袋井の命山、石巻の現在地

2024年は元日の能登半島地震から始まった。それもあって翌2月、防災設備としての命山(静岡県袋井市)に登ってきた。命山には江戸時代に造られたヤマと平成になって新たに建設されたより高い丘の2種類がある。また、9月には宮城県石巻市の荻浜と門脇地区で3.11東日本大震災の13年後の姿をこの目で見てきた。
2025年の3.11に合わせてこの2つの旅の記録をまとめて公開する。

(註)Amebaブログに投稿した内容をほぼそのまま転載している。<>で囲んだ箇所はAmebaブログに貼り付けた写真のキャプションだが、当HPにおいては容量の都合により写真を最低限の3枚に絞り込んだ。写真を参照される場合には、弊Amebaブログを参照下さい。また、ブログで参考用に付けたリンクもここでは省略した。

1.袋井市浅羽地区の防災設備

(1)メローなまちの命山

元旦の能登半島地震のインパクトは大きかった。ネットであれこれ地震の情報を探っていると「命山」なるものを発見した。どうやら、津波ではなく高潮被害から身を守るために丘のような盛り土を作ったモノらしい。それを見るために、袋井市に行ってみた。
ここは袋井市となっているが、かつては磐田郡浅羽町だった。

<公園内の古墳オブジェ、メローなまちのマンホール>
噂によると袋井市では特産のメロンタクシーが走っていると聞いたのだが、メロンデザインの車は見掛けなかった。でもこの街を半日歩いてみるだけで地元の人から話しかけられる事がたびたびで「メロー」がホントなんだと実感できるのが面白かった。

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静岡県浅羽町(あさば)は「日本一メローなまちづくり」に取り組んでいます
でも、日本中どこを探しても「メローなまちづくり」をめざしているところはないと思いますのでずぅーと日本一です

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※出典
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/odekake/

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“メロー”とは、みんなが明るくほがらかで、気軽に声をかけあうことができる豊かな街を意味しています。旧浅羽町では、“メローなまちあさば”をスローガンに、子どもから大人まで、みんなでまちづくりに取り組んできました。
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※出典
https://www.mellowplaza.com/gaiyou/gaiyou.html

浅羽記念公園にその歴史を伝える場所があるので、まずはそこに入ってみる。手前の近藤記念館には古墳時代と戦国時代の展示があった。こちらはNHK「どうする家康」の前に見ておくと良かったかも知れない。ただ、大河ドラマでは高天神の戦いがほぼ素通りだったのが残念。ちなみに近藤さんとは東証に上場している臨床検査会社BMLの創業者との事。

<近藤記念館と郷土資料館(2)>
奥にある郷土記念館に命山にまつわるモノが展示されていた。

<袋井市のジオラマ、航空写真、高潮被害>
この浅羽町は遠州灘にかなり近い位置にあり、命山は津波用だと思い込んでいた。ただ、実際には台風による高潮被害対策であり、遠州灘から川を遡って襲ってきたのだと言う。資料によると延宝8年(1680)に江戸時代で最大の台風が全国各地を襲ったとの事。

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延宝8年(1680)閏8月に近世最大の台風が中国地方から東海、関東、東北の広い範囲を襲い、東海地方では吉原、大井川、横須賀、浅羽、浜名湖口で高潮被害が拡大しました。横須賀城下の被害は大きく、民家6,000軒が流出、溺死者300人と記録されています。
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※出典 https://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/soshiki/27/2/bunkazai/shiteibunkazai/10040.html

この地域は地図の西側に太田川と原野谷川が流れており、当時は原野谷川が遠州灘のすぐ北側を蛇行して東に流れていたとか。どうやらこの影響で付近の海抜が遠州灘付近より低くなっている。また、東側には入江のように奥まで内海が広がっている複雑な地形だった。
原野谷川の洪水対策として川の東側には浅羽大囲堤を築いていたものの、内海の辺りまでは伸びていなかったため、その近くの村が高潮被害に見舞われた。そこが地名で言うと同笠新田村(大野)と中新田村になる。
ちなみに、内海が広がっていたエリアは航空写真で見ても川の跡が黒く見えるとの事。また、太田川も原野谷川も治水工事を施しているため当時と今では流れが変わっており、ストレートに遠州灘に注ぐようになっている。
資料館のスタッフさんがとても親切な方でいろいろと教えていただいた。ありがとうございました。

<袋井の地形変化(4)>
こちらは近藤資料館にあった展示。長期的に大地の営みはダイナミックなものだと分かる。以前、浜名湖についても興味を持って調べたことがあるけど、隆起と沈下を繰り返して今があるって事だ。こうしてみると浜名湖の南部に大陸が存在していたって説もホントなのかも知れない。もう一度チェックしてみよう。

