爆風砂塵のシルクロード旅
1.序章 -喜多郎のシルクロード音楽に誘われて-
中国を訪ねるのはこの旅で5度目になる。そろそろシルクロードの砂漠地帯を訪れてみたいと願っていたのだ。省名を並べると旅で陝西省と甘粛省、新彊ウイグル自治区になる。
月並みながら私にとってのシルクロードとは子供の頃にTVから聞こえてきたNHK「シルクロード」のテーマ曲だった。あの喜多郎のゆったりとした郷愁を誘う音楽が耳に心地よく響いてきた。かくもこうした漠っとして情緒的なことに惹かれて旅先を決めてしまうものだと、自分でもそのいい加減さに呆れる部分もある。されど、こうした感性に頼るのは悪くないと思っているのも、その実あるんだな。
シルクロードは東西世界の交易路。かつてトルコを旅した時に、イスタンブール郊外でキャラバンサライに行ったことがある。隊商が寝泊まりする館だが、ひとたび城壁を出れば方向すら分からない荒涼とした大地が広がっていた。
子供のころに聞いたメロディに揺られてゆったり落ち着いたラクダの隊商を思い浮かべてみる。きっと中国の奥地にはまだそうした雰囲気、穏やかな時間が残っているのではないか。そんな淡い期待がとんでもない勘違いだってことは後々知ることになるのだが。
2.ケバブの煙が立ちこめるウルムチ
(1)23時すぎ西安空港に到着
私の中国旅はたいてい上海から始まる。この旅でどこをどう回るといいのか、ハッキリ決め切れないまま浦東空港に降り立った。
それは、いつも国内で登山する時も同じ。八ヶ岳に登ると決めて新宿駅で特急あずさに乗車したのだが入山口だけは決まっているものの、2泊目をどうするとか、ピストンで単純往復してくるのか、それとも縦走するのか決まらない場合もある。最も雑な場合など、新宿駅でどこに向かおうか決めかねたまま立ちつくしてしまう時もあった。
北アルプスだと、山小屋と山小屋の間がそこそこ離れているので計画した行程を忠実に守ることが要求される。特にコロナ禍の1年目は山小屋が予約制になってとかく融通が利かなかった。スペースは空いているのに宿泊できないこともあった。
ところが八ヶ岳だと山域に小屋が32か所も整備されている。南北に山稜が続いているが、登山口もバスの便にも恵まれているので比較的自由度があるのだ。だから、ピストンも縦走も天気次第、膝や腰など体調次第で変わってくる。いつだったか厳冬期に2泊目を予約していたのに、硫黄岳を越えた先の山小屋へ午前11時に到着してしまい、申し訳なくもキャンセルさせてもらったこともある。
しかも今回は仕事でモヤモヤした状況が続いていて、海外旅行に出ようにもスッキリ気乗りしないでいた。あるITシステム開発案件の見積書と提案書を顧客に提示したのだが、「見積り金額が高すぎる」の一言で契約に至っていない。顧客交渉の打合せを9回戦まで行ってもうヘトヘト、完全に消耗戦に陥っていた。野球なら延長18回までありそうだが、コストが高いか安いか、それはもう主観の違いということで議論が煮詰まっているように感じていた。もうネタは尽きたしどうしようか、半ば諦めたような気分でどうにでもなれ、そんなタイミングでGWを迎えていたのだった。
IT企業でシステム保守業務に携わっていると翌月も安定的に仕事がある。それに対してシステム開発を担当していると緩急の波が激しく、かつ1つのプロジェクトが終わるとすぐ次の仕事が決まらないケースがある。で、○○システムを作りましょう、と提案するのだが、顧客側でたまたまその年度の予算に計上していないシステム案件だったため、難航を極めていた。いつまでの契約でいなければ、仕事に着手できない。しかも納期は決まっているのだから、業務負荷が一時に集中して泡を喰う羽目になりそうだ。
そんな訳で、国際線航空券を予約したのはなんと出発3日前のことだった。こんなギリギリに迫っていたのは自分でも初めての事。それでも旅行体質のわが身は慣れたもので、中国旅の玄関口・上海に向かう。
西安までの航空券はあらかじめ確保していた。その後、敦煌とウルムチをどう回ろうか思案したまま、中国に入国してしまったのだ。浦東空港のカウンターで「敦煌ゆきのチケット」があるか尋ねてみる。
先ずは「敦煌」が通じない。漢字を書き示すと空港スタッフが「あー」と頷いて、頭にアクセントを置いて躍るような口調で「ドンファン」だと教えてくれる。それでも、パソコンでタカタカと検索すると、軽く「メイヨウ(没有)」と返されてしまう。中国人の会話で最もよく耳にする「メイヨウ」だ。チケットが売り切れなのか、明日の便が飛んでないだけなのか、そもそもこちらの英語が伝わっていないのか、そのレベル感はサッパリ判らない。それでもこの「メイヨウ」の一言で片づけられてしまう、航空券をゲットできない自分が哀しい。
