「どうする家康」だもんで<続編>

はじめに

5月に「『どうする家康』だもんで」のタイトルを付けて記事をアップしました。その後、Amebaブログの投稿が当初想定よりもどんどん膨らんできたため、5月の初期投稿と今回の続編投稿の2本に分割する事としました。
大まかな区分けは以下の通りとなります。この記事は「三河国」と「その他」に限って記述するものです。
5月投稿: 遠江国(12章構成)
この続編: 三河国(4章構成)、その他(8章構成)

容量の関係もあり<>で括った写真の引用は最低限のものに絞っております。

<ヤマサのえびすくい、 新城市長篠にて>

総合目次

(1)遠江国 
  【1】浜松市 中心部
  【2】浜松市 天竜区
  【3】浜松市 天竜区北遠
  【4】浜松市 三ヶ日町
  【5】浜松市 細江町
  【6】浜松市 引佐町
  【7】浜松市の郡部
  【8】 湖西市
  【9】 掛川市
  【10】 おもいふかき遠江
  【11】 天竜浜名湖鉄道
  【12】 遠州鉄道

(2)三河国
  【13】岡崎市
  【14】新城市
  【15】豊橋市
  【16】その他の三河

(3)その他
  【17】三遠広域 
  【18】 街道と脇往還
  【19】 駿府(静岡市)
  【20】 江戸(東京都)
  【21】 駿河以東
  【22】 尾張以西
  【23】 家康評
  【24】 おわりに  

       ……これより三河国……

【13】岡崎市

戦国時代、三河国の中心地は岡崎だった。ネット検索しても何故この地方を三河と呼ぶのかハッキリしない。三河領内には矢作川、豊川、宇連川など大きな川が3本あったためか。尾張を流れる木曽三川(木曽、長良、揖斐)と比べると川幅がそこまで広くない。「御川」がみかわの語源という説もあるらしく、諸説あるようでこれ以上は軽々に語る事を避けておこう。
現代においては岡崎市の北に企業城下町として豊田市(愛知県内で人口2位)がある。そこはもともと挙母(ころも)城、拳母藩、拳母市だったエリア。偉大なトヨタ自動車だから豊田市って分かるんだけど、でも長く歴史のある地名を変えるのって悩ましい。
(1)家康との関わり
云わずと知れた徳川家康の出生地にして、三河・松平家の居城は岡崎にある。また、岡崎と云えば花火が有名だが、家康が火薬製造を地元に任せていたのが今日の花火産業に繋がったとか。

(2)写真紹介  ※いずれも2023.2撮影
岡崎城は矢作川と乙川の合流地点に建っている。正確に書くと、今年2月に初めて岡崎の街を訪れてその事実を知った。
・岡崎城と花火のマンホール
・乙川の向こうに岡崎城
・「どうする岡崎 家康公」ポスター
・上記ポスターに載っている家康公の銅像(地上ではなく地上3階にあるコンコースの端に建てられていたのにビックリ)
(3)私がアップしたAmeba記事
・岡崎城
(4)まだ紹介できていないスポット
・三河の本宮山(豊川市の登山口から登ったので、正確には岡崎市ではない)
(5)これから行きたい所
・水晶山
・くらがり渓谷から本宮山へ

【14】新城市

三河地方は、東三河と西三河に分けて呼ばれる。それとは別に呼称されるのが「奥三河」なる地域。奥三河の中心が新城市であり、JR飯田線は豊橋、豊川を過ぎると宇連川に沿って北上していく。特に湯谷温泉の辺りは板敷川と呼ばれており、浅い川底に緑がかった茶色の薄い岩が続く独特な景観になっている。
(1)家康との関わり  ※引用文は斜体表記
長篠の合戦で傷んだ長篠城に代わり、家康が新城城(しんしろじょう)を作るように命じたのが新城市の名前の由来となっている。
また、三大東照宮の1つに数えられている鳳来寺東照宮が長い石段の上にある。鳳来寺があるのは平成の大合併の前までの鳳来町。鳳来寺東照宮に寅童子があった。
<寅童子>
2021年、鳳来寺山を訪れた時には寅の云われを知らなかったが、大河ドラマで松嶋菜々子が「寅の年、寅の日、寅の刻に産まれた元康」と喋っていたのを聞いてようやく納得した。以下ご参考まで。
======
寅童子は、徳川家康公の逸話をもとに作られた、倒れても起き上がる縁起物の玩具です。
家康公の母である於大の方は、夫の広忠公よりも強い男の子が欲しいと鳳来寺本尊の薬師如来にお祈りをしたところ、12ヶ月を経て「寅の年、寅の日、寅の刻」に家康公が生まれました。
ところが不思議なことに、鳳来寺の薬師如来を護る十二神将像の寅童子と呼ばれた仏像がたちまち姿を消しました。それから75年後、家康が亡くなると、元あった場所に戻っていたという逸話が元になっています。

======
※出典

https://torinokostore.stores.jp/items/61de82c0dd8d395852578522

(2)写真紹介
<JR新城駅にある長篠の合戦図絵>
<新城市ののぼり旗> ※2023.2 JR三河東郷駅の近く
<新城市の横断幕> ※2023.2 JR三河東郷駅の近く
(3)私がアップしたAmeba記事 ※一部は弊HPのリンク
・阿寺の七滝
・鳳来寺山
・中宇利丸山
・比丘尼城址(世界の桜の園)
・長篠城址と設楽原
(4)まだ紹介できていないスポット
・湯谷温泉と乳岩
(5)これから行きたい所
・宇連山
・明神岳
・鳶ノ巣山(鳶ノ巣砦)

