【長編】アフリカン・システムに笑う<後半>~マリ共和国旅行記~
====== 前半では ==================
西アフリカの内陸・マリ共和国に初めて入国する。長距離バスと乗合バスを乗り継いでドゴン族の村トレッキングの基点となるモプティへ。そこで2泊3日のトレッキング契約を交わした。その翌日、いよいよバンディアガラの断崖に向かう。
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目次(後半は6~11章)
1.プロローグ:空港でマリの洗礼
2.なぜ泥壁のモスクが立つマリ共和国を旅したのか
3.首都バマコにて
4.長距離バスに揺られてセバレへ
5.トレッキングの拠点モプティ
【コラム】マリ共和国は西アフリカの内陸国
6.ドゴン村トレッキング・初日(木の枝で編んだベッド)
7.ドゴン村トレッキング・2日目(鉄板を敷いた青空トイレ)
8.ドゴン村トレッキング・3日目(星を眺めた頃、モスクを造る今)
9.これがアフリカン・システム
10.プリミティブな世界で見つけたもの
11.エピローグ:どんな旅でも大丈夫さ
【コラム】西アフリカ・マリを旅するにはこんな準備が必要だった
6.ドゴン村トレッキング・初日
(木の枝で編んだベッド)
3日間のトレッキング・ルートは以下の通り。私が2泊3日の旅で歩いたのはバンディアガラの断崖のごく一部だ。
マリとブルキナファソの国境付近に20前後の村々が点在している。南西から北東にかけて断崖が広がっており、この旅で私が歩いたのはドゴンの村々でも南のエリアだ。トレッキングは崖の上からスタートした。
初日:バンディアガラ村までパジェロで向かう → ジキボンボ村(ランチ) → 崖を下ってカニコンボ村 → テリー村(泊)
2日目:テリー村 → エンデ村(ランチ+ダンス) → ヤタバル村(泊)
3日目:ヤタバル村→ 断崖を登り返してベニマト村(ランチ+川遊び) → パジェロでモプティへ戻る
<ロンリープラネットのドゴン村マップ(転載)、私が歩いたルート>
(1)赤茶けたマリの大地
パジェロはモプティからサヘル地帯を抜けていく。女性達が頭の上に布を挟んでその上に器用に大きな水甕を乗せて歩いている。テレビの紀行番組で見たアフリカの景色そのままだった。おー、アフリカの大地にやってきたんだと実感が湧いた。車で1~2時間くらい走っただろうか。何にも無い荒地で下ろされた。サバンナでもない、土埃が舞うような乾いた土地だった。そこからガイドのボビーと共に2泊3日のドゴン村巡りの旅が始まった。
アフリカの乾いた大地を歩き始める。かなり暑くて直ぐにのどが乾く。まっすぐ続く1本道だった。道幅3メートルくらいなのか、道路の端にブロックを並べていく作業をしていた。もしかして今頃この土地を再訪すると、もしかして立派な舗装道路が完成しているかも知れない。まあ個人的にはプリミティブなアフリカはいつまでもそのままであって欲しいな。
しばらく歩くとジキボンボの集落に着く。賑わいがあるような村ではない。泥壁の民家が20~30軒ほど立っているくらいの小さな村だった。
この不揃いな建物群も遠目に見やると、南イタリア・アルベロベッロにある石造りのトゥールリが密集している光景と遜色なく美しい。どちらも円錐形の屋根を乗せているものだ。勿論、ベースとなる色合いは全く違うのだけどそれはあくまでも土地柄の違いだ。
子供達は自転車の輪っかを枝で転がして遊んでいた。途中の道を歩いているのは女性ばかりだったが、村に入ると男性しかいない。もしかして、女性だけが働いているのか。
むさくるしい顔つきの男がバケツに盛られたコカコーラの瓶を10本ほど持ってやってきた。懐かしいスプライトやファンタのボトルも混じっていた。バケツに水を張って冷やしているだけなので、ギンギンに冷えている訳ではない。それでも、喉が渇いているので生ぬるいファンタが美味しかった。一気に2本も飲み干す。
「オール・インクルード」の契約を思い出してそのまま立ち去ろうとすると制止された。1本500CFAだと言う。「えっ、インクルードじゃないの?」と問うと当然のように「ノット・インクルード」と返される。まあ飲んでしまったものは仕方ない。2本で1000CFAを支払う。
<ジギボンボ村にて、南伊アルベロベッロ(2010.5)>
(2)世界遺産・バンディアガラの断崖
更に真っ直ぐに歩いていくと崖地に出た。崖下には遠くの方にサバンナ地帯の緑が広がっていた。標高差500mの崖を降りていく。断崖を降り切った所にドゴンの集落があった。カニコンボ村だ。ジキボンボ村より大きい。
ドリンク休憩してまたトレッキングを続けていく。村はずれには林と呼べるほどではないけど木も生えていた。小さな川も流れていた。水はけが悪いのか、トレッキング・ルートに大きな水溜まりがいくつもあった。ガイドのボビーや村人たちは、みんな裾をまくり上げて、ズボズボとお構いなく水溜まりに浸かりながら進んでいた。ただ、アフリカの澱んだ水にはなんとか吸血虫が潜んでいるので、できる事なら足を濡らしたくない。窪みに木を渡してあればいいのだが、已む無くジャンプして越えていく。何度も飛び越えていく内に体勢を崩して、肋骨(その周囲の軟骨かも)を損傷した。なので、歩くのにちょっと胸元に痛みが出てきた。ただでさえアフリカン・ネイティブとひ弱な日本人では歩く速度も違うのに、そんな事をしているとついつい遅れがちで、ボビーに離されてしまう。彼は意外と淡泊なガイドだった。
(3)テリー村のオゴンにご挨拶
夕方、ようやくこの日寝泊りするテリー村に到着した。村は崖にへばりつくように泥壁の家が立ち並んでいた。その数100戸くらいあっただろう。泥壁の家は民家もあれば、穀物を保管しておく倉庫もある。中は4つに仕切られていて、上から収穫した穀物を貯蔵しておくのだ。
ボビーに「オゴン(村の酋長)に挨拶に行こう」と促された。断崖に沿って登っていくと、崖に皺くちゃの老人が杖を持って座り込んでいた。
ボビーがオゴンに私を紹介して、持参したコーラナッツの実を渡すと、オゴンは笑顔で迎えてくれた。コーラナッツの実はクルミのように固かった。何が貴重なのかサッパリ判らなかったけど、まあいい。「一緒に写真を撮りたい」と頼んだが「撮りたければ子供の写真を撮ればいい」と却下されてしまった。宗教的な意味合いを理解できていないだけに身勝手な言い分に聞こえてしまうのだが、オゴンにどんな宗教的なパワーがあるのだろうか。
この日はテリー村の民家に泊めてもらった。晩飯はボビーが作ってくれるのかと思いきや、そのお宅の奥さんが用意してくれた。チュニジア料理のクスクスだった。あのパサパサ感は好きじゃない。ビールを飲みたかったけど、「ドゴン村のトレッキング中に冷蔵庫もビールもない。我慢しろ」とアッサリ退けられてしまう。
で、驚いたのがベッドだ。なんと、広い中庭に木の枝で編んだベッドが3~4つ並んでいてそこで寝るのだ。堅いベッドの上に寝袋を敷いて包まって寝る。背中がゴツゴツ当たって気になるが、夜空を見上げれば満天の星。マリは夜でもそんなに寒くなく、気持ちよく眠りに就いた。
星を仰ぎ見て眠るなんてなんという贅沢か。夜中にトイレに起きると、狼の遠吠えが聞こえた。ワイルドだ。でも、日本のクマ騒ぎのように恐ろしいトラブルはないんだろうか。ワイルドに耐性のない日本人は遠吠えを聞くとリアルに怖くなった。サヘル地帯とサバンナ地帯の境目辺りだから、もしかして他にも野生生物が棲んでいるだろう。獣との距離がこんなに近い旅の夜は初めてだった。
7.ドゴン村トレッキング・2日目
(鉄板を敷いた青空トイレ)
(1)テリー村の朝にもよおす
翌朝、ドゴン族の女性たちが10ほど集まっていた。杵を振り上げてミレットを餅状に搗いている。「写真を撮ってもいいぞ」と言ってくれたので、素直に撮らせてもらう。すかさず「おカネちょうだい」と人を喰ったような笑顔で言ってくる根性は大したものだ。