西安郊外にある咸陽国際空港に到着したのは23時過ぎだった。西安はかつての長安、隋唐の都であり、咸陽は秦の始皇帝が都と定めた関中の都市である。まさしく1000年の都と呼んで構わないだろう。例によってホテルは予約していない。西安は長らく中国の都として栄えてきた地なのできっと宿泊案内所くらい開いているだろうと暢気に構えていた。が、大空港この時間ではホテル案内所も閉まっている。
構内をウロウロしていると、地下に続く階段の下でオバちゃんが手招きする。どうやら空港の地下に宿泊所があるようだ。いくら寝るだけとは言え、窓のない部屋はゴメンだ。今度は、もう1人のオバちゃんが近づいてくる。「宿に案内するよ」「トエトエ(対対)」と誘われるがままワゴン車に乗り込む。「トエトエ」には四川省の旅で懲りていたが、もう24時を回っていたので素直に従う。まあいいか。
その晩は、なんと一緒にワゴン車で連行された中国人男性と部屋をシェアすることになった。彼は英語を喋らないし、外人とのコミュニケーションを避けている感じだった。同じ部屋にいるのもなんだか落ち着かないけど仕方ない。貴重品の心配をしつつも、シャワーを浴びてそのまま就寝。
中国のホテルは5つ星から順にザックリ大酒店、酒店、賓館、客桟、招待所とおおよそ呼称で区別できるようになっている。私は客桟にも泊まった事があり、この宿は賓館に当たる。四川省での経験から賓館レベルでもかなりキツイところがあると分かっている。寝室は構わないけど、グッと落差があるのがトイレの衛生面。この宿は感覚的に桟館かな。ただ、水回りは許容範囲なので助かった。
翌朝、ホテルのスタッフを探したのだがどこにもいない。宿賃は払っているのでこのまま退散してもいいのだけど、そうもいかない。と言うのも足がないのだ。どうやって空港に戻ればいいのか分からないためだ。
朝食も兼ねて、周囲を散策する。ここは村だった。NHK大河ドラマで例えると平安時代の平屋が軒を連ねている印象だった。ザックリ50軒くらいの商店が集まっていて、そこそこ朝の賑わいが感じられる。そこでパオ(包)と揚げパンを買って歩きながら食べた。どこかに乗り合いタクシーでも見つければ空港まで送って欲しいのだが、この商店街は屋台が並んでいる程度の狭苦しい場所でそうもいかなかった。
西安国際空港は咸陽にある。西安も咸陽も歴史的には古代・中世における中国の中心地だ。西安はかつての長安であり前漢(紀元前202年~)、西晋、隋、唐(618~907年)の都だった。咸陽はさらに昔、秦(紀元前202年~の始皇帝が都を置いた場所である。
陝西省で私が初めて泊まったのは空港近くの小さな村で、それなりに
空港に戻って、まずは航空券を買わなくてはいけない。ここでそのまま西安市内に入ったら二度手間になる。まずはシルクロード西方の街に移動したいのだ。
前日に上海・浦東で覚えた中国語で、ドンファン(敦煌)ゆきのチケットがあるか訊いてみる。最初に帰ってきた言葉はやはり「メイヨウ」。キーボードをタカタカ叩きながら「ホウティエン」と呟く。ポカンとしていると、これなら分かるでしょって雰囲気を醸し出して「后天」と書いてくれる。
そこまで親切にしてもらって、それでも分からない。申し訳ない。日付けを明記してもらいようやく分かったのは「后天」は明後日の意味だってこと。
中国を旅していると初めに覚えるのが「明天(ミョンティエン)、昨日(「昨天(ゾウティエン)」は覚えなかった。ましてや「后天」(ホウティエン)は難易度が高い。しかも2音節目は「ティエン」で共通なので紛らわしい。やまとことばなら「きのう/きょう/あした/あさって」と分かりやすいんだけど、と言い訳をしたくなる。
同じ漢字文化圏なのに本家中国と島国ニッポンではかくも基本的なところで表記が異なっている。沖縄を旅していると「そのうち沖縄省になるから中国語を勉強しよう」なんて悪い冗談を聞くけど、文化は1つ1つ歴史の積み重ねだから東アジアを統一しようなんてことは考えないで欲しい。
日本でもただでさえ、飲食店チェーンが地方に進出しているので地方の駅前飲食店を覗いてみても東京と大差なくて、ローカル・フードに巡り合えない寂しさを感じる。それは言葉だって同じことで、地元の人が話す方言を聞いているとなんだかくすぐったく感じるもので、ローカルな懐かしさはずっとそのままであって欲しい。
中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空と主要キャリアのカウンターをひと回りして、どうやら直ぐに敦煌に行くのは無理だと分かった。その代わりウルムチゆきの便を確保できた。この旅の最初の訪問地はウルムチに決まった。当日すぐに移動できるだけでありがたいのだ。
