【長編】おっとりスリランカの田舎旅
スリランカ(北西部のアナマヂュワ、シギリヤ等)に関する旅行記です。お読み頂いてもしご感想などございましたら、弊HPの問合せフォームへご記入の上で送信いただけますと幸甚です。
Question/問合せ | Y’s Travel and Foreigner (ystaf.net)
1.インド洋に浮かぶ小国を思い出すこと
自分と関わりのない対象だとニュース番組に取り上げられていてもそのまま聞き流してしまう。でも、いざ自分が旅した国であれば、ついナニナニと身を乗り出してしまう。そんな経験は多くの人にとってもあるのではないか。
私にとって2016年に旅したスリランカは将にそういう存在だった。この島国を旅する前に、インドとネパールを巡っていたので、同じようなカレーの国に行く事もないだろうとタカを括ってずっと候補国の1つに過ぎなかった。でも、いざ旅から帰ってきて数年が経過すると、スリランカは度々ニュースに登場してくるのだ。
2018年頃: 台風や津波の被害
折に触れて: 中国によるハンバントタ港の租借
2019年4月: コロンボで爆破テロ
2021年3月: ウィシュマさんが名古屋入管収容中に死亡
2022年7月: スリランカが経済破綻
南アジアの小国で中東諸国に影響を及ぼしているとも思えないのに爆弾テロに巻き込まれてしまったのはショックだった。知らない国に向かう旅人としては、やっぱり頭の片隅で治安の事も考えおくのだ。
2022年7月、日本では参議院選挙期間中に安倍元首相が銃撃された。なんとその前日にスリランカ経済破綻のニュースが飛び込んできたのだ。折しもロシアがウクライナに侵攻している最中に、スリランカはロシアのプーチン大統領に経済支援を求めていた。
NHKニュース防災アプリの文章を引用すると「プーチン大統領に燃料を輸入するための支援を要請」と書かれていた。あの当時、ロシアにとって南方の小島のフォローをするような余裕があったんだろうか。同国の正式名が「スリランカ民主社会主義共和国」なのだと知って、地理的に遠く離れた共産主義の大国に頼る理由に納得した。
日本の報道では親ロシアの論調はなく全世界で同じようなスタンスだと信じ込んでいた。でも、地球上に散らばった想いは多様であり、国が違えば関係性も変わり思考パターンは違ってくるのだと改めて思い知らされた。
他にも、月初めにカレンダーをめくると、シギリヤ・ロックを空から撮影した写真が目に飛び込んできた事もあった。確かに私もあの頂に立った。汗を拭きながら赤褐色に焼けた大地を歩いて行った。その記憶は私の脳ではとかく赤茶けた色に染まって記憶されていた。
でも空撮写真を見ると、赤茶けた岩の周囲はうっそうとしたジャングルの緑色に覆われてたのだと改めて気付かされたのだった。自分は旅人の目点で暑いシギリヤ村をヘトヘトになって歩いて観光していたけど、あくまでそこはシギリヤのごく一部であって、周囲は南国の森だったのだ。
ニュースでよその国の出来事を俯瞰する鳥の目、地べたを歩く旅人としてミクロの現実を垣間見る虫の目、それぞれに見えてくる景色は異なる。スリランカとは、サンスクリット語で「光り輝く島」を意味する。まずは輝ける島国に入ってみよう。
以前にIT企業の同僚から魚の目も必要だと諭された事がある。短期の旅でその国のトレンドを察知する事は難しい。それでも、インドやネパールと比較してウオッチする事はできるんじゃないか。シギリヤ・ロックの写真を見ただけで何だか懐かしい気持ちになり、こうしてスリランカの旅行記を書き始める事にした。
2.深夜のコロンボ着で旅は転がり始める
キャセイパシフィック航空に乗って香港経由でコロンボ空港に到着した。もう深夜だった。空港はまだ新しく、インドやネパールよりも機能的に造られていた。余計な警戒心も不要なようだ。
いつも通り私の旅は出たとこ勝負、その日も宿は予約していない。旅は出たとこ勝負なのだ。ある人がどこかの本で「旅は出たとこバッチリ」と書かれていたが、将にそれが狙い。カチッと決めたスケジュールをその通りにこなす事ができないタチなので、深夜着でもたいていの場合、宿が決まっていない。もし宿が満杯だったらって不安はある。でも、大丈夫でしょって根拠のない自信がついつい先行してしまう。FIXチケットなので、とにかく帰国日の前日にそこの都市に辿り着ければいいじゃないか、そんなユルユルの旅を繰り返している。
空港の到着ロビーでいくつかのブースを当たってみた。3ケ所目くらいのデスクに頼んでみる。宿の手配を待っている間に「どうぞ」と言われて、コーヒーと丸いこげ茶色の甘い菓子をもらった。なかなか親切な国じゃないか。最初からお菓子が貰えるのは幸先いい。
<旅はこんな感じで1週間、 泥のホテルで泊まった部屋 >
くだんの宿から送迎がやってきて、宿へ向かう。かなり広々とした家だった。どうみてもホテルって感じはしなかった。2階建ての木をふんだんに使った建物だった。既に24:00を回っていたし、余計な詮索をする気分でもなくもう本当に眠るだけ。
翌朝の朝食でビックリ。えっ、朝メシでこんなに沢山の食べ物が出てくるの! 皿も綺麗だし、何より色取りがいい。インドとは別の国なんだと分かり、早々に安心できた。
どうも客人は私一人だけのようだし、御主人と奥さんと話しながら食べた。食べ終わる頃に「これからどうするの?」と訊かれた。交通事情が判らなかっただけに出たとこ勝負で「ここに載っているThe Mud Houseに行きたいんだ」と伝えてみる。ほどなく40前後の男が出てきた。「彼は甥だ。どこでも連れて行ってくれるぞ」と紹介してくれた。「地球の歩き方」に、スリランカは交通機関があまり発達していないので、プライベート・カーで回ると書かれていたけど、もしかしていきなりそれか、と合点がいってその話に乗ってみる。ただ、ここでは値段交渉を何もしないで先ず車に乗った。当然ながら親戚プライスを期待していた。
<初めての朝食、宿のFamily>
さて、甥を名乗るこの男の運転でスリランカの西海岸を北上していく。ニゴンボ・ビーチで一休み。波打ち際には芋洗い状態でスリランカの人達が戯れていた。ビーチなんだけど水は濁っていて期待していたモノと違う。面白いもので漁村の端っこがビーチになっており、近くではイワシかアジの開きを干している。漁師の作業場なのであまりに魚臭かった。
スリランカ島は概ね涙の雫のようなツルンとした楕円形をしている。時計に喩えるとその島を8時の辺りから11時くらいの位置まで北上して、目的のホテルに辿り着く。おおよそ5時間くらいのドライブだった。でも、不思議な会話が始まったのはここから。
宿に着けばドライバーの役割も終わるし、それで彼とはお別れだと思っていた。事実、私はこの「The Mud-House」に2泊するつもりだった。彼にそう伝えたのだが「自分もここに泊まるから大丈夫。ドライバー用の部屋もあるからそこに泊まる。明後日どこへ行くのか?」と訊いてくる。
うん、大丈夫なのか? 彼の宿代は誰が支払うんだろう?