食べ物の視覚刺激が強烈だったためか、そんなやりとりをしていたら便意を催してきた。はてトイレはどこか。衛生的なのか気になるし我慢できるものなら我慢したかったけど、そうもいかない。もしや朝食のバケットに蟻が何匹も纏わりついていたのがいけなかったのか。
村人に促されて村ハズレに行くと、なんとドアがない、天井もない青空トイレだった。高さ2メートルくらいの泥壁で囲まれている広さ8~10畳くらいの空間だった。その下に大きく穴が掘られているのだろう。大きな鉄板が被せてあり、その真ん中に10~15センチ四方の穴が開いていた。要するにそこを目掛けてボットンするって事。
日本の田舎でボットントイレを使った事あるけど、一応そこには白い便器が付いていた。それと比べたらとっても開放的。ドアが無いので、後ろから覗かれてしまう不安で逆に緊張してしまう。
それにしても水も紙もないトイレで、彼らはどうやって自分の尻を拭いているのだろうか。慣れない日本人としてはトイレットペーパーを持参していて助かった。
(2)ミレットの穀倉、ミレットのビール
バンディアガラの断崖の上は赤茶けた大地だった。何もない無機的な土地でちょっと退屈した。
でも、その断崖を下りていくと緑が広がっていた。朝顔が咲いており、大きなキンコウリの実も見つけた。ピーナッツが地面の下で育つ事も西アフリカのトレッキングで初めて知った。バオバブの木もマリの大地に屹立していた。ただ、マダガスカルの写真で見るような、根っこと枝が180°そっくり返ってストンと太い幹が直立している重厚感はなく、そう云われなければ分からない程度のありふれた大木だった。
この土地で主に栽培されている穀類はミレットだった。日本にモコモコしたエノコログサが生えているけど、あれの背丈をもっと高くしたもの。2メートル近くあり、ミレットが茂っている所だと、歩いていても前をゆくボビーの姿が埋まってしまいかねない。ドゴン族の人達にとって、このミレットが主食になると言う。
であれば、ドゴンの村人が食べている主食を食べてみたい。ちょうど杵で穀類(ミレット)を搗き終わって食事しているのを見掛けた時、ボビーに頼んでみた。
そのモノは餅のように見えた。餅なら食べたい。一口もらった。右手の人差し指と中指を餅もどきに突っ込んでヒュイと引っ張ってくる。それにソースを付けて食べるのだ。見よう見真似でやってみた。1つ目のオクラソースは辛いし、その穀類がつきたての餅と同じように熱い。もう1つのソースも試してみたけど、そちらも辛くて甘党の私の口には合わなかった。
ミレットは飲み物でもある。ミレットで作ったビールやジュースも呑ませて貰った。こちらは淡泊な味わいだった。注ぎ口が細いポトリから、カリバス(ボール状の器)に飲み物を注いでくれた。カリバスになみなみと注げば大ジョッキ1杯分の酒量になっただろう。まずは試飲タイムとして底の方に少し分けてもらったのだ。ポトリもカリバスも植物の実を乾燥させたもの。
ただ、トレッキングも2日目になって断崖の下の平地を歩いていくと、かなり疲れてきた。砂が混ざっているためだ。マリ北部にサハラ砂漠が広がっており、北からバンディアガラの断崖まで砂が飛ばされてくると言う。それが冬に吹くハーマッタン(西アフリカで吹く貿易風)なのだ。日本で吹いている偏西風とはちょうど逆方向で、緯度の高い方から赤道に向けて吹いている。なので、砂が堆積してきた痩せた土地でも育つミレットは貴重な植物なのだ。他の季節にはジャガイモやトマトを育てていると教えてもらった。
トレッキング初日に、ガイドのボビーが「ポーターを頼もう」と提案してきた。歩き始めてすぐだったので、えっ! またカネを巻き揚げるつもりか? と疑ってしまった。確かにあの断崖を下りていくのは一苦労だった。2日目も長いこと歩いたし、砂を咬んで歩くのは体力を消耗するのでやはり頼んでよかったのだ。ポーターは中学生くらいの少年ながら、体力的に勝っていた。
<朝から勢いよく杵を振るう、ダンスメンバーと記念撮影>
(3)ドゴン族のダンス
元々は3日目にベニマト村で見る予定だったドゴンの踊りが、どういう理由かこの日の午後エンデ村にリスケされた。アミニズムの世界に興味津々。本来ならばミレット収穫に伴う宴なのか10月頃にこのダンスを舞うとの事。
太鼓を叩く男、ドゴンの仮面を被って踊る男達、総勢12名くらいだった。仮面は2種類あった。木を切り出して王の字に組んだものと、黒い布で覆って小さな貝をあしらったもの。東洋人たった1人のためにダンスを披露してくれたのはありがたい。時間にして約30分だった。が、正直に言うとアニミズムの神聖さやドゴン族伝統の重みなどが伝わってきたかと言えば微妙だった。感性が鈍いので、どうしても子供の踊りとしか感じられない自分がいた。
西アフリカの旅のあと数年してからTBS「世界ウルルン滞在記」でブルキナファソの原住民のダンスを見た。あれは良かった、素晴らしい! 仮面を被った男が1~2メートルもの高さがある竹馬を履いて、激しく踊っていた。あの迫力が欲しかったなあ。
では、私が見たドゴン・ダンスには何が違ったのだろう。理由は少なくとも3つ考えた方が公平だ。自分と状況と相手そのものだ。最初に断っておくと、私は音楽に無関心なのであのリズムに乗り切れなかった点を割り引く必要がある。とにかく暑い日だったし、昼時にあんな重たい仮面を被って動き回るには相応しくなかった。
3日間のトレッキングで他の観光客には全く出会っていないし、決して頻繁に披露している訳でもなさそう。ただ、彼らにしてもカネと引き換えでツーリストに踊りを見せる事、その商品性にやりきれない思いがあったのかも知れない。ガイドのボビーと村人がそんなに親しそうでなかったし、言語も違うのだろう。しかもボビーはムスリムで、アミニズムのドゴンにどこまで理解があったか疑わしい。
そんな訳で先進国の舞踊家が持つどんな場でもプロとして最高のパフォーマンスを披露しようとする意識を、彼らがサラサラ持ちえなかったとしても仕方ない。
(4)絞めたてフレッシュ・ミートソース
午後はまた次の村まで歩き、既に陽が落ちてからヤタバル村に到着した。村では鶏とヒヨコが出迎えてくれた。
初日の夕食はトマト味のクスクス(小麦粉を蒸したチュニジアの粉っぽいパサついた料理)だった。はて今夜は何を食べられるんだろうか。旅にとって食べ物は大事な要素であり、勝手に期待を膨らませていた。
ほどなく、骨付きチキンのトマトソース・スパゲッティが運ばれてきた。かなり塩味が利いている。もうちょっとサッパリした味が好みなので、みずみずしいキュウリの輪切りが添えられているのが嬉しかった。
挽肉じゃなくて骨付き肉が出てくるのがいかにもアフリカらしい。半ば感動していたら、ボビーが「この家の鶏をさっき絞めたばかりだからフレッシュなミートソースだぞ」と教えてくれる。えっ、自分たち外国人が来たせいで鶏が一羽絞められたのか。地産地消と云えばその通りだが、生きるためのリアルな世界がそこにあった。
日本では食肉工場で解体された肉をスーパーでトレイに載せられたパーツとして買うだけなので、その動物がどんな鳴き声をしていたとか、どんな目付きで人間を睨んでいたのかなんて全く想像する隙もない。分業化された世界は断片的で実に不連続だ。自分はそのどこか1つのプロセスに関わっているだけで、隠れた部分は全く判らないままだ。中国で福建省・永定の客家の土楼に泊めてもらった時にも、元旦の朝からホームステイ先のおばさんとお姉さんが、木桶に貯めたお湯の中で絞めたばかりの鳥の羽根をごく普通にむしっていた。
確かに日本で暮らしていては見えないプロセスも、西アフリカや中国の奥地ではみんな当たり前にこなしている。それはきっと1000年前も今も変わらない姿なのだ。プリミティブだけど、決して忘れてはいけない食の1プロセスだと思う。
さて、この日も小枝で編んだベッドに寝た。洞窟のように、半分くらい岩が覆いかぶさるような天然の要塞だった。ベッドの周辺にピヨピヨと数羽のヒヨコがたむろしており、親鶏もいた。彼らも食用として飼われている自分の運命なんて知る由もなく、無邪気に啼いていた。