(2)中新田命山

さて、命山の実物を見に行ってみよう。まずは、内海に近い中新田から訪れた。
江戸時代の中新田命山は高さ5m。へりの部分が少し窪んでいたので、現在では周囲の土地を盛っているのだろうか。登ってみる。直登すると5~10歩、回り込んでいくので実際にはもうちょっと掛かる。
周囲の2階建て家屋より若干高いくらいだった。あそこよりもずっとお手軽に登れる高低差だった。裏山と言うには小さすぎる。例えてみると、標高44mの箱根山(新宿区)か。確か箱根山も江戸時代の築山だった。
この高さで果たして領民の命を守れたんだろうか? もう1つ疑問に思うのは、この程度の高さの築山とか土塁(表現が正しいのかさておきこの言葉を思いついた)が高潮や津波の威力で崩れなかったのだろうか?
城の石垣のように堅牢な印象はない。つい先程、郷土資料館で伺った話によると「土質の異なる土を幾層も突き固めた版築工法」を採用したのだとか。当時、横須賀藩の技術援助を受けてこの築山を造ったと言う。農民にはこれで十分だったのか、その性能はなんとも想像が及ばない。
郷土資料館スタッフの話によれば、高潮が引かないと住居に戻れないため、このヤマの上で1ケ月ほど暮らしていた事もあったと言う。なので、近隣と行き来するために山頂に舟が備え付けられていた。船で往来するって、私が旅した記憶から連想してみても、タイの水上マーケットとかカンボジアのトンレサップ湖(ベトナム難民が水上生活している)くらいしか思い浮かべられない。
当時の村の人口はどれくらいだったんだろう? 今は木に覆われていて小さな丘としか見えず、山頂部に避難するとしても10~20人くらいが限度だろう。

<中新田:江戸時代の命山(4)>
対して、平成の命山は海抜10mで立派な構造物だ。
平成の命山の第一印象はズバリ古墳だった。なだらかな斜面が形造られており、かつて高崎で見た古墳の姿を想い出したのだ。あそこは木に覆われてなく、周囲に埴輪を配置して斜面に小石を埋め込んで往時の姿を再現したもので、円墳だと考えると形状は袋井の命山と似ていた。
3ルートから階段で直登することができるし、スロープが付いているので車いすを押してもらって上がる事もできそうだ。山頂は裕に100人は避難できそうな広さで、資料によると収容人数は400名と書かれている。東日本大震災クラスの津波では太刀打ちできない場所もあっただろう。でも、能登半島地震の津波対策であれば人命をしっかり守る事ができたのだ。
ベンチが3つほど並んでいて、きっと中に食料とかコンロが装備されているんだろう。でも台風被害だと雨除け対策とかどうなっているんだろうか? リアルに使おうとするといろいろ心配事も浮かぶけど、先人の知恵をベースに作られたモノ(整備費3.17億円)であり、いろいろな備えがされているのだろう。中段のあたりで排水設備の写真を撮ってみた。

<中新田:令和の命山:きぼうの丘(6)>

(3)大野命山

もう1つの命山が中新田のやや西にある大野地区。
江戸時代の命山は高さ3mくらいで中新田のそれより低いものの山頂部はやや広い。50~70人くらいなら避難できたのではないか。ここでもサザンカかツバキの花が散っていた。2月上旬なのでやや早いと思うけど、冬が温暖化しているしボトンと落ちた感じがツバキなんだろう。

<大野:江戸時代の命山(4)>
こちらも海抜10mで中新田の「きぼうの丘」と揃えている。整備費3.77億円で、収容人数300名。

<大野:令和の命山:寄木の丘>
この付近には命山がいくつかある。江戸時代のモノは中新田と大野の2つ。平成の命山は中新田、大野のほかにも2つ建てられている。以下ご参考まで。
http://fukuroi-rekishi.com/siryo/20160317091438.pdf

<あさば1万石>
ここ浅羽町は江戸時代に良質な米が獲れたので天領になっていたとか。これも地元の方に教えていただいた。

<袋井は東海道どまんなか>
JR袋井駅に戻ると「どまん中」って言葉が気になる。調べてみると東海道五十三次の27番目の宿場町で江戸と京のちょうど中間地点だったのだ。それより、北口南口って乾いた表現よりも「秋葉口」、「駿遠口」(かつて袋井駅から東に静鉄駿遠線が伸びていた)って表記が気に入った。

2.震災13年後にして初めての石巻市

2024年9月、東日本大震災のあと初めて三陸地方に向かった。20年以上前に釜石と宮古を訪れたことはあるが、宮城県の沿岸部は私にとって空白地帯だった。牡鹿半島でカヤックするのが第一の目的だったのだが、震災の影響が13年経過した時点でどうなっているのかこの目で確かめたい気持ちもあった。