私が1週間くらいスリランカに滞在すると伝えていたので、彼はどうやらその間ずっと運転をかって出る気だったのだ。
3.泥づくりのホテルに惹かれて
サラリーマン時代に私の海外旅行パターンは2つだった。GW(ゴールデンウィーク)に近場のアジアへ、そして9月のSW(シルバーウィーク)にもっと遠い辺境の地へ行く路線を暗黙のルールとしていた。年によって、絶対に地球の裏側に行ってレンソイス砂丘(ブラジル)を見るとか目的が明確になっている事もあれば、目的地をなかなか絞り込めない年もある。
いつだったか、呑み屋で旅行通の同僚に「どこか面白そうな旅先はあるかな~」と訊くと、オススメとして出てきたのがスリランカだった。その同僚はその前に「砂漠に住みたいからイエメン」と突拍子もない事を喋り出す人で、いい線を衝いてくる。ただ、スリランカの何に惹かれていたのか、酔っつぱらいの記憶はおぼろげだ。
ただ、シギリヤ・ロックと紅茶だけでは響いてこなかった。もう1つ強烈なインパクトが欲しい。スリランカは旅の候補地として頭の片隅に残したまま、意識の中に転がしておいた。1年経つごとに、私にとって未踏のアジアはスリランカ、モンゴル、北朝鮮、台湾、ブルネイ、バングラデシュ、ブータンくらいに狭まってきたので、徐々にランクが繰り上がっていた。
航空会社のマイレージ制度にはいくつも登録していた。ANAとJALだけ入っていればいいだろう、と思うのだが、そうもいかない。私が初めてマイレージに加入したのはパリーバマコ(西アフリカ)線に乗ったエールフランス(AF)のプログラムだった。当時は未だJALがワンワールドとスカイチームのどちらにも組していない、各陣営のパワーバランスがハッキリしていない頃だった。
格安航空券ばかり使っていると、クラスによってポイントが貯められない、だからAFとJALでも相互獲得できないルールになっていた。同じワンワールドでもキャセイ(CX)とカンタス(QF)など複数のキャリアに分散してしまい、もう混乱の極み、管理の限界を超えていた。
これまで無料航空券に漕ぎつけたのはワンワールドの国際線2回、スターアライアンスの国内線2回くらいだった。ちょうどキャセイ航空のマイルがあと一押しで無料航空券に手が届く時期だったので、キャセイで行ける渡航先を探していたのだ。
そんな時、スリランカの「歩き方」を立ち読みしているとマッド・ハウスなる泥壁ホテルを発見した。
これだ! ここを目指そう!
このプリミティブな写真を見つけて、夏休みのスリランカ旅を即決した。まずは珍しい泥ホテルに泊まってみたい、そんな誘惑に圧倒された。
どうして泥ホテルに惹かれるんだろうか。ホテルの部屋にドアがあるのは当たり前だ。なのに「歩き方」の写真を見る限り、壁の間がパカッと空洞になっている。誰でもここに侵入できるって事。それはリスキーでもあり、見方を変えれば開放的な空間だって事。縄文時代の竪穴式住居と同じ事。その奥に広がる空間はどうなってるんだろう、と予測できない想像を掻き立ててくれる。もしかして、天井もなくて満天の空が広がっているのか、トイレも青空トイレなんだろうか。ドゴン村をトレッキングした記憶がフツフツと甦ってきた。
ともかくこの写真1枚でスリランカへ旅立つ事に決めたのだった。
【註】これまで、泥のホテルに泊まった事は2回ある。最初はマリ共和国のドゴン族の村をトレッキングしていた時。その旅行記は2021年1月にHPに旅行記をアップしているのでご参照。尚、マリ共和国編は初めて書く旅行記だったので、このスリランカ編を完成させた後で書き直すべく熟考中。
4.泥のホテルにワクワク
例のドライバーの運転で泥ホテル(The Mud House)に到着した。地名はアナマデュワ(Anamaduwa)で日本人にとっては舌を咬みそうで発音しにくい。
辺りは幹線道路から外れた郊外にあって、リゾートっぽくもない地味な田舎のホテルだった。近くには牛がのんびり草を食んでいたり、なんだか手塚治虫「ブッダ」が描いている世界のようだ。これは猥雑なるインドでは全く感じなかったものだ。まずは、ちょっと安心。
例のごとく予約していないものの、無事にチェックインできた。安宿でも高級ホテルでもたいていこうして訪れる。旅をスタートさせても自分が何月何日にどの街にいるのか、そうした確証を持てないので当日ふらりとフロントで空き部屋があるか訊いてみるスタイルだ。パリとかチェンマイなどごく一部の例外はあるけどほぼほぼ泊めてもらえる。
ホテルのフロントが意表を突いてきた。
「午後は何で遊びますか? カヤックもできるし、近くの丘に散歩にいくのもあり」
「じゃあ、カヤックしたい」
と答えると、トゥクトゥクの上にカヤックを積んで、近くの湖まで連れて行ってくれる。水辺ではスリランカの女性たちが洗濯していたり、体を洗っていたり。子供達も水浴びしている。そこは、観光地でもなんでもないスリランカの田舎の風景だった。
大自然の中でカヤックするのは気分いい。幸いこの湖にはツーリストは誰もいない。生活感溢れるスリランカの片田舎でカヤックできるのもいいものだ。蓮の葉がびっしり茂っているエリアもあり、ピンク色の蓮の花がたくさん咲いていた。そんな環境でリラックスした時間を過ごす。
<地元の人が水浴びや洗濯している湖でカヤック(2)>
カヤックから戻って、いよいよ泥のホテルにご対面だ。乾いた土道を歩いて行く。よく言えば全戸が独立タイプしたコテージ、素直に言えば荒地の中に泥壁の家がポツポツ並んでいた。良く言えば発展途上国にあるロッジ・タイプの宿だ。
ホテル名通りに泥を固めた壁と、藁葺の屋根できっと1000年前と同じような造りだ。まあ泥の家って、即ちドアもない。泥の壁だって一周している訳ではなく半分くらい築いてあるだけで、残りは半ばopenな状態だった。なので、そのまま誰でも入って来られるって事。
だからと言って半分造作ではない。かなり手が込んで作り込まれている事が分かる。玄関でくつを脱いで、室内は裸足で大丈夫。土を固めてあるので、足裏には滑らかな感触が伝わってくる。これは素足が嬉しい。床にヒビ割れこそあれ、微分できそうなくらいに滑らかなのだ。
泥壁にわざわざ凹凸を付けて仕上げている。壁と壁の角も丸く仕上げてありソフトなのが気持ちいい。柱もキッチリ長方形に組まれているのではなく、木の枝が曲がっていればそれはそのまま使って、添え木を縄で括りつけていた。コンクリート造りの現代建築と比べて、十分にSDGsに対応している宿だった。
玄関先にいすが2脚、半開きの部屋にはベッド4つ、と木製テーブルがあった。ハンモックが吊るされているのも嬉しい。
棚には懐中電灯、双眼鏡、防蚊スプレーも備え付けてあった。もちろん蚊帳も吊ってある。原始的な空間を作り上げているのだけど、最低限は近代的な装備を用意してくれているのだった。
L字型の内側には明確な壁が無く、中庭の先はジャングルだった。その脇を通ってシャワー・ルームやトイレに繋がっている。いい感じのホテルじゃないか。
便器の蓋を開けた所でショッキングな光景を目にする羽目になった。まさか、体調3cmくらいのカエルが3匹、便器の中に住んでいたのだ。彼らも驚いたのだろう、慌てて飛び出してくる。そもそも、このカエル達はどうやってここに入り込んだのだろうか。