【15】豊橋市

豊橋と言えばヤマサのちくわ。個人的には刻んだ山芋を入れた練り物が好きだ。偶に店頭で見かける上真丈もソフトな口当たりがいい。
かつての地名は吉田。東海道五十三次の宿場に吉田や二川がある。個人的には湖西連峰を歩くのに豊橋サイドにいくつも登山口があるので助かっている。
ドラマとの関連で語るとTBS「陸王」で豊橋国際マラソンが出てくる。今でも路面電車が走っているのでロケ地として上手く成立していた。
(1)家康との関わり  ※引用文は斜体表記
西三河や奥三河だと家康ゆかりの地が多いのだが、なぜか東三河の豊橋ではなかなかヒットしない。家康らしきマンガチックな座像を見つけたものの、それも本人と断定されたものではなさそう。
======
豊橋市を含む東三河は、家康公生誕の地である岡崎市と、躍進をとげた浜松をつなぐ中間地点として、ゆかりの地が点在しています。
本市には、家康公がこの地域に火薬の製造を任せていたことが発展の由来となった手筒花火をはじめ、酒井忠次が城主をつとめた吉田城址など関連する史跡や逸話があります。

======
※出典

https://www.city.toyohashi.lg.jp/53652.htm

家康の遠州侵攻は陣座峠だったし、信玄が三河へ西進したのも宇利峠だったので、当時は東海道が地理的に安定していなかったのか。まあ、徳川四天王の酒井忠次が吉田城を治めていたので吉田は盤石だったのだろう。
最近になってやっと見つけたのが三河平定に関する記述だ。
======
1560年5月、今川義元が桶狭間の戦いで、織田信長に討たれると、1565年には、今川家から離反した松平家康(徳川家康)が大原資良の吉田城を9ヶ月に渡る兵糧攻めを行った。陥落後は、重臣の酒井忠次が、吉田城主として入ります。
======
※出典
三河・吉田城 今川と徳川の激しい攻防があった続日本100名城 | お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】 (sirotabi.com)

https://sirotabi.com/7852/

9月のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」で広瀬アリス(於愛の方役、のちの西郷の局)が掛川市で苦戦していた。それを見ていたら於愛の方の母方に「三河西郷」なるワードが出てきた。うん? 湖西連峰を豊橋に下山してきた所に西郷小学校があったな。調べてみるとやっぱり於愛の方に繋がるエピソードが見つかった。
======
お愛の方は、西郷正勝の孫で西郷義勝が戦死した後、西郷清員(きよかず)の養女となりました。やがて、徳川家康の側室となり、西郷の局とよばれて、2代将軍となる徳川秀忠を生みました。美人で、また温和な性格であり、家臣たちにも慕われていたそうです。
======
※出典
西郷の局(お愛の方) – 豊橋市西郷小学校 (toyohashi-c.ed.jp)

http://www.toyohashi-c.ed.jp/saigou-e/index.php?key=jo8mfbim9-203

(2)写真紹介
<西郷小学校の行程フェンス> ※再掲
(3)私がアップしたAmeba記事(複数回に分けた投稿は①のリンクを付けた)
・葦毛湿原
・石巻山
・赤岩口から大知波峠へ
・嵩山から本坂峠
・普門寺から多米峠
(4)まだ紹介できていないスポット
なし
(5)これから行きたい所
・嵩山宿~豊川~御油の姫街道ルート

【16】その他の三河

岡崎と豊橋を歩いてみると、それぞれ行政の広域的な役所があるので西三河と東三河の中心地だと分かる。この地域でもう1つ中核的な市町村を挙げるとすれば奥三河の新城市であり、そこは奥三河の中心と呼ぶに相応しい。
これら3市に関していずれもこのシリーズで触れてきたので、ここではその他の三河エリアを取り上げる。具体的には、東三河の豊川市や田原市、並びに西三河の豊田市、西尾市だ。
(1)家康との関わり  ※引用文は斜体表記
松平家発祥の地である松平郷は現在の豊田市南部(岡崎市との境界部)にある。観光地だと王滝渓谷や香嵐渓に近い。
======
松平郷へようこそ、松平郷は徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地です。今からおよそ六百年前この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。 歴史に埋もれた郷は、静かに武将の息吹を伝えています。
======
※出典

http://www.matsudairagou.jp/

(2)写真紹介
・佐久島のアート
・東三河全域と岡崎(西三河)、浜松(遠江)を描いた地図。大河ドラマの放送を機に作ったパンフレットに見開きで載っているもの。豊田市が入っていないのはこのエリアの愛知県内での曖昧さによるものなのか。
<駅で見つけたパンフレットより>
(3)私がアップしたAmeba記事(複数回に分けた投稿は①のリンクを付けた)
・蔵王山(田原市)
・宮路山と五井山(豊川市)
・本宮山(豊川市)
・拳母や足助など西三河の面白い地名
・寧比曽岳(豊田市)
・奥三河の天狗なす(設楽町)
(4)まだ紹介できていないスポット
・猿投山(豊田市)
・佐久島(西尾市)
(5)これから行きたい所
・王滝渓谷
・香嵐渓
・大給城址