サラリーマンの短い旅程において、海外の空港で航空券を買うのはいかにも無駄な手間だ。出発前に航空券を全部手配しておくなどもっとラクな旅はできないものか、自分でもたまに顧みないでもない。でも、旅にパフォーマンスを求めるのは間違っている。思い通りにいかないのも旅であり、旅のプロセスを作っていくのも旅の一部なのだと思い直して、凝りも直さずいまだに同じスタイルで旅を続けているのだ。
(2)ウルムチはケバブの香り
ウルムチ(新疆ウイグル自治区)ではユースホステル(青年旅舎)に投宿した。ドミトリーでドイツ人、中国人と相部屋になる。ユースで中国人客ばかりの1日ツアーを紹介してもらい、そこに混ぜてもらうことにした。
ここでシルクロード地方のおさらいをしておこう。西安(陝西省)から敦煌(甘粛省)まで西に向かって河西回廊が続いている。敦煌から先は3ルートに分岐していく。北西に天山山脈、西南にはタクラマカン砂漠が広がっていて、それらを避けるように西に向かう道が続いている。このうち中国最西端のカシュガル(新疆ウイグル自治区)に通じる道は2つある。1つが天山とタクラマカン砂漠に挟まれた天山南路、もう1つが砂漠の南側を進む西城南道だ。天山北路はウルムチを経て伊寧までのルートになっている。
地形に基づいて位置関係を説明したところでヒュイッと飛行機で飛び超えてしまえば何のことはない。どんなに暑い砂漠もどんなに険しい山も旅の障害にはならないのだ。
世界遺産の天山天池では湖畔(標高約1900m)を散策した。まだ春先なので山肌は雪に覆われており湖面は凍ったまま。この寒冷地ではすぐに冷え込んでくるので早々にバスへ退散。
カザフ人の民族衣装を着せてもらい、ツアー客の中国人女性と一緒に写真を撮ってもらう。彼女は兄とその彼女の3人でツアーに参加していたが、きっと一人旅の私に気を遣ってくれたのだろう。私が着る民族衣装を選んでくれた。
ランチは彼らと一緒にピラフを食べた。ピラフのルーツはカザフスタン辺りのピラウだと知ったのはかなり後のことだ。ツアー客みんな同じものを食べているのだが、彼女たち2人は全く箸を付けなかった。中国では出された箸を湯で洗う習慣があるが衛生面でなにか過敏になっていたのか、それともダイエット中だったのか、あるいは舌がとっくに贅沢に馴れてしまっていたのか。そこまで突っ込んで聞くのも失礼かと思いやり過ごした。
TBSドラマ「VIVANT」に出てきたようなゲルに入ってカザフ人女性のダンスを鑑賞した。踊っていたカザフ人は白人だった。中国には漢民族のほか55の少数民族がいる。カザフ族もその1つに数えられる。
私はこの時まで、カザフ人は日本人とそっくりの人種だと信じ込んでいたので、白人であることに驚いた。と言うのも、かつてドバイ(UAE)にトランジット滞在している時に、デザートサファリに出掛けたことがある。4WDに同乗したツーリストはあと3名いて、日本人の容貌そのまんまの女性2人と男性1人だったのだ。当たり前のように日本語で話しかけたら、3人とも困惑して何やら聞いたことがない言語を早口で喋り出した。実は、彼らはカザフスタン航空のパイロットとCAさんだったのだ。パイロット氏は美女2人を指しながら、「もし彼女にするならどちらの女性がいいんだ?」と訊いてくる。彼女たちもいたずらっ子のようにニヤニヤしている。もちろん答えは決まっている。
「二人ともだ」
私はカザフ人の踊りを見ながら、ドバイの砂漠で初めてロシア語の「スパイシーバ(ありがとう)」、「ダー(はい)」「ニエット(いいえ)」を覚えたこと、「カザフスタンには草原があるから遊びに来て」と誘ってもらったことなどを想い出していた。中国の奥地に来て、ようやくカザフスタンのとば口に立てた気になれた。
このツアーバスには、他にも銀行員の彼と彼女など20代の若者が多かった。もちろん、爺婆と孫の組み合わせなど幅広い年代の中国人が乗っていた。60代と思しき年配女性には私が使いやすく思えたのか、何度もデジカメを渡されては撮影係りを仰せつかる事になった。
四川省でも参ったように、中国人ツアーに混じると予想外のことが起きる。夕方、宝飾店の前で全員がバスを降ろされた。きっとこの店からツアー会社にキックバックがあるのだろう。最初はここで解散とは思わず安穏としていたのだが、ここでツアーは終了だと告げられる。一体どこだか分からない市街地で放り出されても、さすがに中国語に疎い日本人としては困ってしまう。同じバスに乗っていた中国人が助け船を出してくれて、他のバスが私をBRTの駅まで連れて行ってくれることになった。こういう場面ではとにかく主張しないとダメ。周囲の中国人ツアー客と仲良くなっていたので、巧いこと調整してくれてホントありがたかった。
ウルムチは新疆ウイグル自治区の首府。西域の乾燥地帯でありイスラム教徒が多い歴史的な街を想像していたが、至って近代的な街だった。路面電車が運行しており、ガラス張りの構造物など整然としていた。私が泊った青年旅舎も高層ビルの17階にあり、窓からは林立する高層ビルと近くに迫った山を眺められた。男性は回教徒が被る白い帽子を頭に乗せており、エスニックな雰囲気をまとった女性が目立つ。