小さい内に飛び込んで大きくなった? であれば、長いことこの部屋が使われていなかったのか。あるいは下水を伝って便器に辿り着いたのか? そんな器用に配管を逆走できるものだろうか。 それともホテルのスタッフがイタズラでカエルを仕込んでおいた? ここはインドじゃないのであり得ないな。それにしてもワイルドな世界だ。
<泥の家、壁のない部屋ってこんな感じ(旅メモ)>
セキュリティ・ボックスが用意されていたけど、木箱なので力づくで壊そうと思えば壊せそう。でも、このプリミティブ感が気に入った。高いお金を払えば5つ星ホテルに泊まる事はできるけど、どこの国の5つ星でも1度泊まってしまえばさして代わり映えはしない。でもスリランカの片田舎にあるこの泥ホテルはこちらを十分にワクワクさせてくれる。
夜になれば獣の遠吠えが聞こえてくるので、聞き耳を立ててしまう。鳥の鳴き声もなんだか不吉な声音をはらんでいる。部屋の壁もドアがないのだから、もしかして肉食獣に襲われる危険はないのか。まさか、ロンドン生まれの若手オーナーが建てたホテルなんだから、そんな事件は起こらないだろう。ワイルドなホテル故の心配が一瞬頭を掠めたものの、疲れているのですぐに寝落ちしてしまった。
翌朝まだ薄暗いうちに目が醒めると、自室の屋根でガサゴソと音がする。部屋のドアがないのだから、わざわざヒトが屋上から侵入してくる筈はない。もしかして昨日のリスなのか、明らかに生き物の動きだった。姿が見えないのに動物の物音だけがずっと続いているのは怖い。明るくなってから外に出てみると大きなネコだった。藁葺屋根をゴソゴソかきわけて中に潜ろうとしていたのだ。小心者なので正体を確かめた事でようやくひと安心できた。
<早朝からネコが屋根でゴソゴソ、フレンドリーなスタッフ達>
5.スリランカの田舎をミニ探検
翌日、若手のホテルスタッフと一緒に岩登りへ行く。と言っても車で登山口まで向かう訳ではない。のんびり自転車を漕いで隣りの村まで行く感じだった。1時間くらい漕いだのか。微妙なバランスでどうにか安定している岩に登る。途中で小枝を束にして巨岩を支えているのを見つけた。
<ガイド氏と隣り村の岩登り、小枝で支えるられるのか>
小枝をいくつも立て掛けて巨岩を支えるなんて、実際には何の用もなしていないだろうと内心では笑ってしまった。でも実はこの後、全く同じ光景を日本国内でも見てしまった。これには参った。
私は開腹オペをキッカケにしてここ10年ほど山登りを月次イベントにしている。日本百名山の瑞牆山(山梨県)に登った時の事だ。瑞牆山は前半こそ普通の登山道だが、桃太郎岩の先を登り返していくと両手両足を使って岩を乗り越えていくスタイルに変わる。これは難儀だけど、それでいて楽しい。アスレチック感覚で登れる山なのだ。
その途中にまさしくスリランカの大地で見たのと同じ光景を目にする事になったのだ。こんな細い木の枝で岩を支えられる訳はない。でも、もしかして「塵も積もれば山となる」の喩え通り、この小枝の塊が如何ばかりの役に立っているのだろうか。日本で同じ光景を見ると別の感想を抱いてしまうのはちょっと不遜なんだろうけど、それが登山している時の率直な感想だった。
話は思いっきり飛ぶけど、ミャンマーに金色の丸い岩が器用に崖地に乗っかっているスポット(ゴールデンロック:チャイティーヨー・パゴダ)がある。私がかつてミャンマーを旅した時にはヤンゴンとマンダレーで精一杯だった。とてもそこまで足が回らなかった。
でも、日本にも奇岩はあるもので、御在所岳(三重県)の中道登山道に立ちはだかるおばれ岩や地蔵岩などはユニークだ。地蔵岩は2つの岩が屹立しているその上に、立方体の岩が奇跡的に乗っかっている。
森吉山(秋田県)の冠岩も下の岩の接地面は狭くて、その上にふた回り大きい岩が乗っかっている。実は初めて森吉山を歩いたのは3月の雪山だったので冠岩の存在すら知らずにいた。紅葉の時期に再訪して鳥居の奥の姿を知った。
<葉っぱに包んだランチボックス>
午後は経験豊富な別のスタッフと村を歩いて水遊びに出掛けた。道すがらスリランカのローカルフードを教えてもらう。ブッダストーンは固い木の実で、年配のガイドが割ってくれる。イチジクのような食感がした。生で食べるものではなく、ジャムに加工するとか。このブッダストーンだが、呼称に誤りがあるかも知れない。ずっとウッドアップルと覚えていたものの、旅日記にはこう書かれていたのでこの名前で表記する。
EGBと書かれたラベルが貼ってあるのは、ノンアルコールのジンジャー・ビールだ。子供も呑んでいるもので普通に美味しい。ジンジャーエールより刺激あり。ニュージーランドにもジンジャー・ビールがあったけど、生姜好きには堪らない刺激。クセになる味だった。
水遊びってどこでするのかと思っていたら、自転車で着いた先は前日にカヤックした湖だった。決して透明な水面ではなかった。念の為に聞いてみると洗濯しているオバちゃんは「魚はいないよ」との事。いやいや、何度も魚に足を咬まれた。話が違うじゃないか。帰路で、ガイド氏が「ここで釣った魚がフィッシュカレーになるんだ」と教えてくれた。
このマッド・ハウスでは1泊3食にアクティビティ・ガイド代もセットになっている。もう1つありがたいのは3時のおやつも出てくる事。柏餅みたいな体裁だけど食感は羊羹みたいなものを食べた。見た目と味は微妙だけど多分自分から進んで食べるものじゃなかったので、これもありがたい経験だった。
<ブッダストーン、羊羹みたいなおやつ>
6.スリランカ・カレー
夕暮れ時、ホテル内のレストランに向かう。辺りがうす暗くなってきて、広い敷地の所々に直火が灯っていた。左右の樹木の枝先に油を塗っているのだろうか。なかなかワイルドだ。
スリランカで初めてのディナーは豪華だった。野菜や魚など具材毎に一品ずつのカレーが提供された。この日はチキンカレー、かぼちゃカレー、オクラカレー、もう1つ謎のカレー。翌日は芋類のカレーやダールカレーも食べられた。スリランカは他のレストランでもこんな具材ごとに別々の皿に分けて提供してくれる。しかも、インドのターリーやネパールのダルバートと比べると一皿のボリュームだ。
私は辛いのが苦手だがカレーは別。日本だと汗タラタラでカレーを食べるのは周囲に気兼ねして食べにくいけど、暑い国ならば構う事はない。タラタラと噴き出してくる汗を拭いながら腹いっぱい食べられる。
<レンズ豆で飾るスリランカ・カレーの夕食>
2日目のディナーも豪華だった。テーブル全体にレンズ豆で綺麗にデコレーションされていた。こんな手が込んだ演出は初めて見た。嬉しいもの。
デコレーションが崩れていくのはお構いなしに、並べられたレンズ豆での上にドカドカとカレーが並べられていく。魚カレーやオクラカレーなど至って健康的。また食べ過ぎてしまう。
*
朝メシでレストランへ行ってみると、このマッド・ハウスが開放的な自然の中に建てられていたのだと分かった。直ぐ手前に湖が広がっていたのだ。この地方は5~9月が乾期であり、かなり干上がっていて湖面は縮まっていた。湖の反対側には白鳥や水牛がくつろいでいる。実はこの写真は普通のズームで撮ったものではない。双眼鏡で拡大した状態でそこにデジカメを当てて撮影してみた。なので、肉眼ではちゃんと見えていない。
<湖の向こうに動物たち、ホッパー>
この泥ホテルの朝食では他にも驚いた事が2つあった。
1つが、ホッパーだ。米粉を溶かしてフライパンで焼いた粉ものだ。ほうれん草のカレーと一緒に食べる。