   ……次項は遠江と三河の国境について……

【17】三遠広域 

これまでNHK「どうする家康」にちなんで三遠地域を紹介してきた。歴史案内はあまりにザックリとしたもので、実態としては低山めぐりを振り返る場となってきたこのシリーズだが、本日は主に県境エリアの話となる。
(1)県境の峠道
家康の領国・三河国(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)を東西に往来するには現在もいくつかの峠がある。
・潮見坂(東海道の汐見坂)
・多米峠
・大知波峠(平安時代のルートなのか?)
・本坂峠(姫街道)
・中山峠
・宇利峠(信玄が西に進軍した)
・瓶割峠
・陣座峠(家康がここから遠江に侵攻)
ただこうした峠道はほぼ舗装されているので、県を跨いで歩くには面白くない。唯一楽しめたのは気賀~三ヶ日~嵩山の姫街道ルートに乗っかっている本坂峠くらいだった。むしろJR新所原駅(あるいはJR二川駅)から県境尾根に沿って北東方向にずっと山道を辿ってみる方が面白い。これらの峠を結ぶルートが湖西連峰だ。
実際に、梅田峠(湖西市)から延々と上に挙げた峠が陣座峠(新城市と三ヶ日町の境界)までツギハギで歩いてみた。その途中には神石山、富士見岩、坊ケ峰、雨生山、金山、富幕山と300~500mクラスの低山が連なっている。で、有識者の登山ブログを読んでみると、その先はどうやら長篠の戦いの舞台となった鳶ノ巣山まで続いており、総称して弓張山地と呼ぶとか。

(2)峠と言えば寸座峠
三ヶ日町と細江町の境に寸座峠がある。どちらに属するのか分からなかったので今回の「広域」で紹介したい。
天竜浜名湖鉄道の寸座駅と佐久米駅の中間地点に位置する。三ヶ日~気賀まで湖畔を伝って歩いた時にその碑を見ていないが、坂上田村麻呂や徳川家康がひとやすみした逸話のある場所。浜名湖に面した小高い場所で休憩したくなる気持ちはよく分かる。
======
家康がここに来た時、見事な景色に見とれ一休みしたことから、寸座と呼ばれるようになった。坂上田村麻呂や藤原氏の落人が休んだことから名付けられたという説もある。
======
※出典

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/100139/ieyasudenshou.pdf

(3)三河と遠江に跨る旅の記録
●三遠南信の低山めぐり
・パート1~4、5、6
●三遠の信仰の道
・鳳来寺・秋葉山参詣ルート
●浜名湖
「浜名湖を調べてみよう」シリーズは湖西市で①、②、④、三ヶ日町で⑤、⑥を紹介した。残る③は遠州地方広域に跨る記事なのでここで紹介する。

(4)家康と信玄の峠道
この項は別記事として書いているので、以下リンクの8章「家康と信玄の峠道」をご参照。

     ……これより三遠地方以外について……

【18】 街道と脇往還

ここでは従来の記述パターンがそぐわないので街道ごとに述べていく。
東海道や東山道など古代から街道は通っていたが、江戸幕府を開いて改めて街道を整備したのは家康だ。ちょっとこじつけもあるだろうがそこはご容赦。尚、(3)と(4)はいずれも東海道の脇往還であり、七里の渡しの脇往還は佐屋街道である。
(1)東海道
言わずと知れた江戸と京を結ぶ五十三次。このルートは現在でも栄えているので改めて歩く場所ではない。
<新居関所の近くの松並木>
(2)宮から桑名まで七里の渡し
東海道五十三次の正規ルート。名古屋から四日市まで電車に乗っていていかにも河川が多い事で気付いた。
(3)姫街道
浜風の強い今切口を回避したルートで、見附(現磐田市)と御油(現豊川市)を結ぶ東海道の脇往還。本坂通りとも呼び、古代には二見の道と呼ばれていた。見附を起点とすると浜松をスルーされるので浜松を起点としたサブルートもある。歩いて楽しいのは気賀~三ヶ日~嵩山のルート。来年は嵩山から御油までのルートも歩いてみるつもり。
面白いもので気賀~三ヶ日は浜名湖の湖畔を歩く(片道4:45)よりも200mくらいの引佐峠を登った(3:45)方が1時間近いのだと自分の足で確かめてみた。
・姫街道
・姫街道で(三ヶ日町~細江町気賀)
・浜名湖に沿って(三ヶ日町~細江町気賀)
(4)矢倉沢往還
こちらも東海道の脇道として使われたとか。この呼称はネット検索で知った。赤坂見附から足柄峠を経て沼津を結ぶルート。
そんな由緒あるルートとは知らず、以前に小田急線の厚木駅(or秦野駅)から鶴巻温泉駅まで善波峠や弘法山などの低山を歩いた事がある。また、金時山から地蔵堂バス停に下山してきた事もあるので、そのバス停から矢倉岳に登れる事は知っている。今度歩いてみよう。
======
矢倉沢往還は江戸・赤坂御門前から三軒茶屋、長津田、厚木、松田、御殿場を経て東海道・沼津宿に至る街道で、東海道の脇往還として機能。途中に矢倉沢関所が設けられていたことか「【矢倉沢往還」と呼ばれていた。
======
※出典
矢倉沢往還道中記 (kaidoutabi.com)