(1)牡鹿半島・荻浜

まずは、石巻市の中心部から牡鹿半島を南下した荻浜(おぎのはま)の様子から紹介する。尚、この辺りでは牧浜(まぎのはま)も同様に「の」を挟んだ地名になっている。JR石巻線の駅名になっていて、2025年3月8日放送のNHKドラマ「水平線のうた」に登場したコンサート会場「レインボーシアター」がある地区も渡波(わたのは)と読みやはり同じパターンだ。

<荻浜の港には段差あり>

さて、荻浜の防潮堤をくぐって港をうろついていると先ず気になったのが、港のコンクリートの高さと漁船のへりの高さが全然合っていない事だった。これでは漁師さんも乗り降り、荷揚げ作業がしづらいのではないか。
聞くところによると、3.11東日本大震災で地盤沈下したので港をかさ上げした。その後に地盤隆起したため逆に高くなりすぎて逆に削る工事を施しているのだとか。これは大変だな。
確かに調べてみるとそうした記事が見つかる。TV画面だけで震災後をwatchしているだけではとてもこうした課題に気付く事はなかった。2024年正月の能登の地震では地盤隆起した映像が何度もTVに映っていたけど、もしかして時間の経過とともに地盤沈下して元の高さに戻っていくものなのか?

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気仙沼市の観測点(気仙沼小)では3.11の地震で地盤が65cm沈下しましたが、じわじわと回復して、10年間で43cm隆起しました。この1年間だけで3cm隆起しました。ある学者はこのまま隆起が続いて、震災前より地盤が高くなると予想しており、どこまで隆起が続くか興味深いです。
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※出典 https://imakawa.net/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A/6173.html

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津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市。牡鹿(おしか)半島先端の鮎川港では2017~18年、岸壁の高さを「かさ下げ」する異例の工事が行われた。
この岸壁では、震災の翌年から、最大1・5メートル「かさ上げ」する県の復旧工事が実施されている。一帯の地盤が震災の直後に1メートルほど沈んだためだ。ところが、その後、地盤は隆起し始めた。岸壁も盛り上がり、「船からの荷揚げ作業や乗り降りに支障が出ている」と漁師らから苦情が寄せられた。県は今度は岸壁の上部を30センチ削る工事に着手。1億6千万円の費用がかかったという。

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※出典
https://www.asahi.com/articles/ASN4N40WFN4NULBJ008.html

<港のコンクリのすき間に白い詰めもの>
コンクリートの隙間が5cmくらいに広がったとか。ちなみに荻浜の高さ4~5mほどの防潮堤は震度5で壊れて補修したとか。荻浜よりもっと南下した所に十八浜(くくなりはま)がある。震災前には砂浜を歩くとクックッと砂が鳴るのでそう呼ばれていたが、他県の砂を搬入して被せたために砂が鳴かなくなってしまったとか。他にも、海岸線を通っていた道路が山域の直線道路に付け替えられたり、牡鹿半島の中でいろいろな変化があった13年間だと知る。

(2)石巻駅周辺

JR石巻駅周辺が水没した事も知らなかった。震災当時のTV映像は石巻、大船渡、陸前高田、福島など各地から届いていたため、どこがどんな被害に見舞われたのか個別具体的に把握できていなかったのだ。
今ではどこの地方でも駅前が閑散として寂しい状況だが、水没を経た石巻駅前は比較的賑わいが感じられたことが良かった。MEET門脇まで乗せてくれたタクシー運転手さんも「海沿いにあった自宅は潰れた」と淡々と話してくれたけど、14年経って心底穏やかな心持ちになれたのかその内面までは分からない。

<石巻駅は3日間も水没>
案内板を見ると、津波がガードレールよりやや高い位置、駅ホームとほぼ同じ高さまで襲ってきた事が分かる。

<石巻駅のそば、石巻駅ホーム>

(3)門脇地区

震災を今に伝えるMEET門脇に寄ってみた。海岸にほど近いエリアで、4500人の住民のうち約1割の方が亡くなっていた。校長先生の指示で裏手の日和山に避難されたのだと知る。TVでこの逸話を聞いていたけど、それがここ石巻市のことだったのだ。

<海岸付近に整備された一丁目の丘>
ここは震災後に整備された丘だ。高さ5mくらいで、昨年訪れた静岡県袋井市浅羽地区の命山と比べると低い。それに何よりも海岸線から近い位置に立つことが気がかり。