ふわっと丸みを帯びた形状で、直径15cmくらいある。ホントに薄くてクレープみたいなモノだった。パンと言うには物足りないけど、この形状がいかにもスリランカ人の優しさを表しているみたい。勿論この優しさってのは旅人にとってのものであり、旅の後半ではスリランカ在住でスリランカ人と戦っている日本人と現実に遭遇したので、気軽に「優しさ」と形容するには異論がありそうなのだ。
最初にホテルの人が教えてくれた料理名はライス・フラワー。朝食のお皿に3枚あって、2枚はプレーン・ホッパー、もう1枚はホッパーの上に目玉焼きが乗っていた。朝からこういう珍しい料理に出会うとテンションが上がる。
でもこれってどうやって作っているのだろうか。最初に思い浮かんだのは、エジプトのシナイ半島の東端にある港町ヌエイバ(紅海を船で渡ってヨルダンのアカバに抜けた)の朝食風景だった。
インドや中東で食べるナンは平たい鉄板の上で焼く。日本だとタンドリー釜でビッグサイズのナンを焼いてくれるけど、海外ではそうしたものを見掛けた事はない。
でも、ヌエイバの安宿で私がレストランに顔を出すと、料理人が私一人のために生地を打って、中華鍋を温めてナンを焼いてくれた。それが中華鍋をひっくり返して生地を反らせるようにして炙ってくれたのだ。インドや中東で食べたナンの中で、この作りたてのナンが一番おいしかったのは言うまでもない。
こうしてホッパーの文を書いていると、なんだか懐かしくなって食べたくなるから不思議だ。確か西新宿の甲州街道沿いにスリランカ料理のレストランがあった。アフリカ料理のローズドサハラの近くだった。今でも営業しているのかなぁ。
もう1つのサプライズが、ジャイアント・スクイール(巨大なリス)だった。リスって云うよりもネコより少し小さいくらいのサイズ感で、顔もシッポも愛らしい。シッポも含めた体長はネコを十分凌ぐもの。彼らがレストランの天井付近を動き回っていた。
ヤマ登りしていても野生のリスを見られる機会はなかなかない。たとえ見つけられたとしても彼らはすばしっこい。雌阿寒岳の登山中に見掛けてもすぐ木陰に隠れてしまうのだ。
このレストランでは普通サイズのリスやつがいの孔雀にも出会えた。野生の孔雀ってネパールにもいたなあ。
<大リスがこちらの様子を覗っている(2)>
7.ドライバーに見るスリランカ人気質
スリランカ到着の翌朝からずっと運転してくれたドライバー氏とは、西海岸のニゴンボ・ビーチ、マッド・ハウスと丸3日の付き合いになる。彼は忠実に運転してくれるのだが、ずっと彼の運転に頼っているといつまでもリアルなスリランカ旅を味わえない気がして、徐々に不安が募ってきた。流石にそろそろシギリヤでお別れしたい。
日本人は正直な国民性なのでできない事、自信のない事は理性で「できない」と前もってバラしてしまう。でも欧米やアジア系の人々は延髄から慌てて戻ってきた反射神経で「できます」と言ってくる。よく言えば前向き、悪く言えば無責任。勿論、それをポジティブに評価する事もできるんだけど、「知らないなら最初から正直にそう言ってくれ!」って場面に遭遇する事がある。
スリランカに深夜到着して、翌日朝に紹介された男が親戚の者って言うので運転を頼んだのだけど、もう彼の運転に付き合わされるのも3日目に入った。と言っても初日に空港近くのホテルからマッド・ハウスまで送ってくれて、翌日はドライバー小屋で寝ていただけ。顔も見ていない。それで本日マッド・ハウスからシギリヤまで移動するので運転中なのだ。そもそも彼は本当にホテル・オーナーの親戚なんだろうか。
スリランカは公共交通が発達していなくてタクシーも足りないのか、1人の運転手が専属で回るスタイルだと「歩き方」に書かれていた。でも、これってユルユルの仕事になるけど大丈夫なんだろうか。
しかも、彼は島の北西部からシギリヤへ運転した事がなかったのだろう、思いっきり道に迷う。何度か通行人に道を尋ねては元来た道を戻って方向感の定まらない運転になってしまった。
ようやくシギリヤの街外れに着いた時も、彼は強気だった。
「俺の運転はここまでで本当に大丈夫なのか? スリランカでは1人のドライバーが責任を以って旅人のトランスポーテーション(旅の移動)を担うものなんだ。俺をここでリリースしても、お前はその後で次のドライバーを見つけられないゾ。それでもいいのか! 俺はお前がスリランカ観光を終えてコロンボ空港に戻るまで働くぞ」
彼は執拗に業務継続を訴えてきた。なかなかに厄介な男だ。こっちとしては僅か1週間の旅だから、そろそろ自由が欲しいのに面倒だ。もしかしてスリランカにはあまり仕事はないのか。スリランカがインド東海岸にポツンと浮いている地理的条件を思い出す。どうも交渉ロジックが一方的で、インド人の雰囲気を纏ってきたように感じられたのだ。
最初に明確な値段交渉をしていなかったので、いざ金額を聞いて固まった。
当初聞いていたふんわり価格: 稼働日= 1,500Rs 待機日= 750Rs
聞いてビックリ: 稼働日=15,000Rs 待機日=7,500Rs
トータル37,500Rsだけど、友達なので36,000Rsでいいよ
友達ではなかったのか。明らかにフレンド・プライスではなかった。ビジネスライクでもいいけど、だったら最初からそれなりの態度を示して欲しかったと思うのは、自分が曖昧で済ませる日本人だからだろうか。
きっと最初はワザと桁を1つ落として「サウザンド(千)」を「ハンドレッド(百)」って喋っていたのだろう。車内でグダグダ交渉していても時間がもったいないので「ディカウントしたらいくら?」と聞いてみる。もうそれでいい。26,000Rs(約2万円)払って握手した。
これでも充分に高額だけど、ドライバーと離れられた事で気分的はスッキリした。バックパッカーがいつまでも誰かに頼りっぱなしで旅しているのは良くない。主体的に行動していないと、旅の記憶はどうしても朧げなものになってしまう。
思えば、このシツコさを経験したのはホント久しぶりの事だった。2001年9月、ニューヨーク同時テロの2日後に私は、ヨハネスブルク経由でナミビアを旅に出ていた。ナミビアの首都ウィントフックで出会ったドライバーと丸4日くらい一緒に行動する羽目になって、うっとおしさを感じた事があったのだ。
ナミビアとは世界で最も人口密度が低い国。ナミビアの首都ウイントフックの空港から乗合タクシーで市内に向かった。それがそのドライバーとの出会いだった。彼の名前はロマンス、なかなか図々しい名を名乗る男だった。体格はヨコに広く、アブドラ・ザ・ブッチャーみたいに目がギョロッとして丸っこい男。彼のシツコイ押しに辟易しつつも彼にナミビア旅の移動手段を任せた。彼は日本人旅行者に書かせた紹介状を持っているだけでなく、漢字で「恋愛」と書かれた日本名を自慢しながら見せてくれた。男でロマンスってイングリッシュ・ネームを持つのはなかなか勇気あるんだよなあ。
8.シギリヤ村の2つの巨岩
シギリヤの村はさして大きくない。と言うか、広大な土地にシギリヤ住民の家が点在しているって表現が正しい。
まず赤土の焼けた道を辿って、高さ196mのシギリヤ・ロックを目指す。スリランカの旅4日目にして、ここで初めて土着の生活感溢れるスリランカ人と出会ったような気がした。ロンジーみたいなスカートを履いた男もいるし、なにより人々の顔面がガシッとイカツく感じたのだ。それまでの3泊は泥ホテルだったので、相手もツーリストとして接してくれた面がある。おもむろに外国に放り込まれた感覚を味わった。それが好きでスリランカに来たのだから何ら構わない。
