいざ知らずオキシメーターですぐに計測できないので、ホントに酸素が充填されていたのか謎だ。
酸素吸入しているとバスは黄龍に到着した。(あくまでTV雑誌ネタだけど)トルコのパムッカレと全く同じような光景が広がる。1つ1つの石灰棚は高さ1m弱くらいで、透明な水が順々に上から送り込まれてくる。
ここは14:00から17:00まで自由行動。もっと体力があれば頂上まで往復できたのだろうが、15:30を回った所で無理だと判断した。午前中のバス締め出し未遂事件もあって、絶対に17時までに観光バスまで戻っていなくては、と焦っていた。
いざバス乗り場に戻ってみると、約束の17時に揃ったのはバスガイド嬢のほかツアー客が僅かに7人だけだった。ニュージーランド在住のチャーリーもこの7名に含まれている。彼もバスガイド嬢との約束をしっかり守って行動していたのだ。彼も中国人の怠慢に呆れるやら怒れるやら。
残り30名くらいは思いっきり遅れて戻ってきた。全員揃ったのは18時。誰一人として悪びれもせず、笑顔でご帰還。この統制の取れない個人主義はどういう事だろう。集団行動なのだから時間厳守してくれ。と言うか、最初から緩い約束だと判っていたら、こっちとしても頂上まで上がって黄龍を俯瞰した絶景をこの目で見てみたかった。
と言うのも、この日の黄龍観光が14時スタートになったのは移動時間が長かったためではない。土産物屋に3軒も立ち寄ってきたためだった。キックバックは必要悪として認めるものの、それで半日潰すのは勘弁願いたいものだ。
ツアーバスは土産物屋に立ち寄ると、それなりのキックバックが受けられる。一体どれくらいポケットに入るのだろうか。私は、都内某所で国内バス旅行企画の演習をやってみた事がある。行先とスケジュールを決めて、土産物屋さんに電話で予約入れるプロセスも体験させてもらった。その際に、あらかじめ口銭も確認しておくのだ。入店客1人につき固定額いくら、若しくはツアー客の購入額に応じて歩合制で支払うパターンもあった。セコイと思えども、日帰りバスツアーはギリギリの価格帯で売価を決めている。なので、僅かな口銭であっても貴重な入金だと知った。自分が採算的に利幅の厚いIT企業で働いてきただけに、それは涙ぐましいほどツアー企画書作成タスクだった。
こうした商習慣は海外のバイクタクシーでもある。かつてバンコクのワット・サケット(今ではゴールデン・テンプルの名前の方が有名)でトゥクトゥクと料金交渉した時に20バーツ(当時レートで60円)と破格の安値を提示されて喜んだ事がある。ホント? と半ば疑いながらトゥクトゥクに乗ると、程なくして宝石店の前でエンジンを止めた。
「宝石店に入ってくれ」
「えっ?」
「いいから」
宝石店に入ってもプレゼントする相手がいなくては見る気もない。しかもどれだけボッタクられるのか想像すると怖くて買えない。取り敢えず店内を1周したのでノルマを果たした筈だ。笑顔で店を出ると
「ダメ、ダメ。あと10分は中にいてくれ。そうしないと20バーツで駅まで行けない」
と哀しそうな目で訴えてきた表情を久々に思い出した。
<ツアーで泊まったホテル前、黄龍>
(9)四川省と言えばやっぱり麻婆豆腐
九塞溝を観光している時、単独行していた日本人と会話した。三脚持参の40代カメラマンだった。彼も中国人ツアーに混じってバスに揺られてきたのだった。パックツアーの日本人グループは数組いたけど、個人旅行している人に出会ったのが初だったのでこれ幸いと情報交換する。その方に成都でのオススメ宿として青年旅舎(ゲストハウス)を教えてもらった。
私にとって中国でのゲストハウス滞在は初めてだった。ゲストハウスはタイ、カナダ、ニュージーランドでは泊まるものの、国によってはなかなか縁がない。この後も上海、ウルムチ、桂林、青島などで敢えて投宿しているが、なかなか日本人と出会わないのが不思議だ。ネット予約が当たり前になった世の中で、ゲストハウスの人気は低下してしまったのだろうか。
成都のゲストハウスはかなり暮らしやすい空間だった。正式名称は、成都観華青年旅舎(Sim’s Cozy Guesthouse)だ。