晩飯をどこで喰おうか繁華街を歩いていても迷う。まだ周囲は明るいが、時計を見ると21時を回っていた。中国は横に広いが標準時間が北京時間に統一されているので西域では時間感覚が狂ってしまうのだ。22時を過ぎてようやくうす暗くなってきた。
建設西路の飲食街は長く続いており、ケバブを焼く臭いが充満していてなんだか中東の雰囲気が懐かしい。ステンレス製の小鍋で2種類の出汁を煮立たせている店が目についた。1つは唐辛子で真っ赤な火鍋で見るからに辛そう、もう1つは透明なスープだった。私は辛いモノが苦手なので四川省の旅でも苦労したけど、ここでも火鍋に遮られるとはなかなか厳しい。
<ゲルの中でツアーの休憩時間、辛くない鍋で肉を喰らう>
(3)露天でヨーグルト
ウイグルから敦煌に近い柳園まで鉄道網が通じている。長距離列車の票(ピョウ:切符)を買おうと旅行会社に出向いた。かつて杭州では駅の切符売り場で切符を買ったのだが、10数の窓口にそれぞれ20人くらい並んでごった返しており、その二の舞いを避けたかったのだ。
ところがそこでは取り扱っていなかった。ウルムチではどうやら駅とは別の場所に「みどりの窓口」があるようだ。親切な年配スタッフが、若手社員をサポート役に付けて一緒に切符売り場まで連れて行ってくれると言う。
大きな丸フレームの眼鏡を掛けた20才そこそこの快活な女性社員だった。ありがたい。アラレちゃんメガネをかけた彼女とウルムチ市内を歩いていく。こっちとしてはどこをどう歩いたのか分からないが、およそ切符売り場とは思えない小さな建物で寝台列車のピョウを買ってもらう。もちろん彼女が通訳してくれたので難なく買えた。
この彼女、オフィスワークに退屈していたのか悠長なおでかけタイムにしてくれた。途中で馴染みのヨーグルト屋さんを見つけると、屋台の店主と笑顔で言葉を交わしながら注文する。で、私の方を振り返ると
「あなたも食べる?」
私が素直に肯首すると2人分の紙カップを受取って、1つを私に差し出してくれた。呑むヨーグルトだ。
こちらが驚いたのは彼女が奢ってくれたこと。たかがヨーグルト1杯だが、海外で親切にしてもらうことは沢山あれど、旅する日本人が外国人から奢ってもらうのは初めてのことだった。思い出そうとしてもこんなの記憶にない。今までアジア、アフリカ諸国で常にこちらが奢る側だったし、初めて中国本土を旅した福建省(1999年)でも「日本は豊かなんだからこちらの言い値で払って」と同じ雰囲気を感じていた。四川省(2004年)でもトエトエおばさんに参った。そのベースで考えていると、逆の立場になって若者に奢ってもらうのは、確かにありがたいのだけど、同時に戸惑ってしまいなんだか落ち着かない。
2012年はちょうど中国がGDP(国民総生産)で初めて日本を抜いて第2位に浮上した時期だった。国力の向上が如実に数字で示されたタイミングだ。対照的に日本は、2026年現在そろそろインドに抜かれて第5位に転落しそうだ。当然、中国国内でもそのニュースは自分たちの国威発揚に使われていただろう。かつて鄧小平氏が発した「韜光養晦」の時期は過ぎ去ったと表現してもいい。そうした国レベルの高揚感が、もしかして日本人に奢るという行為に繋がったのだろうか。
中国の習近平主席が登場して「新常態(ニューノーマル)」を唱えるようになったのも概ねこの時期である。もともと「新常態」はそれまでの高い経済成長率8%超を維持できなくなってきたので、緩やかな巡行速度にシフトしていく意味だと解釈していた。それは当時の日本人の一般的な認識だと思う。
ただ、ある優秀な中国人から「それは経済面に限ったことではない。中国が米国と並ぶG2時代に入るのだから他国に対してもそれなりの態度で臨む事を意味しているんだ」と教えてもらったことがある。時期は2010年代中盤のことだった。そうか、先進国であるG7諸国であっても対等と言い切るには国力のアンバランスがある。中国の経済規模が米国を除くG6各国を凌いでいけば、おのずと日本との向き合い方が変わってくるのも当然なのかも知れない。このヨーグルトはそんな時代の空気をまとっていたものなのか。
勿論これは1つの見方に過ぎない。中国では客人を大切にする文化があるので、その流れで年長の私、客人である私にヨーグルトを奢ってくれたのかも知れない。ただ、私としてはヨーグルトの味よりもそんな彼女の行為に驚かされたおでかけタイムだった。
三菱サラリーマン(穂高唯希)もHPでこうした中国のエピソードに触れている。中国では自国に来てもらった場合には相手を存分にもてなすのが流儀だという。しかも年の差は関係ないようだ。