そんな事を考えながら、正面に立ちはだかる巨岩シギリヤ・ロックに向かって歩いていた。手前はかつて造園されていたのが枯れ果てたのか、それとも水を引いて涼をとれるようになっていたのだろうか。既に15時を回っており、やや遅めの入場になったので時間を気にしつつ、岩を登っていく。
<シギリヤ・ロックに迫る、みんなで登る>
途中の壁画(シギリヤ・レディ)はなかなかのものだと思った。観光客が壁画を普通にカメラに納められるのがありがたい。建設現場の足場を組んだ不安定な場所だったので、あんまりゆっくりも鑑賞していられない。
シギリヤ・ロックの頂上部は明らかに宮殿の遺構だと分かるものの、5世紀に僅か11年ほど使われていた場所で、如何せん人工物が全く残っていない。往時のロマンを感じると言うよりも、兵どもが夢の跡そのものだった。
今でこそ足場を組んで登っているものの、宮殿として使っていた往時は取りつく足場もない壁面でどうやって宮殿と下界を往復していたのだろうか。食料を運び上げるにも難儀しただろうし、およそ王様が暮らすのに適した場所とは言えない。
<シギリヤ・ロックの猿、獣を模した門>
サルの親子が「ここは俺ん家」だと主張しているようで、何らヒトの気配は感じなかったのだ。むしろ、シギリヤ・ロックの周囲はジャングルの深い森に覆われていてここに王国が栄えていた事に不思議な感覚を覚えた。
帰路にくぐった土作りの門には獣の足が彫り込まれていた。その間にある階段を降りてきて、ようやくその存在を知った。往時はその上に巨大なライオンの頭部があったとか。
シンハラ語でシンハはライオンを、ギリヤは喉を意味する。もしかして私が下りてきた階段の上にライオンの大きく開けた口が待ち構えていたのかも。登る時にはこの口から入って喉元を過ぎると山頂部に辿り着ける構造になっていて、王の威厳、王宮の権威を示す存在だったのかも知れない。
それがもっともらしく思えたのはダンブッラの石窟寺院で見たアニメちっくな造作の存在があった為だ。ダンブッラでは黄金仏像の直下に怪獣がガバッと大きな口を開けて白い歯を露わにしているのを見つけた。その獣の足も金色でイカツク造られていた。インドの象の神様もユーモラスだけど、スリランカの神はもっと人に親近感を与えてくれる。この門にも、往時はきっと同様の彫像があったのだと思いをきたした。
この日の夕食はビリヤニ。食後のフルーツ・プレートが大盛りだった。パイナップル、パパイヤ、バナナ、アボカドがふんだんに盛り込まれていた。
隣りの席に座っていた白人夫婦も思わず目を剥いて「あなたそんなにお腹が空いているの?」と訊いてくる。いかにも白人らしい笑顔だったので、「いや~、それほどでも。ご一緒にどうぞ」と返してみる。
話してみるとこのおふたりはニュージーランド(以下NZ)のダニーデンから来られたとか。ダニーデンって確かペンギンを見られるNZ最南部の街だ。こっちもNZ好きで何度も出掛けて、ミルフォード・サウンドとかエイベル。タスマン国立公園でカヤックしている。そのご夫婦もかつてネルソン(エイベル・タスマンの玄関口)に住んでいたとの事ので、なんだか思わぬ所で話が盛り上がった。
シギリヤ村にはシギリヤ・ロックがポツンと1つ在る訳ではない。炎天下の暑い中を更に30分くらい歩いた所にもう1つデカイ岩がある。ピドゥランガラ・ロック(Pidurangala)だ。そこにも登ってみた。
何事もNo.1とNo.2では扱いが違ってくる。当然だけど人は少ない。おそらく世界遺産シギリヤ・ロックと比べてツーリストの数は20分の1くらいじゃないか。入場料もシギリヤ・ロックの30USDに対して、こっちは僅か500Rs(約370円)と桁落ちしており、格差はハンパない。
なんの装飾がある訳でもないけど、岩そのものを登るにはこちらの方が楽しい。ここから眺めるシギリヤ・ロックもジャングルの中から忽然と立ち上がって目立つ存在だった。山頂で裸足のスリランカ人ご夫婦と記念撮影した。このご夫婦は隣村ポロンナルワから来られたとの事、とても優しい語り口だった。時間さえ許せば、一緒について行ってポロンナルワ遺跡も観光したいくらい。
<カヤックを漕いでいると奥にピドゥランガラ、その頂にて>
この岩山の下山中に、恥かしながら道に迷ってしまった。私が道迷いしたのはもう10年くらい前の三頭山の帰り道だった。都民の森から山頂を極めて、奥多摩湖へ降りる。ところが、途中で涸れ川に流木が折り重なってしまい道が途絶えていた。登り返すのは体力を消耗するけど、観念してやむなく30分くらい戻った事がある。
日本の登山だといつも目印となるピンク色のテープが木の幹に括り付けられている。いつもそれに頼っているので、ルート・ファインディング・スキルが衰えてしまったのかも知れない。
迷ったら上に戻るのが鉄則だが、大した高低差の岩ではないし、無理に藪漕ぎすれば降り切れるんじゃないか。しかもピドゥランガラは小高い丘だ。そんな身勝手な思い込みもあってズブズブ迷ってしまった。時間にして僅か15分程度のことだけど、野生のカンを取り戻そうと敢えてもがいてみた。
シギリヤの森林地帯に忽然と立つ2つの岩山、それがシギリヤ・ロックとピドゥランガラ・ロックだ。前者は私が初めての海外旅行で訪れた赤褐色のエアーズロック(近年ではウルルと呼称するが英名の方が親しみを感じる)と土の感触が似ている。ただ、ここはそれよりもずっと傾斜が険しい。屹立した様はメテオラ(ギリシャ北部の天空の修道院)に近いのではないか。後者を私が登ったスポットで喩えると、ツルンとした羅漢寺山(山梨県)や便石山(三重県)の象の背がズバリと嵌まる。それだけ開放感がある岩肌の山頂だった。
9.象に曳かれて、サチコさんのゲストハウスへ
シギリヤ観光はシギリヤ・ロックだけで終わらせるにはモッタイナイ。この村で現地在住のサチコさんと出会った事で旅が広がった。そのきっかけは象、エレファント・ライドだった。
シギリヤ・ロックを見学した後、メインストリートで象を見つけた。
これまでもチェンマイ(タイ)とチトワン国立公園(ネパール)でも乗っているので、象の背中が楽しいものか、そしてどんなに揺れるか感覚は分かっている。ネパールでは象が川の中に入って行き、わざと背中を揺らせながら私を川にドボンと落としてくれた。もちろん怪我はない。ここまでの芸当ができるのだから賢いんだろう。
なので、即決で象に乗ろうと思い立った。
象ノリの受付が道端にあり、白人ツーリストと一緒に乗せてもらう。象の背中はやっぱり激しく揺れる。蓮の花が咲いている沼地の脇をのっしのっしと歩いてくれた。木枠の中に4~5人乗れる大きさだがこの時は3人だったのでスカスカ。とにかく振り落とされそうなほどに揺れるのだ。シギリヤ・ロックのすぐ近くで、周囲には蓮の花が咲いていた。シギリヤ・ロックを背景にして中々いい構図の写真を撮ってもらえた。
<象の背で揺られて、2階建設中の兄ちゃんの夕食作りにお邪魔>
受付に戻ってきてスタッフと話し始めると、象オフィスのオジサンが「サチコ、サチコ」と喋りかけてくる。はあ? もしかしてこの彼は日本人妻を娶ったのか?