そのゲストハウスは北大街(ペータージェン)から1歩奥に入った目立たない場所にあった。石造りのお寺のような建物が2棟あり、屋外の喫茶スペースもゆったりしていた。聞けば100年くらい前にドイツ人が住んでいた建物はを利用しているとか。北大街が大通りで騒音がウルサイだけにホッとする空間だった。
青年旅舎と言えば、部屋に窓がないとか3段ベッドで圧迫感があって結局は深夜に寝に帰るだけの場所になるのが大半だが、ここはそんなイメージと全く逆だった。どの部屋も広めに作られており、まだ木の臭いが漂ってくるような新しい木製ベッドが造られていた。若い女性スタッフが3人ほどいて入念に掃除してくれていて清潔感もあった。朝食も美味しかったし、何より成都の喧騒を忘れられる空間が気に入った。
宿の前の小径にある安食堂でチャーハンとビール(大瓶)を頼んでもたった5元(約60円)と極めてリーズナブル。元々、九塞溝・黄龍の後は貴州省の貴陽に向かう予定だったけどキャンセルして、結局この宿に3晩も居ついてしまった。それくらい居心地がいいって事なのだ。
【註】この宿の情報は以下サイトに載っている。但し、私がお世話になった後にオーナー変更により、老沈青年旅舎(Sim’s Cozy Garden Hostel)に改称されているようだ。
http://meisho.zero-yen.com/hotel5-guest.htm
<ゲストハウスの中庭、朝食>
いよいよ成都を離れる前夜になって、四川料理の代表格・麻婆豆腐をまだ食べていなかった事に気付く。折角なので4つ星ホテルの最上階レストランに入ってみた。
中国語で「いらっしゃませ」と言っているのだろう。でもこっちはサッパリ理解できないので早々に「ピージュウ(啤酒:ビール)」を注文する。店員もようやく日本人客だと分かったようで、端の方で「ズーベンレン(日本人)だ」と騒ぎだす。
当時の成都ではまだ外資系ホテルがまだ殆ど進出してなく、シャングリラホテルも建設予定段階だった。4つ星ホテルでも最高クラスだったのだ。そんなホテルでも、英語を話せるスタッフが不足していたようで調理場の傍で慌てはじめた。次に誰が私のところに来るのかで揉めている。えっ、そういうレベルなのか。はなから外国人にひるんでいたら満足な接客もできないぞ。
実はこのシーン、橘玲の「言ってはいけない中国の真実」にも全く同じ場面が登場する。橘氏は重慶で火鍋を食べた時にこうした体験をしている。ちょっと引用してみよう。
「東京で言うと銀座4丁目のような都心の一等地にある大きなレストランに入った。そのときの店員とのやりとりは、次のような珍妙なものになった。……(中略)……そこではじめて『こいつは外国人なんじゃないか』と店じゅうが大騒ぎになって、中学校の時に勉強ができたと思しき女の子が奥から呼び出され、片言の英語をしゃべり出した。重慶の人気店なのに、私がそこを訪れた(おそらく)はじめての日本人だったのだ。」
うーん、これこれまさしくこの展開だったので、この本を読んで笑ってしまった。橘玲が重慶を訪れたのは2004年6月、私が四川省を旅したのは2004年9月なので符号している。望まれない困った客に遭遇した時の対応は、日本も中国も似ているのではないか。欧米人やアフリカ系だともっと堂々としており対照的だ。堂々と言うのは正確でなくて、テンションが高い。
例えばこんな経験がある。かつて飛行機を間違えて、モロッコの国内線でカサブランカからグールミン(南部の小都市)へ飛んだ事がある。苦労して宿に辿り着いた時、受付スタッフは予約もしないで極東から来た異邦人を
「このホテルに日本人が泊りに来たのは初めてだ! 日本人と初めて喋る事ができて嬉しいよ!」
と大歓迎してくれたのだ。
麻婆豆腐の「麻」は痺れる意味だ。とにかく山椒の刺激で唇がジンジンするほどの麻婆豆腐にありつけた。この痺れた感じは妙に興奮する。日本で食べるのは唐辛子の辛さが前面に出ているけど、本場の麻婆豆腐はむしろピリピリ痺れる味覚が辛さを上回っていた。まあ、私としては「プーヤオラーダー(辛いのは苦手)」なので唐辛子がダメ。胡椒や山椒の食感は大好きなので最後の晩餐に満足できた。
(10)楽山大仏のトエトエおばさん