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一泊二日の旅行に招待・手配してもらい、更に1万円以上も奢ってもらうのは日本的な感覚では心苦しいわけですが、中国ではこんな感じのことがよくあります。
文化の違いといえばそれまでですね。……(中略)……
北京に留学していた頃は、道端で話しかけてそのまま仲良くなったおばさんの家に呼ばれてその家族と夕食を共にしたことも全然あります。
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※出典(同氏HP)
https://freetonsha.com/2019/06/05/sudden-trip-with-chinese-jk-all-on-her/
橘玲も「橘玲の『中国私論』」で同じようなことを書いていた。ただ、こちらはホウ(邦の下に巾と書く漢字)とグワンシ(関係)の文脈から引用したものなので、かなり緊密な関係性を前提としたものであることを割り引く必要がありそうだ。
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定刻の2時間前、夕方4時から空港で私たちを待っていたのだという。駐車場で待機していたワゴンに乗り込むと、宮殿のようなレストランに案内された。……(中略)……
「列車の切符はキャンセルすればいい」といって運転手付きの車を用意してくれた。……
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このあと、実は敦煌でも同じような経験をしている。敦煌の観光バスで乗り合わせた同宿の20代中国人男性と沙州市場へ晩メシに出掛けた時のことだ。彼も若かった。2人でビールを呑みながら話してみると、彼は遼寧省から来ているのだとか。カタコトの英語で会話して会計しようとすると、ここでも彼が私を遮ってポンと晩メシ代を奢ってくれた。ビール代も御馳走になった。私がよほど貧相に見えたのだろうか、そんなはずはない(と信じている)。
ウルムチといい敦煌といい、これまでの中国旅で経験のない行為にありがたいのはホントなのだが、同時に年長者の私としては体裁が悪い、座り心地がよくない気がしてなんだか落ち着かなかったのを覚えている。
その恩返しというわけではないが、海外でいろいろと助けてもらっているのでインバウンド観光客に対しては(敢えて主張することでもないが)親切にしている。
北海道・釧路湿原での中国人母子のことは他の記事に書いているし、登山においても外国人と会話することは多い。上高地・徳澤では、山小屋に3連泊していたオランダ人カップルから旅専用の名刺をもらったことがある。そこには日本語でこう書かれていた。こうした心和む工夫は嬉しい。
【オモテ面】
こんにちは、はじめまして、私たちはオランダから来ました。
そして私たちは初めて日本を旅行しています
【ウラ面】
すみません。私たちはあまり上手な日本語を話せません
良い一日を! 敬具
3.西域の砂にかすんでしまう春の敦煌
(1)ウルムチから寝台列車に乗って
ウルムチ発の夜行列車、K176火車(日本語の電車が中国語では火車になる)は夜22:22発だった。
昼間はツアーに参加していたが、日が暮れてから酔っぱらわないように時間を潰すのはなかなか厄介だ。BRTのような路面電車で火車(電車)駅まで行って、ケバブの煙がもうもうとした駅前の屋台をうろついてケバブを食べて時間を潰す。と言うのも、始発駅だからと言ってウルムチ駅では列車に乗って待つことはおろか、改札の中に入ることすら叶わなかったからだ。なので、駅周辺に大きな荷物を抱えた多くの人が屯していた。
その乗客たちが開門時間になると2~3の限られたゲートから一斉に駅構内へなだれ込んでいく。ただ、ここに関所があった。ここでパスポート番号と切符に印された刻印を駅員が逐一照合しているのでなかなか前に進まない。やっとそこを通過すると、私も負けじと通路を駆けていく。出発時間は迫っていて必死だったので、ウルムチ駅と言えば濛々とした煙の記憶が残っているだけだ。およそ「上野発の夜行列車~♪」に乗る時の雰囲気とはかけ離れていて旅情もなにもなかった。
ヨーグルトを奢ってもらった旅行会社の女性社員のお陰で2段ベッドの寝台席を確保できた。上段のベッドはいつもながらに落ち着かない。ただ、この旅の初日は咸陽で中国人と相部屋になり、前夜の青年旅舎もドミトリーと落ち着かない夜が続いていたのでぐっすり眠れた。
日本だと、上野を22時くらいに出発して日本海回りで青森まで運行していた寝台特急あけぼのの旅が好きだった。たいてい鳥海山に登るのが目的だったので、下車するのはいつも象潟駅か鶴岡駅だった。象潟駅で登山口に向かう乗合バスが早朝6時発車だったので、確か象潟駅には朝5時半くらいに到着していたと思う。曖昧な書き方になるのは、すでに寝台特急あけぼのの運行が10年近く前に廃止されてしまったからだ。