https://kaidoutabi.com/yagurasawa/yagurasawa.html

(5)北国脇往還
昨年、滋賀県長浜を歩いていて知った言葉がコレ。ここは中仙道から北国街道へショートカットできるルート。
今月になって、Amebaブログにこの北国脇往還や萩往還を歩いた記事が載っていた。以前に雪山情報の検索をしていて見つけた方でかなりディープな登山をされている。とても真似できないけど、今後もウオッチしていきたい。
(6)上街道(木曽街道)
ここはつい先日見つけたもの。うわかいどうと読む。小牧長久手の戦いの舞台である小牧は江戸時代に小牧宿として栄えた。ここは尾張名古屋と中仙道を結ぶバイパスとでも呼ぶべきものか。
======
江戸時代に中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。「木曽街道」、「名古屋往還」とも呼ばれていた。「上街道」の名称は、当時同じように中山道と名古屋城下を結んでいた下街道との対比によるものである。……(中略)……
江戸時代に尾張藩が独自に作った街道で、名古屋城下の東片端(現在の愛知県名古屋市東区)から中山道の伏見宿(現在の岐阜県可児郡御嵩町)までを結んでいた。

======
※出典
上街道 (木曽街道) | 街道散歩 (kidosanpo.work)

https://www.kidosanpo.work/%E6%97%A7%E8%A1%97%E9%81%93%E4%B8%80%E8%A6%A7/%E4%B8%8A%E8%A1%97%E9%81%93-%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93/

(7)秋葉街道(塩の道)
塩の道と言えば日本海側から南小谷の辺りを南下して塩尻に至る道があるが、太平洋側にも塩の道はある。田沼意次の相良から北上する「秋葉街道」で、今年はその途中にある天方城址(森町)、犬居城址(春野町)、高根城址(水窪町)と塩の道をたまたま点で旅する事になった。ただ、このルートは悪路が予想されるので線で結ぶには勇気がいりそう。
(8)その他
かつての旧街道・脇往還の案内板はあれこれ旅していると頻繁に見つける。今年だけでもいくつかあった。どれも個別のブログは旅した1年後くらいを目処に書くつもり。
2月:陣座峠から奥山半僧坊の方に降りてくると「奥山久留米木往還」と刻まれた石碑があった。
3月:高島トレイル・赤坂山に登った時に、若狭と近江を結ぶ「鯖街道」が3~4ルートあるのをパンフレットで見つけた。
5月:寧比曽岳に登った時に見つけたのが「中馬街道」。ここも塩の道。
6月:房総半島先端部の伊予ケ岳(JR岩井駅)に登った旅で、君津駅前の看板で「房総往還」って呼称が気になった。
8月:信州・開田高原の草がうっそうとした道に「飛騨街道」と書かれていた。
11月:静岡市清水区で「甲州道商店街」って看板を見つけた。

【19】駿府(静岡市)

ここは浜松市と並んで政令指定都市。葵区と駿河区って区名のセンスがいい。
人口もコロナ感染者も浜松よりちょっと少ない。2つの政令指定都市しぞーか(静岡)とはーまつ(浜松)の市民感覚がズレているのか定かでないが、何年か前に浜松でも働いていたタクシー運転手さんに聞くと「全然違う。静岡はおっとりしている」ってバッサリ。
静岡は南アルプス深南部への入口。赤石岳に登ってみたいと思いつつ、バスで登山口まで辿り着くだけで腰痛になりそうなのでずっと先送りしている。昔、入笠山の山彦荘で喋った登山者に「二軒小屋がさあ……」と語りかけられたのだけど全く話についていけなかった。未だに椹島(さわらじま)すら辿り着いた事がないのだ。
(1)家康との関わり
家康(松平元康)は幼少期に駿河・今川家の元で人質生活を送った。そして、天下平定して征夷大将軍の座を秀忠に譲った後、晩年は大御所として駿府城に腰を据えた。

(2)写真紹介
静岡と言えば磯おろし。冷たい蕎麦にさやえんどうが5本、天ぷら、大根おろしがたっぷり乗っている。知人に連れて行ってもらった店がコレ。
<磯おろし> ※2017年12月
NHK「ブラタモリ」で静岡を特集していた時に、東照宮の宮飾りを彫る職人を駿府に呼び寄せたのが後のプラモデル産業に繋がったと聞いてビックリした。そんな所にも家康公の影響があったのか。
<プラモデルの街(2)> ※2022年夏
(3)私がアップしたAmeba記事
・大井川鉄道の井川駅
・リニアと大井川の水
ここ数年、静岡県で盛り上がっているのが大井川の水とリニアのトンネル問題。流域市町村の1つが静岡市。大井川鉄道の終点・井川駅は県庁所在地・静岡市の北部(葵区)に位置している。
マスコミの報道姿勢によって誰が悪者に見えてしまうのか大きくブレてくる。川勝県知事の発言は物議を醸すこともあるけど、まさかゴネ得を狙っているとも思えない。総じてその主張が正しいと信じている。
まあ愛知県の大村知事は山梨県や長野県に関わる利用者のことをホントに考えているのか。静岡県に新幹線新駅を作れば川勝知事がリニア賛成に回ると考えているのだとしたら、尾張藩オンリーの発想で甘い。
素人目には、JR東海が後出しジャンケンでC案に決めた事がやっぱり問題の根源にある。誰のためのリニアなのか考えれば答えは自明。JR東海は自社利益優先の姿勢を捨てて、新幹線未整備県の乗客のために中央本線を管轄するJR東日本とうまく協業すべき。開発コスト一択で南アルプス深南部の2000mも深いところにトンネルを通す発想がマズイと思うのだ。
(4)まだ紹介できていないスポット
・久能山東照宮(太平洋側まで下山してきたけど、記憶が曖昧)
・丸子宿のとろろ飯(大昔なので写真なし)
・登呂遺跡(子供の頃なので記憶なし)
(5)これから行きたい所
・赤石岳
・興津~由比
・賎機山(静岡の地名の由来はココ)