その夜、なかなか寝付けなかった。と言うのも、遠くでドラムの音が聞こえたのだ。もしかしてこの村の広場で祭りの練習でもしているのか、それとも相撲でも取っていてそれを盛り上げるリズムを奏でていたのか。覗いてみたい衝動もあれど、この闇夜に歩くのも覚束ない。あれこれとそんな想像しているうちに眠りに落ちた。
泥壁の家、小枝で編んだベッド、臼と杵で穀物を練っていく姿、こうした姿に接したのはこの後の旅を辿ってもパプアニューギニアくらいだ。その他の風景は殆ど1000年前と変わっていないんじゃないか。いや縄文時代と変わっていないだろう。そんなドゴンの村々を旅させてもらっている。生きた化石であり、それだけでも奇跡であり、感謝なのだ。
<断崖スレスレに穀物倉庫、下を見下ろすと豊かな緑>
8.ドゴン村トレッキング・3日目
(星を眺めた頃、モスクを造る今)
(1)ドゴンの村で小さなモスクを発見
トレッキングしている中で、泥モスクと似た小さな構築物を見掛けた。ただ、それはヒトが中に入れる建物ではなく、モプティで見掛けたモスクの天井より上の部分だけを地べたに据え付けたような代物だった。
まさか、アミニズムのドゴン族がムスリムに改宗したのか。そもそも彼らはイスラム教への改宗を拒んでバンディアガラの断崖に移住してきたのではないか。
ドゴンの村々を歩いていた3日間はあまりの暑さでそんな不自然さをに気が付かなかったのだが、やっぱりオカシイ。調べてみるとこんな記述を見つけた。
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観光客がやってくるようになると、その観光収入をもとに、観光客を意識した、派手なモスクを作るようになった。……(中略)……南方のドゴン族は急速にイスラーム化し、どこの村にもモスクがある。
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※出典:神谷武夫「西アフリカのイスラーム建築」
http://kamit.jp/27_mali/mali.htm
観光収入をアテにして先祖代々の信仰を捨ててしまったのか。そう考えるとドゴン族もなかなか現金なものだ。経済的な豊かさは信仰心に勝るって事なのか、恐るべし。度重なるツーリストの訪問がその理由だとすれば、グローバル化の影響がそれを促してしまったと云うべき。そうなると、エンデ村で見たドゴン族のダンスはアミニズムを信仰していたかつてのような宗教的な輝きを失っていたのかも知れない。
(2)シギの祭りは60年ごと
ドゴン族の祭りはいろいろある。中でもシギの祭りは60年に1度行われる。エンデ村でダンスを見た身としては次の節目の年を待ってマリ共和国を再訪するほどの意欲は湧かない。
ただ、60年周期である事に関心を持った。日本や中国なら十干干支が60年で一周して還暦を迎えるからスンナリ納得できる。でも、西アフリカの奥地までわざわざ華僑が出ばっていた時代でもあるまいに、何故60という区切りが共通しているんだろうか。
数学好きとしてはきっと宇宙とか天体の動きにヒントがあるんだろうと考えた。古代のプリミティブな人達にとって観察対象となるものと言えば、大地か動植物か、空を仰ぎ見るくらいしかなかったはずだ。天体の動きは数学上の発見にも繋がっており、何らかの関係が潜んでいるはずだ。長沼伸一郎「物理数学の直感的方法」を読んでいると三体問題を盛んに論じており、確かケプラーの名前が出てきていた。
モヤモヤしながら、ネット検索を繰り返してみる。おそらくコレだ! って答えに辿り着いたのがこうだ。
最も尊い星と考えられていた木星(-2.9等級)の公転周期が約12年、土星(-0.4等級)が30年とか。2つの惑星が出会うのがまさに60年周期だった。
そもそも中国の干支は天球における木星の位置を12のエリアに分けてそれぞれ名付けたものだった。星座の起源も紀元前3000年のメソポタミア文明に遡り、そこから西方のギリシャに伝来したとか。であれば、古代から同じような暮らしを続けてきたドゴン族がじっくり空を観察して同じような結論を得ていたとしてもおかしくない。
これでようやく漠たる60年周期に納得したのだった。
<ガイドのボビーは逞しい、ドゴンの低いモスク>
(3)ベニマト村で川遊び
トレッキング最後となるベニマト村はバンディアガラの断崖を登り返していく途中にあった。この村では岩の破片を家作りに使っていた。断崖の途中に位置するので、材料には全く困らないのだ。家の囲いが岩の破片で積み上げられていた。屋根の形は断崖の下にあった村々と同じ。どこかにマッシュルームハウス(ブルキナファッソの写真で見た事あり)を見つけたいと思ったけど、それはここでも叶わず。
そこで子供達と仲良くなり川で遊んだ。これはとっても楽しかった。ベニマト村まで断崖を登ってきたのに、川までちょっと下って行った。最初は子供1人と歩いていたのに、気が付くと5人に増えている。彼らは逞しい。2~3メートルの高さからポンポンと飛び込んではしゃいでいる。1人が石を投げ入れて、他の4人が潜って石を拾ってくるとか、赤ちゃんにも泥を塗りたくって笑っているとか。私も泳いだけど、前日に水溜まりを跳び越す時に肋骨にヒビが入ったようで、クロールで水を掻こうとすると胸が痛む。彼らと軽く水かけっこして、トレッキングの疲れを癒せた。
Tシャツは自分達で買ったものではなく、貰ったモノが多い印象だ。ツーリストが服や短パンなど衣類を置いていってくれるので、彼らはそうした古着を着ている。私も着ている服をねだられた。服が破れている人も、パンツを穿いているので前こそ隠れているが、尻が丸見えの子供もいた。
前日までの村々では一部のオバちゃん達が上半身ハダカで暮らしていたけど、流石に若い女性は着衣姿だった。でも、ベニマト村の胸が大きい若い女性は、ボロボロに破れたTシャツを着ていたのでオッパイがモロ出しになっていた。こっちは興味半分、目のやり場に困ったのが半分ながら、向こうはお構いなし。プリミティブな暮らしって凄いと思うし、恥の感情って生態的なものではないって事だ。
(4)3日振りのビールはウマい
ベニマト村から断崖を登り切ったところで、2泊3日のドゴン村トレッキングが終了。
モプティに戻ると、村の中心部に白くて高い貯水槽が見えた。ドゴン族の村には決してなかった現代の構造物を見つけて、確かにここはモプティだ、戻ってきたんだと確認できて安心した。
シギ・レストランでお待ちかねのビールを煽る。2晩も禁酒していたので、カステロール・ビールが旨い。ヘロヘロに酔った。酔って店を出れば街は真っ暗。電灯なんてないし、酔ってライトが何処にあるか判らない。フラフラ歩いていたら、突然足が宙に浮いた。と思ったら、ズボッとドブに嵌った。もう酔いが回っていたので、汚いなんて意識もあんまりなかった。
ドゴンツアーの翌朝、ガイドをしてくれたボビーがホテルに現れた。モプティの街を案内してくれた。それはありがたい。モプティの街はU字を描いてバニ川が流れており、川が大きくカーブを描いていた反対側に行ってみる。ガイド氏が案内してくれたのはコミッションが目的だったけど。まあそれは構わない。
土産としてアフリカ柄の濃いベージュ色のビーチサンダル、木製の仮面、カラフルな西アフリカの民族衣装(男性ものワンピース)を買った。TBS「ここが変だよ日本人」でベナン人のゾマホンが着ていたような派手なものだ。これは結局、実家の押入れにしまったまま一度も着ていないな。
夕方、ボビーに川べりのバス乗り場まで送ってもらい、バマコ行きのバスに乗る。これでこの旅は任務完了、そんな充実感に包まれていた。
<ヤタバル村の子供たちと、ベニマト村で水遊びした子供たち>
9.これがアフリカン・システム
(1)国内線のフライトが飛ばない