あけぼのではいつも上段のベッドだった。肩ぐちと腰のあたりにバンドが2本吊られているので転落トラブルには至らないと思うのだが、寝相が悪いだけにそう安穏としてもいられない。何度かトイレに起きたり、明け方になると下に降りてボーッと庄内地方の青々した田んぼを眺めているのが好きだった。
海外の寝台列車旅で最もインパクトが強かったのはインドのニューデリー→バナラシ(ベナレス)。5人ずつ向い合せになった10人掛けシートで向いの席のインド人男性にウイスキーを見せられて「呑むか?」と問われて即答。ウイスキーは美味しかったのだが、水割りに当たってしまい、上段の寝台で腹痛が治まらない。朝までずっと海老のように丸くなって唸っていた苦い思い出がある。
南アフリカのナミビアでは豪華な寝台列車に乗ったことがある。豪華な食堂車でのディナー、それに早朝サファリがセットになっていたが、こういうリッチな旅は殆ど記憶に残っていないものだ。
さて、ウルムチから東に向かう列車の車内は穏やかに過ぎていった。朝になり、下に降りて、下段ベッドの住人と挨拶を交わす。40~50代の中国人は終点の鄭州(河南省)まで乗っていくのだと言う。裕にあと1日くらいはこの列車に缶詰になるのだろう。車窓から外を眺めていると茶色の平板な荒地がずっと続いていた。内陸部だから荒涼としている訳でもない。
別の機会に青島から上海まで新幹線(和皆号、正確には「皆」の字の左側にごんべんが付く)に乗車したことがあるが、そこでも駅と駅の間は同じような景色が続いていた。とにかく中国は広いので、無機質な岩肌の風景がずっと続いていてもおかしい訳ではない。
ところが、駅に到着すると人の気配は全くないのに、忽然と高層ビル群が待ち構えている。また次の駅に停車しても同じ違和感を抱いた。荒地と荒地の間に異空間が出現するのだ。この落差は何だろう? 賑わっているのだろうか? どれだけの人が暮らしているのだろうか? まあ中国には10億人超が住んでいるのだから余計なお世話だ。
この違和感が鬼城(ゴーストタウン)だと知ったのはずっと後のことだった。
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マトリョーシカを思い出させる。……(中略)……そこには地域ごとの特色、といったものがまるでない。
そこで、「中国の鬼城はなぜこんなにそっくりなのか」ということが気になりだした。そこから出発して、……
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これは橘玲「橘玲の『中国私論』」の「はじめに」から引用したもの。この本はディープな考察本で難解なため、これ以上は部分的に引用するのは難しい。かといってNHKの番組や新聞報道に頼ると新築マンションに入居できない人々の嘆きを紹介することが主眼になってしまい、本質から逸れてしまう。まあ、日本で無駄なハコもの行政が批判されるがそれと同種のものだと括っておいて構わないだろう。
(2)ロレアル男が発したイー・テン・パー
敦煌の最寄り駅、柳園駅で寝台列車を降りた人は僅かだった。柳園は甘粛省酒泉市に位置している。
時間は朝8時か9時くらいだったと思う。10時間くらい寝台列車に乗って214元(約2,568円)なのでとっても安かった。駅構内は閑散としているが、改札を抜けるとタクシー運転手から手厚い歓迎を受ける。彼等は中国語で
「オマエは敦煌に行くんだろう。オレの車に乗れ」
と争奪戦に巻き込まれるのだった。
そりゃあそうなんだけど、もうちょっと落ち着いてくれ。どうやらここではバスなど他の選択肢はなさそう。観念してタクシーに乗り込む。中年男女も詰め込まれて客は3名になった。聞けば四川省の人だと分かり「ジュウジャイゴウ(九塞溝)に行ったよ」と伝えると喜んでくれる。が、まだ発車しない。運転手としてはあと1人でも2人でも詰め込みたいんだろう。運転手としてはもちろん5人分のタクシー代を稼げる方が身入りがいいのだ。
こうなると四川省の男が怒り出し、私も含めてみんな降りてしまった。別のタクシーに乗り換えても同じ。3台目に乗ると、運よく若い中国人カップルが続けて乗り込んでくれた。こっちとしてもなにかと気軽に情報ゲットできたら嬉しいので若者はウエルカムだ。
後部座席の真ん中に座った小柄な男が、しきりにスマホを介して語りかけてくる。この男、名刺交換すると某外資系の化粧品会社に勤めているのだと分かる。ここではロレアル男としておこう。そのロレアル氏が中国語を打ち込んで英語に変換して用件を伝えてくるのだ。