【20】 江戸(東京都)

現在の東京は、元を辿ると家康が整備した江戸の街だった。某財閥系不動産会社のかつての社長に江戸英雄さんって方がいらした。先ずは、いかにも江戸に根を下ろした徳川家と濃そうな地名から紹介。
(1)徳川に由来する地名
まずは地下鉄・市ヶ谷駅構内で撮った写真から紹介。
<井伊と紀伊と尾張の藩邸、やや引いた位置でもう1枚>
この2つの藩邸は他の武家屋敷より格段に広い。しかも、井伊家は更に江戸城に近い桜田門周辺にも屋敷を持ち、紀伊・尾張両家も江戸城を中心にした外周に更に広い敷地を持って他家を圧倒している。ここが現代の紀尾井町。
======
江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていました。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩・徳川家上屋敷、尾張名古屋藩・徳川家中屋敷、近江彦根藩・井伊家中屋敷がありました。
紀尾井町の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。

======
※出典(フリガナを外して”・”を追加しました)
千代田区ホームページ – 町名由来板:紀尾井町(きおいちょう) (chiyoda.lg.jp)

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/kioi.html

折角なのでもう1つ。紀尾井町から江戸城に繋がる橋が小さく見える。ここは大手門から見た搦手に当たる場所に位置している。それが地下鉄・半蔵門線の名前にもなっている半蔵門であり、私がこの辺りの会社に入社した頃から、お濠の近くにワコールのビルが建っている。NHK「どうする家康」では山田孝之が辛い立場に甘んじている服部半蔵に由来したものだ。
======
江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。
======
※出典
半蔵門/千代田区文化財サイト (edo-chiyoda.jp)

https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/1/5/98.html

市ヶ谷からもう少し西に寄ってみよう。青山がある。ここは家康の家臣が地名の由来になっている。港区HPより詳しかったので以下サイトから引用した。
======
青山忠成(あおやまただなり)。徳川家康の家臣のなかでも最古参の一人で、初期江戸幕府の老中を務めた人物です。家康が若武者だった時代から仕えていたため非常に信頼が厚く、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の教育係も任されていました。
1590 年。家康は、関東に移ってきた際に忠成を江戸町奉行へ任命しています。これは江戸の町の、行政・司法長官にあたります。現在の東京の都市計画の最初の一歩を踏み出したひとりということになります。
家康はこの大役を任じるにあたり、忠成に5000石の領地を与えています。この土地は、現在の赤坂から、渋谷の一部までにあたる広大なものでした。とはいえ実際には、雑木林が広がる森だったようですが忠成はこの地に広大な別荘を立てました。この屋敷が建ったことにより、「青山」が一帯の地名として定着していきました。

======
※出典

https://toshin.advns.co.jp/akasaka-aoyama/98/

(2)浜松に由来する地名
その江戸には出世の街・浜松とゆかりのある地名が残っている。ここでは浜松町と秋葉原について触れる。
浜松町は羽田空港に繋がる空のゲートシティであり、JR山手線の駅名としても採用されている。
======
慶長8年(1603)頃は、増上寺の代官“奥佐久方衛門”が名主を兼ねていたため、「久右衛門町」と呼ばれていました。この頃から海岸が埋め立てられ、おもに増上寺の関係者が移り住むようになり、次第に町を形成していきました。
元禄9年(1696)に遠州(静岡西部)・浜松出身の「権兵衛」なる人物が名主となってから、浜松町と名のるようになりました。

======
※出典
港区ホームページ/浜松町(はままつちょう) (city.minato.tokyo.jp)

https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/09.html

秋葉原の語源は遠江の秋葉神社と繋がりがある。秋葉神社の上社・下社は磐田郡春野町(平成の大合併により現在では浜松市天竜区)にある。遠江には秋葉神社に続く参道に常夜灯が設けられていた跡を見る事ができる。
======
現在の秋葉原電気街のあたりは、江戸時代は下級武士の居住地域であった。「火事とケンカは江戸の華」と言われたように、当時は火事が多く、この秋葉原かいわいも江戸時代を通じて火災に悩まされていた。
1869(明治2年)の相生町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州から火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社としてまつった。
当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。

======
※出典
プロローグ 秋葉原(あきはばら)の由来 – 秋葉原電気街振興会 (akiba.or.jp)

https://akiba.or.jp/archives/history00#:~:text=%E5%BD%93%E5%88%9D%E3%81%AF%E9%8E%AE%E7%81%AB%E5%8E%9F%E3%81%A8,%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