この旅では「アフリカン・システム」って言葉を何度も聞かされた。要するに、先進国やアジア諸国と違って、何でも思い通りに進む訳ではないって事だ。
バスの出発予定時刻があってないようなのも同じ。東アフリカのポレポレ(ゆっくりゆっくり)じゃないけど、どうせ着くんだからに別に構わないヨって言われているみたいだった。でもまあ、そういうのは許容範囲だ。でも、国内線の飛行機が飛ばないのは困るのだ。そもそもサラリーマンが僅かな日数で旅しているので休暇明けに会社に戻っていないのは流石に不味い。なので、ここだけは出発前に調べておいたのだ。HISに行って、あの電話帳より厚いOAG(Official Airline Guide:航空機時刻表)を見せてもらって、マリ国内線の時刻表をチェックした。バマコ―モプティ間は週に2~3本のフライトだった。
長距離バスの雰囲気も掴みたかったので、ゆきはバス、帰りは飛行機のつもりでいた。で、モプティに着いてすぐホテルカンプマンで予約した。このホテルにエールマリ(マリ航空)のオフィスがあるけど、オンラインシステムなんてない。罫線の入った搭乗者メモに名前を書き加えてくれただけだ。これでホントにブッキングできたのか甚だ怪しいけど、エールマリの看板を掲げているので信用するしかない。安心してドゴン村トレッキングに出掛けた。
で、戻ってみると「予定日のフライトはない」と言う。機体故障かオイル切れどっちだろう。OAG(電話帳サイズの航空機時刻表)通りに飛行機が飛ばないのは痛い。完全に予定が狂ってしまう。でも、ホテルのスタッフは「これがアフリカン・システムだ」と笑うのだった。確かに地団駄を踏んでもイラつくだけなので、笑ってやり過ごすしかない。また、あの長距離バスに乗るしかないのか……。
まあこの辺りは思いようだ。インドの国内線に搭乗した時、とにかく尋常じゃないくらいに機体が激しく揺れる。そのうちパカーンと空中分解するんじゃないかと思った事がある。この思いはインド人乗客も同じだったようで、無事に着陸すると機内で歓声が上がり拍手で盛り上がった。インド人も「この飛行機はホントに安全なのか怪しい」と思っていたんだろう。況してや、西アフリカの国内線はもっとリスキー。だから、長距離バスで良かったと納得する事にした。
(2)アフリカ旅のこづかい帳
タイでもインドでもアジア諸国を旅していると物価が安いのは当たり前。その感覚に馴れているとアフリカ旅で足元をすくわれる。ブラック・アフリカの旅は高くつくのだ。
まず、ヨーロッパ経由の航空券で値段が嵩むのが痛い。ホテル代、トレッキング代、食費、交通費に関して旅のこづかい帳から抜粋して別表のようにまとめてみた。
ホテル代はまあ妥当だったんじゃないか。こうして食べたモノと金額を見比べると食費は釣り合っているように思えるが、実のところボリュームは総じて少量だった。どうしてもカステロール・ビールで腹を満たしていた記憶が強いのだ。
トレッキング代(ダンス代を含む)が突出して高額なのはこちらの交渉力の欠如が理由だ。もっとしつこくディスカウントを粘れば良かったんだろう。今となってみればそんなケチくさい考えが浮かんでくる。冷静に価格の妥当性を吟味して値切る気もなかった。が、馴れないアフリカ旅においては安全第一だったので、あまり細かな事に拘る気もなかった。なので甘いと云われれば否定できないな。
市内バスが17円、隣町まで26円、10時間以上も乗車した長距離バスの1020円は、許容範囲じゃないか。それと比較するとタクシーは思いっきりボッタクられている。日本国内で同じ距離であればバス料金の6~7倍がタクシー料金になっているので、この表を冷静に見てみると自分のマヌケぶりが笑えてくる。
短期旅行者がリアルな物価水準を知るのは難しい。生活者でも普通に買うジュースとか水で比べるのが一番間違いないだろう。ボッタクる店もあるけど、英語もフランス語を話さない商店主はボッてくる事もない。なので、正直な価格が判り易いのだ。
この国ではボトル入りのファンタがメジャーな飲み物だった。最も安かったのが175CFA(30円)だった。もう日本国内ではファンタのボトルなんて見かけない。日本と比べて当時のマリはザックリ1/3くらいの物価水準だった。
こちらが一瞬で固まってしまったのが真剣な表情で寄付を求められた時だった。ドゴン・トレッキングで最初に訪れたジギボンボ村で、こちらが休憩していると老人がおもむろに贈答用の四角いクッキー缶を持ち出してきたのだ。
英語で書かれた説明書を見せて「これからここに舗装道路を作るんだ。少し援助してくれ」と訴えてくる。缶を開けると確かに寄付金がそこそこ入っている。正確に書けば道路建設するには桁違いに僅かな金額だったけど。
そもそも共感していないと寄付するって具体的な行為に結びつかない。私が初めて寄付したのはTBS「世界ウルルン滞在記」で東ちづるがドイツのボランテフィア施設を何回も訪問していたのを見た時だった。他に、海外の地震被災者の状況を映像で見た時には寄付するようにしている。特に自分が旅した四川省やネパールは心が痛んだ。
道路は国に頼めば、って思ったのが正直な所。通りがかりの旅人にすがるのは違うんじゃないの。でも、そんな思いは顔に出せない。
老人は真剣な表情で訴え続けてくる。でも、そもそもこの寄付って仕組みを彼らはどうやって覚えたんだろうか。どうみても欧米社会から取り入れた集金システムだ。
マリの人々が豊かでないのは分かる。けど、自分達の村が泥で固めた家ばかりなのにわざわざ舗装道路を整備する必要があるんだろうか。旅人としても土の道を歩くからこそバンディアガラ断崖のトレッキングに惹かれる。それが、断崖の突端までツルツルの舗装道路が続いていたら興ざめなんだけどな。
話が長くなっても厄介なので、1000CFA札を1枚(約170円)をカンパした。モプティでファンタを買って「座って飲め」と促されて座って飲んだら追加料金を請求された。あれも堂々と「アフリカン・システムだ」って云われた。
君たち先進国の原理だけで地球上の原理が成り立っているわけじゃないんだよ、そんな風に聞こえた。もしかしなくても、持てる者がエクストラで払えばいいって気配がアフリカンって言葉に厳然と漂っていたのかも知れないな。
<旅のこづかい帳>
(3)モノを貰う体質
バクシーシ(喜捨)攻撃はインドで懲りている。「こんにちは、バクシーシ頂戴」と軽く言ってくる。マリでも当たり前のようにバクシーシを要求された。日本人はお金持っているでしょ、だったら施すのが当然でしょ、でいくらくれるの、って自信を持ってこちらに迫ってくる。
国によって深刻な目で訴えてくるケースもあったけど、マリのバクシーシの訴えは緩い。とにかくウルサイだけだ。必死さは感じなかったのでどうやら金額の多寡は大して関係ないな、コイン1つでも貰えれば挨拶が成立するし、貰えなくても逞しい彼らはきっと生きていけると思う。
ドゴン族の村でも、ちょっと依存体質が強いのは気になった。ガイドがドゴンの村々にボンボン飴を配っていた。まあ、それで円滑にコミュニケーションできるようになるなら構わない。私が持参したライトにも興味津々の様子だった。私がまだ登山に目覚める前だったのでヘッドライトではなく、卵型のライトでパカッと開けると灯りが点いて、閉めると消えるタイプで当時としては珍しかった。
トレッキングの最終日、ベニマト村でちょっとした問題が発生した。英語のガイドブック「ロンリープラネット」に載っている自分達の写真を見せるつもりで、何気なく村の子供に手渡した。ところが、彼は意に反してそれを貰えるものだと勘違いして家に持って帰ってしまった。ガイドに事情を話して取り戻して貰ったけど、誤解を解くのが大変だった。これも文化の差なのか、それとも何でも貰って当然の感覚が染み付いてしまっているのか。自分のモノは自分のモノ、手に取ったモノも自分のモノでは困る。