このシルクロード旅に出たのは2012年のことで、私はまだスマホを使っていなかった。私がスマホを持つようになったきっかけは香港のホテルだ。ある時、香港の帝苑酒店(ロイヤルガーデンホテル)に泊まったら、「滞在中はご自由にお使い下さい」と書かれたスマホが客室に備え付けられていたのだ。そこで使えなくてドギマギしたので、買うことにしたのだった。
旅先でスマホを用いた会話を求められたのはこの時が初めてだった。と云うかそれ以降の旅においてもこうしたスマホ会話をしたことはない。中国では漢字で筆談できるからトラブルになりにくいし、必要性を感じることもなかった。でも、便利と言えば便利だ。
用件は至ってシンプル、要は「一緒に敦煌を観光しよう」と誘われたのだ。
もちろん了解。こっちは中国語をほとんど喋れないので、むしろ一緒に旅してもらえるなんて願ったりかなったりなのだ。
だったら口で伝えてくれればいいじゃないか。そう思った。中国沿岸部を旅していると流暢な英語を聞かされる場面も多い。ただ、四川省やシルクロードの広がる各省にやってくると滑らかな英語に出会う事は稀。きっとロレアル氏も外資系に勤めているとはいえ、それほど英会話に自信がなかったのではないか。ひいき目に見ても彼の英語レベルは私とほぼ同じだった。
女性も化粧品会社に勤めているのか、バッチリ化粧で整えた小柄でキュートな美人さんだった。当時のタレントで例えると三浦理恵子と石原さとみを足して2で割った感じ。彼女は静かに座っていた。手提げバックからきゅうりを取り出して丸ごと1本かじっていたのが、なんともアンバランスで面白い取り合わせだった。ちなみにロレアル男に日本の好きな女優さんを聞いてみると「宮崎あおい」と教えてくれた。
この後、彼&彼女とは2日ほど行動を共にすることになった。もちろん宿も彼らと同じ所に決めた。ウルムチではケバブの煙が濛々としていた以外にイスラム教を意識することは全くなかった。敦煌で泊まった市街地の宿の近くには屋根に三日月のマークが見えて、そこがモスクなどイスラム教に関わる建物だろうと容易に想像できた。
宿を決めると、午後は早々に半日バスツアーに参加することにした。もちろん、柳園駅のタクシーで一緒になった中国人カップルも一緒だ。
彼らと同じホテルに投宿してお互いに出発時刻を確認する。さっきまでスマホで会話していたロレアル男が、当たり前のように中国語で「イー・テン・パ-」と返してくる。
はて? 一瞬考え込む。「イー」は1だから1時だ。日本の観光地で中国人を観察していると、写真を撮る時に日本人が「はいチーズ(笑)」と言う場面で、彼らは抑揚なく「イー、アール、サン(1,2,3)」と声掛けしているのが分かる。その場面をフッと思い出したのだ。
「テン」は日本語と一緒で「点(:)」かな。時間を尋ねる時に「ジーティエン(几点:jǐ diǎn)~」と話すのを予習していたのが効いたかも。「パー」はその語感からしてきっと半分だろう。ロクに中国語を理解できていないのに、そんな勘を働かせて「オッケー」と応じられた。そんな自分が何だか気分良かった。
この旅で、もしかして中国語が聞き取れるようになったかとぬか喜びしたことがもう1つあった。ミネラルウォーターを買うのに「イー・パー・ウー」と聞こえたので反射的に1.5RMB(約18円)を出せるようになった時だ。1,2,3,4,5は「イー、アール、サン、スー、ウー」なので「ウー」は0.5元だ。同様にアイスクリームを買う時に「サン・パー・ウー」で迷わず3.5RMB(約42円)を払えるようになった。馴れない外国語なので、なるべく耳を使いながら旅した方がいいのだ。
(3)辺境に立つ玉門関
敦煌市内は大きくない。バスは荒涼とした大地をズンズンと飛ばしていく。先ずは広漠とした玉門関を観光する。正直なところ、風雨に削られた台形の盛土があるようにしか見えなかった。
日本で関所といえば東海道の箱根、新居など宿場町の一角に構えたものであり、往時にそれなりの賑わいがあったであろうと想像できる。私にとって初めて見た関が、乾ききった土地に残る遺構だったので、残念ながら訴求力は乏しかった。キャラバンサライも土の造形だが、同じシルクロードの遺構としてはコチラの方がインパクトは弱かった。
中国の関といえば、関中の秦が東国(中原の諸国)からの攻撃を防ぐために用いた函谷関がある。それに対して、玉門関(敦煌の北西)などこの地域に設けられた関所はソグド人など西域の異民族に対する備えだった。シルクロードではこの周辺にも陽関(敦煌の南西)や嘉峪関(敦煌と長安の間)がある。陽関は小山の頂に城壁を建てた写真を見たことがあり、見張りするなら断然こっちがいいだろう。
余談ながら、万里の長城はどこまで伸びていて、西端はどこにあったのだろう。周代(若しくは秦代)に築かれた長城は嘉峪関までだった。その後、漢代に玉門関まで西に伸ばしている。どこかの国がメキシコとの国境に造っていた鉄板1枚を止水版のように埋め込んだものとは質が異なる。かつて冬期に北京郊外の八達嶺を訪れたことがあるが、石垣を組み上げて分厚い壁で境界を築いた頑丈なものである。高さ10mくらいあったように記憶している。