※参考:秋葉神社
秋葉神社(下社)から秋葉山(上社)まで2時間くらいで登れる。
(3)江戸を偲ぶブログ
長いこと東京に住んでいても、江戸を改めて意識して家康スポットを巡った事はない。ここでは2ケ所ほど紹介する。もし他にアップするとしたら芝増上寺の近くで撮った写真とかローカルなものは多々あれど家康のゆかりを示すものは思い当たらない。
・和田倉門の黄葉
戸山公園はかつて江戸時代に尾張徳川家の下屋敷があった場所で、明治期には陸軍練兵場や陸軍医学校があった場所で、病院の初代院長はなんと文豪・森鴎外。公園のそばに令和になって新型コロナで有名になった16階建ての病院や国立感染症研究所がある。
・戸山公園

【21】 駿河以東

駿河と江戸は既に紹介しているので、ここではそれ以外の地域。今回は章立ても変えて地域ごとに書いていく。
(1)鶴岡市
鶴岡は徳川四天王・酒井家の所領になっている。
======
酒井家の庄内入部の歴史は、3代忠勝の代に信州松代(長野県)より出羽国庄内13万8千石の初代藩主として元和8年(1622)に入部されたことから始まります。
======
※出典
酒井家庄内入部400年 – つるおか観光ナビ (tsuruokakanko.com)

https://www.tsuruokakanko.com/spot/4535

私にとっては鳥海山や月山に登るベースの街であり、下山後は湯田中温泉、湯野浜温泉、由良温泉、あつみ温泉などどこに泊ってもゆったり寛ぐ事ができる。夏のだだちゃ豆、冬のタラ鍋などどの季節でも美味しいものに恵まれており、ユネスコの食文化創造都市に登録されている。
月にはウサギがいる。家康は卯年生まれだった。そう言えば月山に巨大なウサギの像があった。
<2017年に月山八合目にて>

(2)日光市
東照大権現こと家康を祀るのが日光東照宮。地味な栃木県において世界遺産になっている。
ただ、私が東照宮や華厳の滝を観光したのは遠い昔なのでデジカメには写真がない。ここ10年は奥日光ばかりだ。ほかに雲竜渓谷、日光男体山、女夫渕温泉、奥鬼怒温泉など行きたい場所は多々あるのが日光市。
・冬の切込湖&刈込湖+戦場ヶ原
・民宿キリフリ荘
・日光白根山(Ameba未稿)

(3)前橋市
家康家臣の平岩氏、酒井氏が入城している。前橋は厩橋(まやばし)だったのが訛って現在の地名になったとか。私にとっての前橋市は赤城山とか榛名山に登る拠点。高崎の古墳を見学するにも適した場所。
・3月の赤城山

(4)飯能市
「飯能アルプス」なんて呼称もあってここは低山めぐりに恰好のエリアで何度も訪れている。家康は秀吉の命で三遠駿から関八州に移封された。この”関八州”を冠したヤマが飯能のはずれにある。江戸時代には箱根や木曽福島など街道各地に関所が設けられていた。この関八州見晴台も江戸時代にそうした軍事上の用途があったのかと想像したが、ネット検索する限りそれらしい記述を見つける事はできなかった。
======
関八州見晴台は標高771m、顔振峠と刈場坂峠のほぼ中間地点に位置する展望台で高山不動尊のルーツでもある奥の院が鎮座しています。その名の通りの絶景で、武蔵、相模、上総、下総、安房、上野、下野、常陸の関東の八州が見渡せることがその名の由来です。
======
※出典
関八州見晴台 (tabi-mag.jp)

https://tabi-mag.jp/sa0008/

関八州見晴台のブログはまだAmebaにアップできていないので、ここでは別の低山を紹介する。
・飯能春秋

(5)上州・沼田市&片品村
沼田や片品村は真田の領国。どうして信州の武士が群馬県にも領地を得ていたのか尾瀬に行くたびに疑問だった。真田昌幸に言わせれば「自分の支配地域の中にたまたま国境があっただけ」とでもなるのだろうか。
・GWの尾瀬と至仏山

(6)信州・上田市
真田の居城があったところ。上田城を家康が築城した時期があったが後に家康が真田を攻めた時に真田の手で守りを固めていたので家康が苦労したとか。私にとっては四阿山・根子岳に登る拠点。
・冬の四阿山

(7)甲府市
言わずと知れた武田信玄の拠点。駅前に信玄公の座像がある。
私にとっては仙丈ケ岳、櫛形山、大菩薩嶺、羅漢寺山などに前泊する場所になっている。JR春日居駅周辺の桃の花を見るのにも最適。駅近くのホテル談露館も好きだけど、駅から徒歩1分の旅館・萬集閣は蔦の絡まる木造3階建ての建物がオススメだ。もう4~5回は泊まっている。
・2021年で信玄公は生誕500年ブログ

(8)松本市
松本城は石川数正の晩年の居城。家康の下を出奔した数正だが、彼の本心はどこかに書き残されていないのだろうか。
私にとっては北アルプスに登る拠点。駅前ホテル数か所には毎度お世話になっている。特に7Fに大浴場があるニューステーションホテルは朝食の蒸篭蒸しに信州味噌を付けて食べるのがいい。あと駅から20分くらい歩くと塩井鉱泉がある。昔ながらの番台の会話が残っている銭湯で気持ちが和む。
上高地、涸沢、槍・穂高、乗鞍岳も松本経由で歩いているけどここでは蝶ヶ岳のブログを紹介。
・GWの蝶ケ岳

【22】 尾張以西

(1)関ヶ原町
言わずとしれた1600年の合戦はここ。関ヶ原については、別途有識者の文章に関してブログを書いた。
実際にも登山帰りにちょっと寄ってみた。ただ8月の下界はあまりに暑くすぐ撤収した。
・伊吹山からここに下山