四川省の観光スポットはいろいろあるだろう。パンダを見学した翌日、旅の途中で知り合った日本人の言葉に従いルーシャンターフー(楽山大仏)に出掛けた。バスが着くと、先ずは帰りのバス時刻をチェックする。切符売り場の窓口がもうすぐ開くので、現地の人達が周囲でたむろしていた。いざ窓口が開くと、中国人が我先にと窓口に突進する。半円状になって窓口を取り囲む。出遅れた2周目の人達は紙幣をタテに2ツ折りにして、窓口に差し込んでくるのだ。もう順番なんてあったものではない。
中国って上海の地下鉄でも、降りる人を遮ってガツガツ乗り込んでくる勢いに半ば圧倒されてしまう事がある。この心理って何なのだろうか。1つには圧倒的な人口がいてその旺盛な需要の割に、供給が追い付いていないのだ。電車もバスもたいてい満員だ。日本人が殺到するのは人気コンサートの電話予約が始まる時間帯とか、ほぼほぼ限られてきている。だから余計にこのガッツいた姿に彼我の差を感じてしまうのだ。
橘玲の本「言ってはいけない中国の真実」によれば、中国人の政治形態や行動様式の要因が6つ挙げられており、その3点目に「人が多すぎる事」と書かれている。あらかじめ断っておくが、これで同書からの引用が3回目になる点はご容赦願いたい。氏の考察をまとめるとこうだ。
「人が多すぎてもアジアでは米作が盛んなので食料は確保できた。その代わり、欧米のように人権意識が育たなかった」
でも、ルールを守って順番に列に並ぶか並ばないか、何が両国の差をもたらしているのだろうか。同書の後半では以下のように述べている。正確には中国人の文章を引用している下りだ。
「中国は、欧米の云う『民主主義』『自由』『平等』よりはるかに高いレベルの政治道徳を持っている。中国古代思想に言う『公平』は『平等』に勝り、『正義』は『民主主義』より高い。『文明』は『自由』を凌駕する。……(中略)……たとえばバスに乗る時、早い者勝ちが『平等』、妊婦やお年寄りに席を譲るのが『公平』だ。」
中国の地下鉄に乗っていると「老弱病残孕」と書かれているのを見掛ける。次回の中国旅ではホントに席を譲って「公平」に振舞っているのかチェックしてみたい。日本語よりで言うと「お年寄りの方、からだの不自由な方、……」になるが、シルバーシートを漢字1文字ずつで表現するとどうにも生々しい。「残」ってワードから怪我した敗残兵を想像した。
<楽山大仏にズーム、2015年の上海で見つけた「文明」にまつわる標語>
世界遺産に指定されている楽山大仏は、岩肌をそのまま晒した巨大な大仏の頭部から見学する。川の岸壁をくり抜いて営造された大仏の左側のへりに据えつけられた階段を降りながら見学していく。摩崖仏ながら、日本にあるような表面だけ浮き上がるように作ったものとは彫りのレベルが違う。その姿がほぼ全てが岩から刳り抜かれているのだ。
そこから、楽山の漁村を歩くともなく歩く。その途中、小学生の女の子に掴まる。日本では昭和中期に使っていたであろう地図帳を持っていた。懐かしい字体で印刷されていたのだ。地図帳をこちらに見せて、あれこれと流暢な英語で質問を投げ掛けてくる。英語を喋らない大人と対照的だった。
「日本の特徴は?」
「国民の祝日は?」
「好きな食べ物は?」
これまで旅先でなかなか問われた事のないものばかりだった。私が海外で質問された中で最も驚いた質問はなかなかワイルドなものだった。
「日本ではどんな動物の肉を食べているのか? 俺たちはヘビとかマングースとか喰ってるぞ」
私はフィジーの小さな島のホテルの一角で一瞬固まってしまった。あまりに独特な切り口だった。タイの山岳民族の村でリスの燻製を出されて焦った事もあったけど、私のような一般的な日本人には野生を生き延びる力はもう残っていないのに、あまりに彼我のギャップが激しいではないか。
それに対して、彼女の質問はいかにも中性的なものが多かった。会話は至ってフレンドリーかつ積極的なもので、「メールアドレスを渡すから写真を送って欲しい」と頼まれた。スマホが普及した現在では、既にこうした展開は稀なものになってきた。いずれにせよ、彼女の中で日本の存在がボンヤリしていて、地球の裏側にあるジンバブエと同じくらい存在感だったんじゃないか。日本は中国と台湾以外で唯一漢字を操れる器用な人種なのに、やけに距離の隔たりを感じてしまった。
はて、どうやってバス停に戻ろうか、川を渡ってここまで来たけど、まさか今来た道を素直に帰るしか手がないのか?