トレッキング中にもう1つ困ったのは盛んに「薬をくれ」と要求された事だ。ドゴン族の老人が必死な表情で訴えてくるのがどこまでホントなのか区別できない。バクシーシなら少し渡して終わりにできるけど、薬は症状や体質によって合う/合わないがある。しかも、彼らはあまり薬に頼った生活はしていないだろうから、刺激の強い薬で思わぬ副作用に苦しんでも困る。そうなるとマイルドな薬効のものしか渡せない。
で、総合感冒薬のPLなら昔から販売されていて枯れている(=効果もマイルドで副作用も少ない)と考えて、2~3袋を渡してその場を凌いだ。これがドゴン族に対して正しい対応だったのか疑問だ。
(4)マリ人のアイデンティティ
CFAは西アフリカの旧フランス植民地諸国で共通で使われている通貨単位だ。マリのCFAフラン札のデザインはなかなかユニークだ。どう見てもその国の歴史を彩った偉人が載っている風には見えない。5000CFA札の裏面はカラフルな衣装を纏ったアフリカ女性がマルシェで買い物している構図で、実に華やかだ。1000CFAの紙幣にも頭上に大きな籠を乗せた女性が描かれている。トラクターや工場の図柄が混じっているけどそういうのを取っ払ってしまえば、1000〜2000年前に使われていたお札だと言い張っても許されるんじゃないか。
この紙幣にこじつける訳ではないが、マリ人にどれだけの国民としてのアイデンティティがあるのだろうか疑問に思った。通貨は近隣の旧フランス領の国々と同じだし、北側の国境線が綺麗な直線で引かれているのも、英仏など欧州各国の都合であって、彼らの意思ではないだろう。アフリカ以外の国だと「自分達はxx人だ」って言葉を当たり前に聞く。インドならインド人(インディアン)であり、ネパールなら自分達をネパリーと呼んでいた。中東でもカタールはカタリー、イエメンではイエメニアンと自信を持って名乗る。サハラ以北もモロッッカンやチュニジアンだ。
その代わりによく耳にしたのがザックリとした括りの「アフリカン」であり、極めて対照的な呼称だ。確かに国境線が自分達にとって意義を認められない以上は、自国意識は生まれにくいのかもしれないな。島国である日本に住んでいるのと異なり、民族主義や国家主義を意識するのは稀になる。
マリは国内で複数の民族・言語・宗教を抱えているので、個々の民族の違いはあっても国という抽象的な単位に拘泥する事なく、アフリカンって括りで自称するのが自然でいい。元々アフリカって言葉も古代ローマ人がカルタゴ(チュニジア)を植民地化した時に呼称したのが起源であり、自分達の事を敢えてそれ以上に分化する必要がなかったのだろう。いつかワールド・カップでアフリカ諸国が頻繁に上位を独占するようになると、競って国名を叫ぶようになっていくのかも知れない。
10.プリミティブな世界を考える
(1)かつてゴミ問題なんて存在しなかった
セバレやモプティなどの町、ドゴンの村々いずれにおいても建物は泥壁で作られている。日本でも昔の農家の納屋などは竹串を鉄筋かわりに骨組みを作って壁を塗り込んでいたので、概ね同じようなものだっただろう。ここでは日干しレンガを固めてその上に滑らかな泥の壁で仕上げている。
「中国には、あのようなビルみたいな塔が似合いますね。韓国には石の塔が多いし、日本では木造の塔を置くのが、どうも相応しいように思います。……(中略)……中国では、レンガで作ったせん塔ばかりで、石の塔はほとんどない。」
(「西城をゆく」井上靖・司馬遼太郎より引用)
東アジア地域でも国によってメジャーな建築素材は異なっている。石造りが目立つヨーロッパでもグリンデルワルトやブリエンツなどスイスの田舎を歩いてみると、まだまだ木造の2階建て家屋が残っている。泥作りだから貧しいとも言えまい。世界中の建物の40%程度は今でも土とか泥で建てられていると言う。気候風土に合わせてその土地で豊富な資源を使ったからこそ、泥壁になっただけの事だ。
最近、「人新世」ってワードを目にするようになった。3つとも簡単な漢字だけど、見慣れない組み合わせだ。石灰石を採掘して造ったコンクリート製の構造物も、原油を精製して道路を覆ったアスファルト、どっちも人間が地球上に作ってしまい、土に還らないものだ。
石灰石や原油を掘り尽くしていつかエネルギー危機が来るのとは別に、際限ない開発行為には漠然とした危機感がある。自分の周辺はどんなに綺麗でも、壊した建物はどこかに移動してしまうだけ。それをどこかに見えない辺境の地に埋め立てたところで、いつか限界に達して溢れてしまう。
それが長崎県の軍艦島(端島)のような無機物になるとどうしようもない。子供の頃そこに家族で暮らしていた方であれば郷愁を感じるが、第三者的に見ればそれはコンクリートの塊、廃墟でしかない。あの島も100年もすれば風に飛ばされてきた土が表面に積もって、そこに植物が生えてくるんだろうか。
翻ってマリの村を思い出すと、コンクリート造りの建物は僅かにあるくらいで殆どが泥壁だ。泥で固めた住居はヒトが住まなくなったら朽ちて土に還るだけなので、ゴミが出ない。
もし立て直したいなら、何度でも同じ土を使って練り直せばいい。日干しレンガをもう作り直す手間が要るくらいで済みそうだ。なにより無駄なゴミが生まれない。
なんだ、マリの方が先進国よりよほど持続可能性があるじゃないか。
それは建物に限った事ではなく、マリにはいやきっとブラック・アフリカ全般でゴミを捨てる習慣はない。そこらに散乱したままなのだ。なので、キットカットの紙屑もシャンプーの袋も10年後にもそこにそのまま残っているのではないか。街にはウラと表がある。ウラは散らかしてそのまま放置状態だったりして、ひどい所だと表もお構いなしって気もするのだ。
まあ、これは直近で訪問した北アフリカのアラブ社会でも同様だった。モロッコでもゴミがバサバサ捨てられたままになっている汚い光景を、カサブランカ空港からカサブランカ市内に向かう電車の車窓で延々と見た事がある。街の表側からは見えないんだろうけど、線路の脇なら裏側なので街から隠れているしどーでもいいって事なのか。日本も1964年の東京オリンピックを機にゴミ掃除の習慣が広がったので、あまり大きな事は言えない。
菓子や石けんの包装紙が紙じゃないから燃えないし、いつまでも散らかったままになっていた。誰が片付ける訳でもない。まあ、営々と原始的な暮らしをしていた頃には落ち葉と紙、野菜や果物の皮など生ゴミくらいしかなかったので、掘って埋めておけば自然と土に還っていったので、邪魔なゴミがいつまでも残るなんてなかったんじゃないか。彼らもゴミをそこにそのまま放置している事に何の疑問も持っていなかったけど、案外それで清潔だったんじゃないか。
日本や欧米先進国が、プラスチック製品やビニール袋をバンバン作っては流通させていき、鉄の塊やコンクリートジャングルで都市を作っては50~100年後に再開発を始める。そんな事ばかりしているから処分に困るゴミで埋め尽くされていく。これこそ地球の姿を変えてしまった人新世だ。
パソコンやスマホも壊れてしまえばそんな類だ。都会の汚部屋なんてのも、ドアにカギを掛けられるようにしたから安心して汚しっぱなしにしているだけかも。いくらリサイクルとか言ってみた所で、どう見ても先進国の方が環境に優しくない。ゴミに対する人間古来の感覚は「放置」で問題なかったのだろう。近年のSDGs(持続可能な社会を目指す運動)は、先進国が開発を進める中で巻き散らかした問題が発端だと思うのだ。
(2)プリミティブに対する欲求
昔からプリミティブ(原始的)って言葉にほのかな憧れがある。この言葉を初めて知ったのは文学部の授業だった。元々それは、便利を追求すれば際限ない東京暮らしに対するアンチテーゼとして意識したものだ。サラリーマン生活を続けながらも何度か「自由人」と評された事があったので、自由とプリミティブに同じ匂いを感じ取っていたのかも知れない。
私はIT企業のSE(システム・エンジニア)として働いていた。ある時、システム・トラブルが発生して顧客から「君たちこんなプリミティブ(基本的)な事も満足にできないの!」と責められた。ミスしたのだから叱責されるのは仕方ない。でもそんな事より、私にとってはプリミティブ以下って言葉が堪えた。