ニサンガ(後でわかった彼の名前)が携帯電話を私に差し出してきた。電話口では確かに日本人女性の声がする。
細かな事情は分からないけど、とにかくサチコさんと喋ってこの日の宿が決まった。慌てて次の街に移動しなくてもシギリヤでゆっくりしよう。予定が決まっていない旅はこれくらいルーズで構わない。
このサチコさんなる日本人は、マンガ家であり、かつシギリヤでゲウトハウスを建設中の逞しい女性だった。元々スリランカを含む世界一周の旅をしている時に、ニサンガから「スリランカで共同ビジネスをしないか」と誘われたとか。で、旦那さんともども現地に来たのだが、当時は彼女が一人、ゲストハウス完成に向けて健闘していた。いや、彼女の話を伺っているとどうみても「奮闘」って言葉が正しい。
当時は未だ建設中だった岩見荘だが、1階部分(全3部屋)は完成しており、そこに泊まる事に決定。白を基調とした清潔感溢れる部屋で、シンクとジェット・バスが設置されていた。1泊3000円(4200スリランカ・ルピー)は安い。明らかに値段以上のクオリティーだった。しかも、夕食と朝食はニサンガの奥さんが作ってくれるスリランカの家庭料理がいただける。要はカレーだ、これはありがたい。
カレーは西海岸の泥ホテルと同じスタイルだった。魚や野菜など具1つにつきカレーが煮込まれてそれぞれの皿で提供される。それを白皿にとって自分好みのカレーにミックスして食べるのだ。カレーを混ぜて自分好みの味で食べるのはインドと同様だ。ネパールのダルバート(ターリーみたいなワンプレート)より量が多めだ。
<ゲストハウスにて、ホンモノのスリランカ・カレー>
ホテル2階を建設中の兄ちゃんがここに泊まり込んで作業しているのにビックリ。日が暮れると、地面にしゃがみこんで自炊を始めていた。その様子をちょっと撮らせてもらった。火を起こして鍋で煮込んでいた。でも、ゲストハウス建設にまつわる諸事情はかなり複雑。職人さんの食費も施主(サチコさん)が負担するのだとか。日本の感覚ではあり得ない。
サチコさんはスリランカでゲストハウスを建設するのは苦労の連続だと嘆いていた。お国柄の違いもあれば、共同経営による仕切りの難しさもあり、工期半年、建設費600万円の予定がズルズルと膨らんでいると言う。もしITシステムの開発プロジェクトだったら、もうこの時点でプロジェクト・マネージャーの首は飛んでいる。
いろいろ話を伺ったのだが、ここはサチコさんのマンガから拾い書きした方が正確なので以下に列挙してみる。どれも「スリランカでは」と置いてみると読みやすい。
・建設資材を自分達で調達する
・基礎を固めたあと、壁を作ってから柱を立てる
・部屋の大きさがそれぞれ異なる
・柱が垂直じゃなくて斜めに傾いている
・窓枠にガラスを嵌めてから、接合部をガードしないで雑にペンキを塗る
・職人がなかなか思うように働いてくれない
・ゲストハウス建設なのに、トイレは見積り外だった
マンガなので笑ってしまったけど、もし自分だったらこの泥沼の状況を耐え抜いて部分開業に導く事ができたんだろうか。
ニサンガの本心はどんな所にあったのだろうか。旅人として僅かな接点があった私としては、あまり否定的に邪推する気になれなかった。細かい点を相談されても「そんな事までどーでもいい」とアバウトな性格だったのか。それとも、本当に外国人オーナーを法的に排除しようと企んでいたのか。
もしスリランカ人を庇うとしたら、品質ってお互いに合意しにくい事なんだろうな、って事。ちょうど私もIT企業でシステム開発においてスピード重視、品質重視のいずれを求めるか顧客と会話した事がある。顧客は当たり前のように「両方に決まっている」とのたまう。でも、カネは出さない、納期も鬼のように締め上げるとどこかにしわ寄せがいく。そうなると「うまくやってくれ」では済まない場合もある。そうやってついはみ出てしまうのが、お互いに事前合意しにくい品質なんだろうな。しかも、同じカレー文化のインドと比べたらこの国は総じておっとりしているのだ。
マンガを読んで面白かったのは、スリランカ人とのコミュニケーションに変化を持たせたら人間関係が好転して意思疎通がスムーズになったって話。当初はパートナーとして相談を持ち掛けていたけどそれだと相手の反応はままならない。でも、現地で事業している白人の対応をマネしてストレートな命令口調に変えたら、ものごとがスムーズに動くようになったとか。日本人どうしのプロジェクトだったらこうはいかない。上下関係を露骨に示すと逆効果になりそうで、これは未だスリランカ人の感覚が未分化なためなのか。
結局、ここに2泊させてもらう事になった。世界遺産シギリヤ・ロックがある街だけど、先を急ぐ旅人にとっては日帰り観光になりがちだ。でも、サチコさんとの出会いで、いろいろな遊び方を知ってシギリヤでの旅をのんびり楽しむ事ができた。
※この章はサチコさんこと東條さち子さんのマンガ「海外でゲストハウスはじめました(全2巻)」(朝日新聞出版)を参考にした。
10.スリランカ・マジック
このシギリヤ村に締めて3泊したので、いろいろと遊んでみた。シギリヤ・ロックと象乗りだけでなく、まだまだ遊べるスポットなのだ。世界遺産だけ見てすぐ次の街にいってしまうツーリストが多いだろうがそれでは勿体ない。
サチコさんのゲストハウスに泊めてもらったその晩、ニサンガの運転でナイト・サファリに出掛ける事になった。かなり高い確率で象が見られると言うのだ。それだけ村人と自然の距離が近いって事の証。期待も高まる。
象って昼間はノッシノッシとゆっくり歩くけど、夜も同じなんだろうか。シギリヤでは住居のすぐ傍まで象が近寄って来る事もあるんだとか。窓枠のすぐ外側に象がいて、こっちと目が合って次の瞬間、象に踏まれたら一巻の終わり。そんな光景を想像すると恐怖で固まってしまう。
かつて、ボルネオ島のジャングルでロッジに2連泊した事がある。昼間は暑くて堪らないので短いコースを歩いてはロッジに戻って水分補給する事の繰り返し。その都度、Tシャツが汗びっしょりになって着替えては次のコースに出掛けていた。ヒルに血を吸われたツーリストもいて、スニーカーの中にタイガー・リーチ(大きなヒル)が紛れ込んでいないか入念にチェックする事も忘れなかったな。
ボルネオ島では夜になると、トラックの荷台に観光客を詰め込んでナイト・サファリに出掛けた。夜の闇は人間には不向き。明らかに獣の世界なのだ。野生動物の目がキラッと光るのが不気味だったなあ。
この晩のシギリヤのナイト・サファリ、ニサンガが1時間くらい懸命に車を飛ばしてくれたのだけど、象の姿を見掛ける事はできなかった。小笠原諸島のイルカやクジラもそうだけど自然相手の商売はガイドの方も苦労する。
スリランカ・スタイルの朝食はスイーツ感覚で食べられるソフトなもの。かなりオススメである。
<日本人ゲストハウスの朝食、蓮の花>
食後にすかさずカヤックする。入水スポットは川べりで、そこから湖まで往復した。
ここでも蓮の花が綺麗だった。西海岸に近い泥ホテル(TheMud-House)のはピンクだったけど、ここシギリヤでは白い花だった。
カヤックは自分で漕ぐから楽しい。だけど、ここは蓮の葉っぱが湖や川を覆いつくしていて、水面下には茎がびっしりとまとわりついている。並みの腕力では漕ぎ進める事が出来なかった。3人乗りカヤックに、ガイド氏とサチコさんと私の3人が乗っていた。
しかし、蓮の葉で埋め尽くされた水辺はカヤックに不向き。非力な日本人のパドル捌きでは全く進まなくなった。
<ハスのヘタ、蓮の葉・蓮の茎だらけ>
ところがどうだ、ガイド一人の腕力で3人乗りのカヤックが進み始めた。根っこがバキバキに張り巡らされていて進めない所も、ガイド氏の並外れたパワーで漕ぎ進んでいったのだ。これには本当に感謝しかない。たいたい私は進んでチップなんて渡さないタチだ。けど、この時ばかりは笑顔でチップを渡そう。
そんな暢気なカヤック出発地点に戻ってきた時、事件が起きた。ずっとカヤックに乗っていたので腰が固まってしまい、カヤックから陸に移ろうとスッと腰を浮かした瞬間にバランスが崩れた。で、腰や尻の辺りが水に浸かり、なんとデジカメが川に落ちてしまったのだ。ズボンのポケットからカメラがポロリと水中に! 水没したのは時間にして1分くらいの事だが慌てる。
まだ20代のカヤック・ガイド氏は陽気なもので「大丈夫。ホテルに戻ったら乾かせ」と笑顔で言う。「ゲストハウスに戻ればドライヤーあるだろう。それで乾かせば使えるようになる」とのたまう。えーっ、と疑うが案外それは正しかった。
当日: バッテリーは水没でNG。予備のバッテリーで電源入るがデジカメは動かず。
翌日: 写真を表示できた。SDカードは無事だって事。
翌々日: 本当に動いた! なんとまた写真を撮れるようになったのだ!