そんな時に、ニコニコしたオバサンが顔を出す。分からないなりに話をまとめると船着き場まで人力車で送ってくれると言う。それはありがたい。
「ホントに大丈夫?」
「トエトエ」
「船着き場まで何分くらい掛かるの?」
「トエトエ」
「舟は何時に出航するの? 接続は上手くいくの?」
「トエトエ」
何を聞いても返事は「トエトエ」だった。ずっと笑顔だ。語感からして、「はいはい、大丈夫」って喋っているのだろうけど、聞いているこっちには全くもって安心感が湧いてこない。中国旅では毎回何らかのトラブルに巻き込まれる。もし10回渡航すれば少なくとも10パターンの困りごとに遭遇するんじゃないか。
疲れていたし、多少のトラブルは覚悟の上で渡し船に乗ってみたい気分になってきた。ここは信じてオバちゃんの話に乗ろう。もう任せるしかない。人力車で船着き場に着いたのは16時、舟はなんと17時だった。やっぱり中国だったな……と諦めつつ、楽山大仏の建つ岷江の畔でボーッと川面を眺めていた。
この「トエトエ」も謎の中国語として耳にこびり付いた。帰国後に中国通の同僚に訊いてみると「対々」と書いて「そうそう」って相槌を打っていただけなんだと思い知らされた。自分もつい生返事してしまう事があるけど、あそこで「はいはい」って好意的に解釈したのは甘かったのだ。
*
結局、四川省に8泊ほど滞在した。旅先ではいつも天気には恵まれるのに、この成都や九塞溝を巡る旅ではスカッと晴れる日が1日もなかった。四川省の南に位置するのが雲南省。そう、四川省はいつも雲に覆われた土地柄だったのだ。最終日の朝、青年旅舎から出発する段になって快晴に恵まれた。遅いよ、なんて気まぐれなんだと恨めしく思ったが、実はこれが四川省の姿だったのだ。きっと雲南省なら連日快晴だったんじゃないか。
この旅で記憶に残ったのは多くの中国語。とりわけ強烈だったのは「ティンプトン(聴不憧)」と「トエトエ(対々)」だった。四川省を旅した後で、私は何度も中国を訪れた。相手の話が理解できない時には、すかさずこちらから「ティンプトン」を繰り出すようになった。日本人から「ティンプトン」と投げ返されると一瞬たじろぐ中国人もいるから面白い。
中国人どうしの会話を聞くともなく聞いていると、頻出語の第一位は相手を軽くあしらうように吐き捨てる「メイヨウ(没有:いいえ)」だ。でもそこでもう一度尋ねて解決させないと旅が先に進まないので、「メイヨウ」返ってきたらガッツを出して食い下がる。で、その次に多く耳にするのが親し気な「トエトエ」だと分かってきた。そんな必要不可欠な中国語が聞き取れるようになっただけ、中国旅に強くなったんじゃないか。そんな中国語にまつわるエトセトラが懐かしい四川省の旅だった。