<震災遺構・門脇小学校>
門脇小学校は震災遺構として見学できる。この日はたまたま休館日だったので外観を撮っただけで、後日再訪することにした(改めて投稿予定)。

<門脇小学校の裏手になる日和山に登ってみた>
小学校の左右はお墓に囲まれている。これも震災後の景色かと思ったのだが、通りがかりの方と話してみると、それ以前からだと言う。また、雄勝町からこの地区に移住されてきた方とも軽く挨拶を交わす。
小学校の裏手を登り、石巻駅まで歩いて行った。途中で洗車している地元の方と会話すると丁寧な挨拶を受けて逆に恐縮してしまった。住所は日和ヶ丘。門脇地区は火災と津波の被害に見舞われた。幸いにも「私たちが住んでいる日和ヶ丘は幸い無事でした。ただ風向きによってこの付近も延焼の惧れがありました」と教えていただいた。日和山の奥に位置する石巻駅周辺も水没しているので、震災当時はここが陸の孤島のようになっていたのではないか。
石巻駅、日和山、門脇小学校、旧北上川の位置関係は、航空写真を見ると分かりやすい。震災で河口にほど近い石巻駅周辺が水没しただけでなく、津波は旧北上川を49kmも遡上した。尚、北上川の河口は明治時代に東の追波川へ付け替えられているが、石巻市街の旧河口もそれなりの水量がある。

<展示されていた震災前の姿>
広域地図はご参考まで。思えばこの上流域のヤマにはいくつも登ってきたなぁ。姫神山、三ツ石山、早池峰山、栗駒山、……。そして、石巻はカヤックに導かれて訪れた街ながら、とにかくその終着点にやってきた訳だ。

<北上川と旧北上川>
※出典
https://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/history/kitakami.html

(4)震災遺構・門脇小学校

先日は震災遺構・門脇小学校が休館日だったので、牡鹿半島・荻浜でカヤックした後に日を改めて伺った。
エントランスにある消防車でまず圧倒される。石巻市の人口が震災前の16万人から14万人に減少したことも書かれていた。数字の上ではザックリ12.5%の人口減だが、能登地震の後でも住民票をそのままにして転居を余儀なくされている人もいるので実際にはこれ以上の人口減に直面しているだろうと想像できる。

<押し潰された消防車、門脇小学校の東側>

校舎の中を進むと、当時のままの様子が遺されていた。震災から既に13年以上が経過していた。けど、あのTV映像があまりに無残なものだったため、どうしても三陸地方に出掛ける気にはなれなかった。ようやく辿りついた感じがする。

<窓ガラスは割れたまま、廊下もそのまま保存>
当時の小学生、教師の声が映像として流れていた。回想してのインタビューだからみなさん冷静に喋っているものの、当時はパニックに陥っていたと思う。こちらもふと涙がこぼれてきた。これまで展示物に接して涙が出てきたのは、知覧の特攻会館だけだった。もう20年以上も前のことだが、そこではまだ幼い顔をした青年特攻兵のモノクロ写真と筆で書かれた手紙だけでどうしようもなく泣けてきた。

<荒れたままの教室、木材が灰となり焦げた金属が露わな机といす>
展示の中に、校舎から山の斜面に木材を渡して避難したとあった。そのことについて、石巻在住32年の外人さんに教えてもらう。教壇をひっくりかえして支持棒を滑り止めにして、更に毛布を敷いて、日和山の斜面に架けたとか。白人の館員さんがわざわざその写真を出してきて説明してくれたことに感謝。

<石巻湾を望む往時の風景画(3)> ※3分割して写真に収めた
MEET門脇と一丁目の丘を見学したのでもう十分かな、と思わないではなかった。けどこの震災遺構をリアルに見られて話を伺えたことは良かった。
帰りのバス停で待っていると、地元の年配者が2人話していた。聞くともなしに聴いていた。
「法事って言えば50回忌とか200回忌があるわね」
「和尚は仙台でも東京でも来てくれるよ」
「どうかと思うけど」
「そうでもしないと檀家がなくなってしまうから」
なかなか切実な話だ。

<門脇小学校が立つ南浜の震災前、震災直後>

門脇小学校を訪れたのは2024年9月19日だった。石巻から仙台に移動して新幹線に乗ろうとしたら構内がざわついている。東北新幹線が運行停止していてちょうど運転再開する頃だった。現地では何が起きているのかトラブルの詳細は分からなかった。
東京に戻ってから事の真相を知ってビックリ。そう、秋田新幹線と東北新幹線の連結部が外れてしまう事件が起きていたのだ。もし後部車両に乗車していたら、と想像するとなんとも怖い。工具で物理的に留めるのではなく、電気信号で制御するって大丈夫なんだか。つい先日も2回目のインシデントが報道されていた。

<NHKアプリより>

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