オール電化が浸透してきた今の日本で、直火を見るのは山小屋の薪ストーブで暖を取っている時くらいなもの。水道も電気もない生活は考えられない。プリミティブな世界で暮らしていれば体調が悪くなっても化学合成された薬に頼る事なく、薬草を煎じて飲んだらあとは祈祷して自然治癒を待つくらいしか術がない。
フィリピンの田舎エルニドを旅した事がある。カヤックで遊んで街に戻ってきた所で、ギンギンに冷えたビールを呑みたい。雑貨屋の店員さんがニヤッと笑いながら生ぬるい缶ビールを手渡してきた。聞けば、夕方までずっと停電していたので冷たいビールはウチの店には無いと云うのだ。電力事情が逼迫しているのは分かっても、日常的に満たされている環境に慣れ切った日本人としては条件をちょっと欠いただけで機嫌を損ねてしまう。困ったものだ。
日テレのドラマ「すいか」(2003年、脚本は木皿泉)では、ハピネス三茶(主人公の下宿先)の庭先に流れている小川でスイカを沈めて冷やしているシーンが何度も映っていた。ハピネス三茶は大人女子の賄い付き下宿。およそあり得ない設定ながら、緑豊かな中に小川が流れている様子が懐かしいものだった。現代の世田谷区三軒茶屋とは似ても似つかない絵だったので、今でも頭に染みついている。
北アルプスの山小屋でも似たようなことはある。わざわざ冷蔵庫を使わなくても、大木をくり抜いた窪みに冷水を溜めて缶ビールやトマト、きゅうりを冷やしてくれている。別に冷蔵庫が唯一の方法じゃないんだよな。
なるべく自然に則して暮らせた方がスマートであり、それはきっとプリミティブな生き方と同じものだ。そうした生き方ができるって逞しい。このワードはアフリカにもズバリ当てはまると思っていた。
私が西アフリカを旅行したのは本当だけど、それはいろいろなグッズに助けられてようやく実現した旅でもあった。
安全のため: 日本人って属性、パスポート、現金
ドゴン村へ: ガイド同行(必須ルールだった)
健康のため: ミネラル・ウオーター、合成抗菌薬クラビット
食べるため: ミートソースパスタやクスクスなど外人が食べられるモノ、フォーク
話すため: 英語、フランス語
眠るため: 寝袋
歩くため: 懐中電灯
濡れないため: 傘、ポンチョ
マラリア対策: 蚊取り線香、蚊帳、キンチョール
おそらくどれ1つ欠けても安心安全で衛生的な旅にならなかった。とりわけドゴン村トレッキングにおいて、現地でドゴンの人達が使っていた当たり前のツールと言えば蚊帳くらいのものだろう。
それにこれだけ背負い込んでいたらとても「自由だ」と自慢できる状況でもない。プリミティブな世界を求めて旅していたのに、実はおよそ自由な姿と云えるモノではなかったのだ。
<長崎の軍艦島(2017.11)、小笠原父島の黒ヤギ(2018.10)>
(3)野生の姿は振り子のように
西アフリカの内陸国を旅する前に漠然と想像していた絵は、ジャングルの中でターザンと遭遇できるんじゃないか、あるいは奇抜な恰好をした裸族と対面するんじゃないかってモノだった。もちろんマリ共和国に熱帯雨林はないのでそんな想像が見当違いなのは分かっている。
いざ旅を終えてみると、そんな幼稚な妄想が他愛のないものだった事に気付かされた。ターザンや裸族に遭遇したら、そもそもどうやってコミュニケーションを交わせるのだろうか。
そんな甘い妄想に鉄槌を下してくれたのが、NHK「イゾラド」の衝撃的な映像だった。イゾラドは南米のアマゾン川流域に住んでいる原住民族に対して付けられた名前で、おそらく英語のisolated(孤立した)をスペイン語読みした言葉だろう。
ジャングルに潜んでいる原住民だからペルー政府(ブラジルだったかも)から派遣された役人や流域住民とは言語が異なり会話が通じない。しかも、ジャングルの開発業者がイゾラド達に不条理な仕打ちをしてきた恨みがあるので、彼らは村人に敵意を剥き出しにして一方的にバナナを要求してきた。
NHK記者が木彫りのボートでイゾラドの家族と接触を試みた場面では、一触即発の事件が起きてもおかしくないキリキリした緊迫感があった。あの映像がこちらに野生の凄みを持って迫ってきた時、確かにこれこそが自分が西アフリカに対して勝手に想像していた未開の民、異邦人の姿であり、とても自分にはそれと対峙できるような心の準備ができていなかったと胆を冷やした。最初から英語やフランス語を喋る人々は決してピュアにプリミティブな存在とは言い難いのだ。
もう1つ、最近TVを見ていて面白かったのがNHK「ヒューマニエンス」に出てきた自己家畜化って言葉だった。動物の肌は元来白くない。でも家畜として飼い馴らされる事で攻撃性が退化して人間にすり寄ってくるし、肌の色が白くなる。同様に人間も協同生活を営むために集団内では寛容な態度をとる(反応的攻撃性が和らぐ)ようになり、外敵に対してはむしろ能動的攻撃性を増すのだと言う。かつては民族や宗教が内と外の境界だった。今では領土で定義された国って括りが大きな境界線になっている。
確かに小笠原諸島の父島でハート・ロックまでトレッキングした時に、筋骨隆々で逞しい黒ヤギが崖地を登っていく姿を目撃した。ヤギと言えば白くてなで肩をしたメーメー啼く柔い姿しか知らなかったので、あまりに奇異に映った。小笠原のガイドさんの説明によると「第二次世界大戦前には小笠原でヤギの放牧をしていたが、戦後は飼い主だけ本土に戻ってしまい残されたヤギが野生化した」のだと言う。いったん家畜化された動物でも環境制約条件が外れれば野生に戻る事ができるのだ。
サハラ砂漠より南の国々で共通の特徴は肌の色が黒い事だ。これはこじつけだと笑われるかも知れないが、ガイドさんの話を聞いてスッと香港のエレベーターで乗り合わせた太った黒人の事を思い浮かべてしまった。彼らの圧倒的な体格とツヤツヤした黒い肌に静かなるプレッシャーを感じた。もしかしてあれが家畜化されていないヒトの凄みだったのか。
いざマリ共和国を旅してみると、香港で感じたのと同質の威圧感を殆ど受けなかった。この国のマルシェで会った女性は確かに立派な体格を誇りヨコ幅が逞しい。ガイド志望の男たちも栄養状態が悪いためかそれとも埃っぽい土地柄のためなのか、肌がツヤツヤした人は見掛けなかった。背丈も総じてそんなに高くなかった。これでは圧力も生まれない。
なので、警戒心を抱いていたのもバマコに着いた初日くらいだけ。肌の色が第一印象で威圧感を与えてきただけであって、その人の性格とは何ら関係ない。ただ肌の色が黒いだけで、手のひらは肌色に近い。
そして、プリミティブな生き方を続けているので何事にも素直に反応していて裏表のない人たちだった。エールフランスの機内でも長距離バスでも笑っていた。そう、日本人と同じヒトである事に何ら変わりない。そう思い直すと、落ち着いた気持ちで旅を続けられた。日本に戻って来て東京で困っていそうなアフリカ系の人を見掛けた時にスッと声掛けできるようになった。
そうか香港でニセモノ時計を売っていた黒人がむしろレアな存在だったんだな。彼らは香港という異国で独特の緊張感をもって暮らしていたからこそ、野生をまとっていたのだろう。私だって海外を笑顔で旅しているものの、表皮のウラでは警戒モードを怠らないようにしているな。
(4)ブリコロールとドゴンのハシゴ
レヴィ=ストロースの難解な概念に「野生の思考」がある。読んだ時は一瞬分かった気になるのだが、キチンと具体的なサンプルに紐付けて理解できていないとなかなか難しい概念だ。
これがドゴン族とどう繋がるのか。最初は人体と村内の配置に対応関係を持たせていると読んだので、これって「空間的な性質を持ち変換した後でも同型の関係を保つ」ブリコラージュ(Bricolage:ありあわせの道具を使って自分の手で表現する事)じゃないか。本によっては器用仕事や日曜大工と表現している。でも、それは自分の貧相な思考キャパシティでは上手く繋げる事ができないでいた。