(2)京都市
家康で京都と言えば二条城や伏見城などいろいろな逸話が残っているだろう。ただ京都でその足跡を辿った事がないので何ら語る事はできない。京都は10~20年に1度くらい訪れる場所で、最近ではコロナ禍の2020年12月にGoToトラベルで紅葉を楽しんできた。
・建仁寺、鞍馬、醍醐、伏見など冬の京都

(3)富山市
小牧長久手の戦いの前後に、富山の佐々成政が浜松の家康に対して一緒に立ち上がろうと声をかけてきた。その逸話に「さらさら越え」がある。夏場のJTARでも無茶なのに、冬に北アルプスを越えて日本海側から太平洋側にやってくるのは無茶にすぎる。なので、信憑性は薄い。この件は今年の大河ドラマでかすりもしなかったので、以下にYAMAPの引用を加えておく。
======
佐々成政は、今から四百数十年前、16世紀中盤に活躍した戦国武将だ。尾張国(現在の愛知県一帯)に生まれ、長じて織田信長の家臣となった。度重なる合戦に出陣し、武功を認められて、越中富山城主に任じられた人物だ。……(中略)……
事実としてはっきりしているのは「天正12年(西暦1584年)の旧暦12月、富山から浜松に赴いていた成政が、吉良で織田信雄と対面した。その往復に信州を通った」という記録……(中略)……
一般的に「佐々成政の厳冬期北アルプス越え」として語り継がれているルート。富山城を出た後、南東方向に進み、厳冬期の剱・立山連峰に入山。ザラ峠(2,348m)を越えた後、黒部川を渡り、針ノ木峠(2,536m)を越えて、大町、松本に至るルートだ。ザラ峠を越えたということで「ザラ峠越え」「ざらざら越え」といった呼び方もされる。

======
※出典
北アルプス登山史の謎! 戦国武将佐々成政の厳冬期「さらさら越え」に迫る | YAMAP MAGAZINE

https://yamap.com/magazine/13850

私にとって富山と言えば立山登山の玄関口。今後は折立から薬師岳や雲ノ平に分け入っていきたい。ザラ峠に立った事はないが、その東側の麓に当たる扇沢から爺ケ岳に登った事がある。
・2020年夏に富山の寿司屋で呑む

(4)桑名市
徳川四天王、本田忠勝の居城であり、東海道五十三次では宮宿から桑名宿まで海路となっている。
七里の渡しを見てみたくて今年の冬に軽く散策した。そこで初めて桑名名物あさりを知った。
・七里の渡し

(5)四日市市
ここは本能寺の変を受けて堺から伊賀越えのルートにある。その逸話が残っていた。
======
思案橋は、三重県四日市市浜町および蔵町にある史跡。……(中略)……天正十年六月徳川家康は本能寺の変を避け泉州堺より浜松に向かう途上、ここより海路を進むか、陸路を進むか、を思案したとされる。結果、当地の廻船問屋の協力を得て、海路を採った。この伝承を元に、思案橋と呼ばれることとなった。家康は、この功を称えて、現在の四日市一帯を天領としたとされる。
======
※出典:Wikipedia
私にとって四日市と言えば御在所岳や入道ケ岳の起点である。
・御在所岳

(6)彦根市
ここは井伊直政の居城であり見学した。石田三成の佐和山城もJR彦根駅前から拝めるが時間が足らなかった。
・井伊直政の彦根城(2023年の雪山登山のついで:未稿)

(7)長浜市
長浜は秀吉が初めて城を得た土地。長浜城は家康が廃城にしている。
今年の大河ドラマでは、賤ケ岳の合戦においてお市が家康の加勢に淡い期待を抱いたけど叶わなかった。また、NHK「紀行潤礼」に出てきた宝厳寺については以下参照。
======
大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が徹底的に壊して埋め、新しい大坂城を築いたことからも、家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りで、ゆかりの竹生島へ移築したのではないか
======
※出典

https://www.chikubushima.jp/story/story5.html

長浜市の低山は冬にアイゼンを付けて歩いている。北国脇往還を知ったのもJR河毛駅の近くだった。
・小谷城(2022冬)
・賤ケ岳(2022冬)

(8)名古屋市
尾張徳川家はここ。徳川御三家のうち水戸と紀州は現代の感覚だと交通の要衝とは言い難い。ただ、当時はそれぞれ伊達への備え、豊臣への備えとして意味があったと考えられる。
はて、東海道における御三家は豊臣対抗で必要だったとして、どうして実直な三河(岡崎)じゃなくて派手好きな尾張(名古屋)に置いたのだろうか。名古屋の方が大坂に近かったからだけなのか。ネット検索でそれなりの答えが見つからなかった。ただ、NHK「100分de名著『覇王の家』」のテキストを読んで思ったのは、派手好きの尾張人を実直な三河の国人体質で染めておきたかったんじゃないかって事。信長や秀吉のような尾張人は天下泰平を維持するには厄介な存在と思ったのかも知れない。
名古屋は、高校3年生の夏に河合塾に1週間ほど通ったけど予備校向きの体質でなかったため早々に戻って来た。大人になって敢えて探索する街でもないので縁遠い。最近は乗換駅として利用するのみ。天むすは軽く食べたい時に最適。なかでも三重県津市製の「天むすの千寿」がサッパリしていて私の好み。次点は西尾市の弁当屋さん。地雷屋の弁当は味が濃いのでちょっとパス。
※参考

https://www.yuramatayuramata.com/entry/shinkansen_aichi_tenmusu

(9)小牧市
1584年の小牧長久手の戦いで徳川家康が本陣を敷いた所。そして、織田信長にとっては1563年に清州城から居城を移したのがここ小牧山城だった。11月に出掛けたばかりなのでまだ整理できていない。