おそるべし、スリランカ・マジックだった。
11.ヘリタンス・カンダラマ
サチコさんのゲストハウスの共同経営者・ニサンガの運転で、有名なスリランカ人建築家・ジェフリー・バワ(1919~2003年)のホテル「ヘリタンス・カンダラマ」を見に行く。
ジェフリー・バワが建造したホテルはいくつかある。旅に出る前から、その中でどこか1つシギリヤ周辺で見たいと思っていた。トロピカル・モダニズムってどんなものなのか、折角のスリランカなのでリアルに触れてみたかったのだ。
途中、ダンブッラの街に寄って石窟寺院を見学した。ここも世界遺産に認定されている。黄金ブッダ像の下にある怪獣みたいな造作はなんともユーモラス。左手に伸びている緩い坂を登って石窟寺院を見学した。石窟の中に建てられた小さな尖塔はミャンマーで見たパゴダと同じ形だったな。
夕方、ヘリタンス・カンダラマに到着。人工湖があったり、開放的な空間で眺望は素晴らしい。「歩き方」にはジャングルの中って形容詞があったけど、草原の中に佇むホテルと称するのが相応しい。
あわよくばこの高級ホテルに1泊しようと狙っていたのだが、あまりに値段が高い。1泊220米ドル前後だった。
泊まるのを止めたのにはもう1つ理由があった。一般にコンクリート打ちっぱなしの建物は無機的だけど、曲線がカーブを描いているとか、螺旋階段に惹き込まれれるなど幾何学的に綺麗なデザインだと癒される。そういう建物は好き。例えば、代々木のオリンピック・プールだ。
四角四面のビルでもセンスが良いのはある。例えば今はなき銀座ソニービル(設計:芦原義信)は回廊型でわざわざ1つ上のフロアに上がるって手間を感じさせない自然な構造が好きだった。同じく、1991年に建替えられた銀座の王子製紙ビル(Kajima-Design)も高層ビルなのに銀座4丁目の交差点から敢えて視界に入らないように静かに立てられており、センスを感じる。
また、四角四面でもユニークな造形を生み出せる。吉阪隆正が設計した八王子の大学セミナーハウスがその好例だ。あの楔形のビルって一体どんな発想で生まれたんだろうか、写真を見ただけで強烈なインパクトを受けた。
実は、最近個人的に気になっているユニークな建築家がもう1人いる。茅野市や近江八幡市にある藤森照信の建物だ。2021年に浜松市天竜区にある秋野不矩美術館に知人の個展を見に行ったのだが、いかにもアジアな建物が気になってしまい、肝心の写真展の印象が薄くなってしまったほどだ。久々に「ゲゲゲの鬼太郎」の家みたいなツリーハウス(マレーシアのブンブン・ハウスも似ていた)に泊まってみたい、そんな欲望を想い出した。
さて話を戻そう。この「ヘリタンス・カンダラマ」は屋外空間が開放的で美しい。でも、なんだか建物そのものは四角四面で美しさを感じなかったし、もう朽ち始めているように感じてしまったのだ。 日本でも、吉阪隆正が設計した立山の某山小屋のように建てたばかりはどんなに美しかっただろうコンクリート建築でも、時が経てば中の鉄筋が錆びたり、コンクリが腐食して表面が剥がれてくると厄介だ。
なので、この日はシギリヤに撤収して、サチコさんの宿にもう1泊お世話になった。スリランカ・スタイルのカレーがまたまた食べられるのだから絶対にこちらがオトク。
※2022年に吉阪隆正の展覧会を見てきた。弊Amebaブログの記事を参照。
吉阪隆正展・ひげから地球へ | cx0293のブログ(登山やカヤック、海外旅行など) (ameblo.jp)
12.コロンボの頼もしいカメラ屋さん
クルネーガラ駅から列車でコロンボに向かう。なんとか窓際の席に座れたのだけど、窓ガラスがすりガラスのように汚れていたので景色は楽しめない。しかも通路も座っている人で溢れかえっていたので下手にトイレに立つのも憚られた。
コロンボの街に着いたらどうしても済ませておきたい事があった。シギリヤのリバー・カヤックで水没したデジカメの復旧だ。幸いな事に撮影できる状態までデジカメは乾いていた。でも、水没したバッテリーはもう動かない。もう1つのバッテリーは既に5日ほど使って残量が僅かなのでいつアウトになってもおかしくない。
なので、とにかくどこかで充電しておきたかった。でも、コロンボに量販店があるとは思えない。駅前から続く小さな商店をずっと目で追っていった。街の電気屋さんとかカメラ屋さんがないものか。見つけた!