旅の村々で、土産物を買わせようとドゴン族の倉庫の中を案内される。土埃を被った木彫りの品は文化人類学上の価値があるのか、ただのガラクタなのかコメントするのが難しいものばかり。1つ1つが重たくてかさばる土産物なので、わざわざ木製品を担いでトレッキングするのはハード。やっぱり断念するしかなかった。
その中で唯一気になったのは、木の幹に切込みを入れた木片だった。2mくらいあるものでそれを立て掛けておけば高い所に登れる、実用的なツールだ。最大のメリットは頑丈で壊れない事。現代で言えばハシゴなんだけど、彼らが木のハシゴを作るにはタテの木材とヨコの木材にホゾを作ってピッタリ嚙合わせる必要がある。一旦ハシゴを作っておけば、軽いのでどこにでも容易に持ち運びできて可用性がある。でも、そんな規則的に細かな工作をするにはそれなりのノミとかメジャー、鉛筆など道具が整っていないとムリだ。
そうか、ドゴン族の村にあった階段こそ「野生の思考」で言うブリコラージュの具体例なんだろう。勿論これはドゴン族固有のものではない。日本で登山していて、もっと短いものなら見つけた事がある。ガレ場とか岩肌を登って行くと、2段くらいなら木の幹を削って足を置くスペースを抉って階段状にしたものを使った事がある。
1つプリコラージュを見つけると、他にもそうしたサンプルに遭遇していた事を思い出した。五大陸の発展途上国ばかりウロウロしているとそういうモノを見掛ける。
1つがタイ・チェンマイの山岳民族の村をトレッキングしていた時の晩ご飯の料理風景だ。その旅では私を含めた客4名とガイド1名とサポート役2名の計7名で2泊3日でトレッキングに出掛けた。川沿いの野営地に着くと、3人が火を起こして手際よく夕食の支度をしてくれた。1人が森から2mくらいの長さの竹を切り出してきて、節と節の真ん中に5cm四方の穴を開ける。そこに米と川の湧き水を器用に入れて、蓋をして焚火に掛ける。また別の竹は節のすぐ下で切って水を汲んでいた。これでコーヒーを呑むためのお湯も調達できる。メインデッシュを食べ終わるとデザートタイム。そこでも竹をスパッと横に割ってフルーツを盛ったデザート皿として登場した。食事が終われば全て薪になるだけで、ゴミは一切出ない。
もう1つの例を挙げてみよう。ネパール・チトワン国立公園で乗った木彫りのカヌーだ。カヤックの素材は堅いプラスチック状の化成品が多いが、カヌーは流線形に湾曲した木を張り合わせて作るもので、個々に切り出されたパーツをあからじめ用意しておく手間がいる。
でも、そうしたモジュール化と組み立てスキルがない時代に海を渡るには、大木の幹を丸ごと刳り抜いてカヌーの原型を作ってみたんじゃないか。それを浮かべて航行できる事が分かって、ようやく効率的な製造方法に工夫を凝らしたのではないか。例えばもっと軽量化するには、もっとスピードを上げるには、刳り抜いた木材がムダにならなくて済むには、と言った具合に改良ポイントはいろいろ挙がってきたんじゃないか。
ネパールで乗ったカヌーは、流線形のカーブがなくストンと同じ幅をしていた。舳先は案内役が立てるように20cm四方の狭い甲板になっており、私を含めて5~6名の観光客はタテ1列に木の椅子に腰かけて、ズンドウのような恰好悪いカヌーに乗って川下りした。いつもと違う角ばったカヌーに妙な古めかしさを感じたのだった。
11.エピローグ:どんな旅でも大丈夫さ
(1)さらばブラック・アフリカ
いよいよマリ最終日、マルシェを覗いてみた。モプティのマーケットは食品中心で活気があったけど、バマコのそれは雑貨がメインだった。掌に値段を書いてもらって土産を買う。結局フランス語を喋れなくても大して困る事なく旅を終えられそうだ。仏教徒はここでもモスクに入れなかった。
彷徨っていると青空マーケットを見つけた。線路の左右ギリギリまで商品が並べられていて、活気がある。電車が通過する時間にはみんな慌てて撤収するんじゃないか。そんな様子も見たかったけど、この当時、大西洋のダカール(セネガル)からバマコへの国際列車は週2本しかないのでとても待ちきれるものではない。
バマコ市内でニジェール川に架かる橋を渡った時、頭の上にバナナの入った籠を乗せた女性と擦れ違った。男達たちとも擦れ違った。みんなこの国で当たり前に生きている。きっとマリ人の大半は一生ブラック・アフリカの外に出ていかないだろう。もし海外で暮らすとしても旧宗主国のフランスへ出稼ぎに行くくらいだろう。見ていると、首都バマコを歩いている人達とドゴンの村人達でも暮らし向きにはかなりのギャップがある。こっちの方がモノは豊富でも、猥雑で勧誘もウルサイ。でも、もうこれでブラック・アフリカともお別れかと思うと、そのシツコささえも名残惜しい気がしてきた。
最終日は午後便でパリに立つ。時間も中途半端だったし、長距離バスが早朝に到着したばかりだったので、のんびりしたかった。で、高級ホテルのプールでひと泳ぎして、プールサイドでビールを呑んでいた。が、なんとそこでマリに着いた日に「ドゴン村ツアーをガイドするぜ」としつこく迫ってきた男と再会した。懐かしくもあり、でもまたネチネチした勧誘が始まるのは勘弁して欲しい。幸いこの日でこっちの夏休みも終わりだし、さわやかに挨拶して別れた。
でもまあ、しつこい勧誘も、街のオバちゃんやガイドにポーターも、とにかく沢山の人の力を借りて旅する事ができた。この旅に限らずアフリカの旅はその日会った人によってこちらの運命がかなり左右される。帰国日の朝ギリギリにバマコへ無事に戻って来られたのだから、ホント出会った人みんなに感謝なのだ。
バマコからパリに戻るエールフランス機内では、ずっと張りつめていた糸も緩んで安心したのか思いっきり眠りこけた。貧乏旅行者は機内でサービスされるビールと機内食はしっかり腹に収めるのだが、この時ばかりは睡魔が勝っていた。眠りこけている間にメガネを床に落としてしまい、気が付いた時にはパリに向けて着陸態勢に入っていた。気を利かせたスチュワーデスさんが私の前にそっと置いてくれた水色のアイマスクが有難かった。
これでまた、普通の世界、そう現代に戻っていくのだ。サラリーマンとして久々に出社すればきっと600通くらいの電子メールが溜まっているんだな。
(2)無事に帰国するのが旅の基本
私はいつも往復航空券だけ握りしめて海外旅行に出掛ける。もちろん、日本を脱出できればそれで構わないって事ではない。旅は移住ではないので、無事に帰って来られる事を以ってようやく完結する。そんな旅を、なるべくガイドブックなどに頼らずに現地の人から情報を得て遂行していければ理想だ。
そう、最大の目標は無事に帰国できる事にあった。そのゴールはあまりに根源的で自明な目標だが、そこが海外旅の基本だと考えていた。そしてそれは初めての旅先、英語圏のオーストラリアで大丈夫だと分かった。正確にいえば、ドキドキ体験を重ねた末になんとかなったレベルだけど。
そんな旅をいくつか重ねて自信がついてきた。インドを旅して有象無象の勧誘をかわして、ガンジス川で泳いで、不衛生な食住環境にもなんとか慣れた。だいたい日本が清潔すぎるのでアレルギー性鼻炎など免疫過敏の病気が増えた、って強気な説も肯定できるようになった。その一方で、たまたまその国に恵まれたからって限定条件が付いているようなグラグラと不安定な気分も抱えていた。ビギナーズ・ラックの連続では確たる自信というには些か不安だったのだ。
それに対して、西アフリカ・サハラ以南のマリ共和国は明らかに20世紀からグッと100年くらい歴史を遡ってワープした時空にあった。生活水準で言ったらきっと1000年、2000年前でも変わらないだろう。フランス語や英語が多少通じる事を考慮に入れると、まあ100年前が妥当だろう。
旅立つ前から「マラリア感染のリスクがある国に行きたくない」、「黒人は体格差があるので怖い」と後ろ向きな気持ちが渦巻いており、半ば消極的な旅の始まりだった。