【23】 家康評

今年は大河ドラマの影響で家康に関する文章を少し読んでみた。尚、坂口安吾「家康」はYouTubeに朗読があったのでそれを聴いている。
書店には歴史家が書いた新書本が多く並んでいるが、それらには食指が動かなかった。司馬遼太郎の本は気になったけど、かつて「坂の上の雲」を第1巻で挫折したこともあってパスして、解説本で軽く読むのに留めた。岡潔(数学)と長沼伸一郎(数学と物理)は理系の大家。専門外だからこそ別の視点があるものだと思った。
前者は利己主義で勝手な男と評しており、後者は家康そのものと言うより西軍にとってどこで戦うのが相応しかったのかの考察である。司馬遼太郎は家康キャラを「三河人気質」から解き明かしたのだとか。
<ネットより> ※再掲
以下、私が読んだ順に沿ってリンクを付けている。
・岡潔「日本民族」

https://ameblo.jp/cx0293/entry-12807503999.html

・長沼伸一郎が「関ヶ原」に触れたHP掲載文「海軍戦略入門講義」

https://ameblo.jp/cx0293/entry-12821768803.html

・NHKテキスト「100分de名著『覇王の家』」

https://ameblo.jp/cx0293/entry-12831234344.html

・坂口安吾「家康」

https://ameblo.jp/cx0293/entry-12831354293.html

それぞれに興味深かった。今年1年ドラマを見てきたことで、自分としても家康像をハッキリさせる事ができた。天下泰平と安定した武家社会を開いたのも一面だが、武士としての勇ましさを感じるシーンが少なかったのも事実。長篠の戦いはどうみても織田の騎馬柵と鉄砲隊に助けられている。関ヶ原は情報戦の要素も大きかったであろうし、武将らしく勇ましい姿を示したのは三方ヶ原の戦いと小牧長久手の戦いだけじゃないか。
序盤に岡崎で自害を仄めかすシーンがあった。あれは情けなかった。それでも、NHKの歴史番組でそれとても家臣団に「殿を守らねば」と結束させるテクだと評しているのを聞いてナルホドと納得した。
今川、信玄、信長、秀吉に耐える年月があまりに長かった。そこで正面切って歯向かえばカッコよかったけど、我を通せば北条や上杉、西国大名のように潰されてしまったかも知れない。固執して主義主張を強く押し通さなかったからこそ生き残れたのは事実だろう。それは臨機応変と評価していいし、歴史番組で「疾風に勁草を知る」と評していたが危機に瀕して処世術を学んできたとも言える。
ただ、武力と平和を維持するスキルは別物、天下泰平の世を築けたのは長くクセのある戦国大名に振り回されてきた家康だからこそ。王道と覇道の違いは分かってないが、徳川四天王が全て亡くなった後でも長寿で粘る事ができたからこそ天下を取る事ができた。そうしてみると勇ましい姿が求められる大河ドラマの主役には向かない武将なのかも。「家康では大河ドラマの視聴率を取れない」って説も案外と正しい気がしてきた。
ただ、三河一向一揆で歯向かってきた家臣を不問に付して許す、長年対決していた武田の家臣も迎え入れるなど寛容な態度を取った事で徳川の軍勢は規模を大きくできたし、三河家臣団が殿を思う忠臣の気持ちも大河ドラマで随所に見られた。だからこそ天下を取れたのではないか。

【24】 おわりに

冬から春先にかけて三遠の城巡りしたのでサマリ記事にまとめている。ちなみに秋冬は現在進行形なのでいずれ更新したい。 下表は簡単なメモだが、オススメは高根城址と足助城址!

https://ameblo.jp/cx0293/entry-12803385378.html

<Amebaブログに載せた表を転載>

いざ書き起こしてみる事で、いろいろと勉強になった。知っている事も案外に朧げな知識で、市町村によっては三遠地方(三河と遠江)にありながら家康との繋がりをなかなか確かめられない地域もあって困った回もある。それは豊橋市と湖西市だった。
やっぱり戦国時代に遠州灘沿岸エリアはあまり発展してなかったためか。浜松城の南東サイドに湿地帯が広がっていたと言うし、掛川の高天神城址でも同様の案内板を見つけた。城の周囲まで海岸線が迫っていたようだ。これは戦国時代に遠州灘沿いの東海道より内陸部の交通網(姫街道)の方が確実だったって事ではないかと想像してみた。
コロナ禍であれこれ回ったこの地域も開拓し尽くしたかとタカを括っていたが、まだまだ隠れた名所旧跡が潜んでいる事も分かってきた。

「『どうする家康』だもんで」シリーズを立てたこの試みは、地域の魅力再発見に繋がるものであり私個人にとっては面白いものだった。もちろん歴史解説は僅かで低山の紹介がメインになっているので偏りはある。

この1年間、NHK「どうする家康」に感謝したい。

Follow me!