店に入って「充電して欲しい」と頼む。家族経営でやっている小さなお店だったが、30~40代の店主が「分かった」と快く応じてくれる。カウンター裏の引出しをガサゴソとかき回して、キャノン製の充電器を見つけてくれた。
「これで大丈夫だ。充電しておくよ」
この言葉に救われた。確かに自分が日本に置いてきたのと同じキャノンの充電器だった。こちらとしてもデジカメなしでは観光しにくい。
「(頼んでおいて矛盾しているけど時間もないので)1時間分だけ充電して欲しい」
「それじゃあ完全に充電できないよ。それでもいいんだね」
「うん」
話が早かった。しかも、タダで構わないと言う。
チップとして少額のルピー紙幣を渡そうとしたのだが、なかなか受け取ってくれない。アジア人として共通の感覚で、こうした謙虚なやりとりは嬉しい。でも最後には無理やりルピー札を置いて店を出た。ありがとう。お陰で、安心して下町のペターやベイラ湖、ガンガラーマ寺院などを散策できたヨ。
この辺りの金銭感覚はヨーロッパと違うな。私がスイスのベンゲン(Wengen)で同じ事を頼んだ時には5CHF(約450円)、北イタリアのボルツァーノ(Bolzano)辺りで4EUR(約480円)を無表情で要求された。いずれもここ数年の事だ。
13.旅の締めはアールー・マタル
スリランカ旅の最後の夜は、5つ星ホテルのタージ・サムドラ・ホテルに泊まった。理由はただ1つ、美味しいカレーを食べたかったのだ。実はタージ・ホテルに泊まるのはこれが初めてながら10年来の強い憧れがあった。
と言うのも、以前ドバイのトランジット滞在でタージ・ホテルに立ち寄ってカレーを食べた。それがムチャクチャ美味しかったのだ。ドバイでオーダーしたのは2品。ガーリック・プラウンはニンニクのパンチが効いた香りがたまらなく美味しかった。アールー・マタル(じゃがいもとグリーンピースのカレー)は地味だけど、好きな食材が2つセットになっており、私の大好物。かつてムンバイの安食堂で食べたアールー・マタルが気に入って、それ以降はベジタリアンでこれを指定する事が多い。日本のインドカレー屋でもアールー・ゴビ(じゃがいもとカリフラワー)のカレーはメニューに載っているけど、カリフラワーはちと苦手。でも、店によっては頼んでみると作ってくれるケースもある。OKが出る事はあんまり期待しないで、それでも笑顔で頼んでみるのはアリだ。
コロンボのインディアン・レストランも美味しかった。この日はオススメのカレーを食べる。汗タラタラで激辛だと涙も流すので辛いのは苦手。甘口を頼み、こっちのリクエスト通りにクリーミーなプラウン・カレーを作ってもらえた。スリランカにいながらにして、インド系の正統なカレーに満足。
実は翌日もこのレストランでカレーを食べた。エントランスで挨拶すると再訪だと分かったウエイターがニッコリ笑って握手を求めてくる。旅人が2日も続けて同じレストランにやってくるのはよほど珍しいんだろう。私自身も敢えて同じ店に続けて出掛けたのは初めての事だった。
この日は、大好物のアールー・マタルを注文。メニューに無かったのだけど、リクエストしてみると、笑顔で応じてくれた。甘口のアールー・マタルを食べていると、恰幅の良いシェフが出てきて握手を求めてきた。2日連続でレストランに来てくれたのがよほど嬉しかったのだろう。
改めて想い出してみると、ドバイのタージ・レストランでもシェフがバー・カウンターからこちらをチラチラ見て笑顔でアイコンタクトしてきた。
コロンボのタージ・サムドラ・ホテル前に広がるビーチは、波打ち際で足首あたりまで海水に浸かってはスリランカの人達が戯れていた。地元の子供たちもキャッキャと騒いで賑やかだった。凧を上げている子供もいた。露天商もビーチに並んで出店して、海産物を焼いている。
思えばこのスリランカ旅は総じて穏やかなものだった。平和な夕景色をボーッと眺めつつ、もうこれでスリランカ旅も終わってしまうのかと思うと、ふと淋しくなる。
<ザクロ売りの兄ちゃん、桟橋に人がビッシリ>
かつてボンベイでは空港行きのタクシーに乗ってから、思わぬ展開が待っていた。タクシーが赤信号で止まった時、車窓が5cmくらい開いていて、そこから若いインド人女性の手がヌーッと伸びてきたのだ。そして笑顔で一言。
「バクシーシ(お金ちょうだい!)」
喜捨に関してはその時の気分、相手の状況に応じて渡したり、断ったり様々だ。幼子が両手で私の足をペタッと挟んできた時など断りようがないので幾ばくか渡している。
ただ、その時はあまりに突発的な申し出に意表を突かれたので、反射的に「ノー」と拒絶してしまった。でも彼女は悲しい表情を浮かべる訳でもなく、笑顔で握手を求めてきた。この前向きな行為に接するといかに日本人が狭量なのかと我が身を顧みて、逆に笑いがこぼれてしまった。日本人にここまでの余裕はないんだな。
今回の旅はやすらかなるスリランカの大地だったので、インド旅と同じドラマを期待するには無理がある。ましてや、短い旅人の立場ではサチコさんのようにリアルなスリランカ人と対決する機会もなかった。もちろんハプニングを望む気分でもなかった。穏やかに空港行きのタクシーに乗り、これで今年の夏休みが終わったんだと自分に言い聞かせた。
あとがきに代えて
コロナ禍の自粛暮らしにあって、東條さち子さんのスリランカでの奮闘マンガ「海外でゲストハウスはじめました」(全2刊)を読んでみた。この本は少女マンガ雑誌「Nemuki+」で連載されていたマンガを全2巻の単行本にまとめたもの。 自分がそのオープン間もないゲストハウスに泊っているので、なかなか興味深い内容だった。
どーして日本人が南アジアの島国でゲストハウスを始めようと思ったのか、その後スリランカ人諸氏との間でどのような軋轢と成功のドラマがあったのか、そもそも建物は完成したのか、諸々が気になってこの本読んでみた。
ちなみにこの本を買う前に著者の「よくばり世界一周!」(全2巻)もスリランカ旅の直後、2016年頃に読んでいる。私も小学生の頃に壁新聞を作っていて、マンガの上手い同級生に憧れた事があった。でも、自分にはとても絵の才能なんてない。なので、旅の想い出をマンガに描けるなんて羨ましい限りだ。
実際、私が2016年9月に泊まった頃には2階部分が建設中ながら、1階の全3室は完成しており、白を基調とした清潔感溢れる部屋だった。やっぱり日本人のセンスで整えられているのがありがたいところだ。1泊3000円(4200スリランカ・ルピー)だったけど、ゲストハウスとしては値段以上のクオリティーだ。しかも屋外でスリランカ・スタイルの朝食を戴ける、ジェット・バスが付いているなど十分オススメの宿だ。
現地でもお話しを伺った通り、ゲストハウス部分開業に至るまでにはとても他人には理解できないトラブルの連続だった。その詳細がこの2冊のマンガにびっしり詰まっている。
私が泊めて頂いた時にも、ゲストハウスなのにフロント・カウンターが無いのは不思議だった。なんとなくなあなあで全く構わないのだけど、確かにこういうラフなホテルに泊まった記憶は他になかった。
この本を読んでいくと、他にも驚くようなドラマがいくつも出てくる。
・建設資材を自分達で調達する
・基礎を固めたあと、壁を作ってから柱を立てる
・部屋の大きさがそれぞれ異なる
・柱が垂直じゃなくて斜めに傾いている
・窓枠にガラスを嵌めてから、ガードしないでペンキを塗る
・職人がなかなか思うように働いてくれない
・ゲストハウス建設なのに、トイレは見積り外だった
しかも、工期半年、建設費600万円の予定だったのが、どちらもズルズルと膨らんでいった。マンガなので笑って読んでいたけど、はてもし自分だったらこの泥沼の状況を耐え抜く事ができたんだろうか。
日本人の常識が通じない、法制度などおよそ同じとは思えない環境下でよく粘ったものだと感心する。私であれば、どこかの段階で損切りの判断を下して撤収していたんじゃないか。著者は日本でマンガ家をされつつ、しかも不動産物件のオーナー業もされていた。その分野のマンガ本も出版されている。そうしたスキルがないととても真似できるものではない。
面白いのは、スリランカ人とのコミュニケーションに変化を持たせたら、人間関係が好転して意思疎通がスムーズになったって話。当初はパートナーとして相談を持ち掛けていたけどそれだと相手の反応はままならない。でも、現地で事業している白人の対応をマネしてストレートな命令口調に変えたら、ものごとがスムーズに動くようになったとか。
【2023.4.22】「あとがきに代えて」を追記した。