それでもいざ西アフリカの大地を旅してこうして無事に戻って来られた事で、地球上のどこの国であっても旅できる、なんとかなるだろうって確信を得る事ができた。極寒の国は未体験なので判らない。でも、八ヶ岳など雪山ならいつも人より1~2枚少ない衣類で十分凌いでいるので、少々の吹雪ならきっと大丈夫じゃないか。
どんなにプリミティブな国でも旅を続けられる、そんな自信を付けさせてくれたのがマリだった。勿論、マリのみんなに助けてもらいながらの旅だ。それが西アフリカ・マリ旅における何よりの収穫だった。
なので、エールフランス便で地中海を渡ってヨーロッパ世界に戻っていく時にドップリ疲れて寝落ちしつつ心地よい疲れに浸れたのだ。そう、充実感に満ちたものだった。
(3)旅の幅が広がった
この旅でもう1つありがたかったのは、旅のバリエーションが広がった事だ。それまでは一般的な観光地とインド・アラブ世界、砂漠、ビーチを覗いたくらいだった。そこにトレッキング・ジャンルがあるのだと知った。
都会はどの国もそこそこ均質化している。それに対して自然の中をトレッキングするのは面白い。私のように大して体力がなくても凌げる。断崖もとりたてて危険な場所ではなかったし、西アフリカ・マリの大地は新鮮な驚きに満ちていた。なので、この旅を終えた後でタイの北方民族の村やボルネオ島のジャングル、ベネズエラのギアナ高地などホイホイと出掛けるようになった。
日本国内でヤマ登りを知ったあとにネパールの3000m級のヤマに抵抗なく登ろうと決意できたのもの、思えばその端緒はこのドゴン族の村トレッキングにあったと思うのだ。そういう意味でこの旅は自分にとって1つのメルクマールとなった。
どこに行くにも現地の予定をあらかじめ日本で決めておくのは避けている。3日くらいのトレッキングは現地調達が基本だ。ホントに目的地に到着できるのかそんな不安を抱えたまま、先ず現地に飛んでみることを基本にしている。
言ってしまえば、旅は出たとこ勝負。それが楽しい。
<どんな形でも柱は支えられる、1000CFA札も昔の姿で勝負>
【コラム】西アフリカ・マリを旅するにはこんな準備が必要だった
普通の海外旅行なら、とりたてて計画的に準備する事もない。でも、サハラ以南のブラック・アフリカに行くのが初めての経験だと、ヒシヒシとした緊張感があった。航空券をゲットできたのはホント。でも、行きたいけどそんな危険な所にいきたくない、そんな複雑な気持ちだった。ザックリこんな準備でその日に備えたのだ。
●情報収集
知りたいのは治安に関する事。外務省HPで安全情報はチェックしたものの、だいたいアフリカで白く塗られているエリア(危険なし)なんて稀。薄い黄色(危険度1)は問題なしと判断した。まあこの辺の読み取り方は人それぞれでしょう。
ガイドブックとしてロンリープラネットの西アフリカ編を買った。その厚さ4~5cmくらいの重たい本を持参した。写真メインの「地球の歩き方・フロンテフィア編」に頼るだけでは流石に無茶だと悟ったためだ。英語は読めなくても地図が付いているだけで嬉しかった。バスターミナルの場所はこれで確認できる。都市間の交通手段がどんな感じなのか見ておくと目安になる。ホテル情報は読んでも参考にしていない。現地で直に見てからチェックインする方が手堅い。「地球の歩き方」と一緒でバイブルのように頼るのではなく、あくまで参考情報と割り切った方が良い。
●ビザ取得
当時、浜松町か田町にあったマリ大使館に出掛けた。普通よその国で想像する大使館は一戸建ての建物だけど、ここはオフィスビルのワンフロアにアフリカの大使館が10ケ国くらい入居しているビルだった。と言っても雑居ビルではない。兼松の関連するビルだったと思う。本当にマンションの一室くらいのスペースで応対してくれ、確か即日発給された。
治安について聞いてみると、日本人女性staffはA4で4ページくらいの紙キレを渡してくれて後は「大丈夫ですよ」というだけ。取り付くシマがないし、信じるしかなかった。
●黄熱病の予防接種
1000円札に肖像が載っている野口英世が研究してくれたおかげで、黄熱病の予防注射を受けられる。黄熱病もマラリアと同様に蚊が媒介する感染症だ。これは必須なので必ず済ませておく事。他の予防接種はキリがないので全てパスした。
私は品川の昔風のビルでこの注射を打ってもらった。その日も希望者が50人ほどいた。丁度、私の前で「注射液が解凍できてないからちょっと待って」と言われ、緊張感が昂まった。で、10年間有効と書かれた黄色い紙(文字通りイエローカード)を貰った。折り畳むとパスポートに挟めるくらいの大きさの紙だ。
そう、当時この予防注射は有効期限が10年間だった。この紙キレが無いと、予防接種が必要な国に入国できないのだ。で、1度作ると何度も使わなきゃあ損、と思ってその10年の間にベネズエラとかナミビアとかタンザニアとか出掛けてみた。なので、もうすぐ10年で有効期限切れって時にかなり焦ったのを覚えている。また注射を打ちたくないし、とにかく勿体ないと思ったのだ。
尚、現在ではイエローカードが一生モノに変わっている。なんとビックリ! 2019年秋に保健所の方から貰った資料に「黄熱病の予防注射は2016年以降に一生ものになった」と書かれていたのだ。えっ! ホントなの? だったら、また注射打たなくてもアフリカ行けるネ、と妙に喜んでしまった。
変更された理由が注射の成分が変わった為なのか、医学的な知見が更新された為なのか、読み取れない。もし前者であれば、私の場合にはやっぱりもう一度注射しないといけない。後日、保健所に電話して後者だと判った。だったら次の旅で有効に使いたいな。マラリア汚染地帯は広いし、近年でもジカ熱やデング熱の感染者がニュースに出ている。世界の感染症は新型コロナウイルスだけじゃないのだ。
近年、もう1つの変化があった。2021年秋、知人が西アフリカに旅立つのに黄熱病の注射を打たないと言う。念のため病院へ確認したところ、確かに黄熱病の予防接種は任意扱いに変更されていた。
●マラリア対策
これが最重要事項! 怖いマラリアには未だ予防注射がない。それを発見すればノーベル賞モノだと聞いたけど、とにかく蚊取り線香とかキンチョールで蚊に刺されないように注意するしかない。
なので、蚊取り線香とキンチョールを用意した。腕に巻いておくだけで蚊が近寄らないとかいうバンドを東急ハンズで買った。蚊帳も欲しかったけど、どこの宿でも吊るせるのか怪しいし嵩張るので買わなかった。その代わり、頭だけ覆えるネットを持参した。夜はそれを被ってみたけど、流石に暑苦しいので1日くらいで止めた。
クロロキン(マラリア予防薬)の名前を聞いたのはコロナ禍の2020年が久々だった。米国のトランプ大統領が新型コロナウイルスに効果があると言い放っていた。薬効の真偽は判らない。ただ、マリ旅行の直前に調べた限りでは、失明するとか眼科系の副作用が怖いなと思ったし、わざわざ購入するためにパリに滞在する時間的な余裕もなかったのでフランスやマリで買う気はなかった。
幸いにも私は感染しなかったが、私の知人でナイジェリアに2~3ケ月滞在して帰国後に発症した例がある。渡航中はくれぐれも用心したい。
●衛生面
万が一怪我や病気でもし病院で診察を受ける事になっても、注射針が衛生的なのか判らない。もしかして使い回ししているかも知れない。なので、掛かりつけの医師に注射針と注射器が欲しいと頼んでみた。でも笑われて終わり。その代わりに合成抗菌剤のクラビットを7~10日分ほど処方してくれたので、これは欠かさず服用していた。ただ、新型コロナ禍の2020年のようにガツガツ消毒や除菌する発想は全くなかった。
●その他に重宝したグッズ
この旅の直前に購入したものが3つある。寝袋とレインコート、それにライトだ。もしかして野宿もあると覚悟したけど、アフリカはとにかく暑いと思い最も薄いペラペラの寝袋を選んだ。嵩張ったけど、どれも現地で活躍してくれた。
以上
【2023.2.23修正】写真を追加、並びに一部の文章を修正しました。