それが西域・甘粛省まで6000km以上も延々と建造されていたことは驚異ですらある。後日、シルクロード地方の地図を確認して、玉門関の北に漢代の万里の長城が築かれていたのだと知った。ただ、地平線上に何の凹凸もない乾いた大地のどこに長城があったのだろうか。
玉関門は長城の西端に位置していただけにそこで警戒していた相手は西方夷だけでなく、北方騎馬民族が襲来に対する備えでもあったのだろう。彼らはどんな恰好をしていたのだろうか。
高校で確かに世界史を履修した記憶はある。中国人と言えば横浜の中華街とチャイナドレスのイメージが容易に思い浮かぶ。それに対して、匈奴や突厥、西夏、吐蕃などの異民族が戦にせよ交易にせよどんな顔つき、どんな姿で歴史の舞台に登場していたのか、これまで全く想像したこともなかった。
2025年、大阪万博が開かれていた頃、国立奈良博物館で面白い展覧会が開かれていた。中国に関して興味深かったのは2種類あった。1つが北京の幌子。もう1つがシルクロードの品々だった。
その中に小さな「加彩胡人」の像があった。とんがり帽を被った姿は「白雪姫」など西洋のおとぎ話に出てくる小人のようだった。白像だったのでヒゲ面も白髪だと連想した。手に下げた胡瓶も注ぎ口が細長いものではなく、むしろ洋食屋の水差しのような、牛乳が入っていてもおかしくないような恰好をしていた。
この像は唐代のものと書かれており、「胡」は西方の異国を意味するもので胡坐(あぐら)や二胡(楽器)も西方から伝来したものと推測できる。胡蝶は珍しい蝶だったのか。荘子が当時のイランなど中東・西南アジアの人物の服装になぞらえてそう呼んだのかも知れない。
食べ物で一番わかりやすいのは胡椒(こしょう)だろう。ほかにも胡瓜(きゅうり)、胡麻(ゴマ)、胡桃(クルミ)などが挙げられる。4月頃に咲く植物の名前にも出てくる。ケマンと似ている筒状の小花がタテに並んで咲くのは延胡索(エンゴサク)であり、季節外れのアジサイのように緑の花びらをした胡蝶樹(ヤブデマリ、藪手毬とも書く)も「胡」の字を充てている。
変わった所では、日本のかつての地名にも使われている。JR高崎駅で途中下車してたまたま知ったのだが、上野国(群馬県)に上野三碑がある。ちょうど上州武尊山から下山したあとで気力がなかったのだが、大和朝廷の頃の石碑3塔が遺されている。その中で最も有名なものが「多胡碑」である。この場合の「胡」は日本人にとっての渡来人である、中国人や朝鮮人を意味する。群馬県に隣接する埼玉県では飯能市や日高市に新羅ゆかりの渡来人が住んでいたので、もしかしたら「胡」は新羅から渡来した人達を指すのだと想像することもできる。
NHK-BS「よみがえる長安」でも髭をたっぷり蓄えたソグド人の顔が「彩絵胡人牽駱俑」として映し出されていた。はるばるシルクロードを渡ってきた彼らは、唐人にとって怖いだけの存在だったのだろうか。このユーモラスな顔つきを見ると、普段は親しげに交流していたのかも知れない。その証左として、同番組では「唐と吐蕃の試合」と称した穏やかな再現映像を流していた。華やかなりし長安の都には外人(胡人)が10万人ほど滞在していた。21世紀で例えると、各国の大使館が中国に置かれていたようなものだろうか。往時はいがみ合っているだけでなく、敵同士がおおらかな関係性だったのかも知れない。
さて、この景色を日本で喩えると、三毳山(栃木県)が相応しいだろう。この付近に古代の東山道(都―滋賀―岐阜―長野―群馬―栃木)が通っていた。東山道は古代の言葉でアズマノヤマノミチと呼ばれ、ウミツミチと称されていた東海道(都―三重―愛知―静岡―(略)―茨城)と同じく東国に長く延びる道だった。そこには「三毳の関」が置かれていて街道の見張りを務めていたとか。
細長い単独峰でその外周は見渡す限り360°田園が広がっており、人々の往来を監視するには最適のポジションだ。このヤマはカタクリで有名なのでその時期を狙って登ったのだが、3月初旬ではちょっと早すぎた。標高229mの低山でピークには青竜ヶ岳と書かれた看板があった。
東山道のルートは三毳山の北側説と山を経由する説の2つがあるが仔細はどうだろうか。古代の東海道では、愛知県三河地方でも低湿地を避けるために敢えて宮路山(標高362m)を通っていた。そう考えると、同様のことが東山道にあったとしてもおかしくないだろう。いずれにせよ三毳山には、古代においても今とそう変わりない田園景色が広がっていたのではないか。
それに対して、玉門関は荒涼としただだっ広い場所にあった。何もない360°開放的な関所に役人が駐在していて、無限の荒野をどう守り切ることができたのだろうか。ここで遊牧民など異民族の侵入を食い止めていたというよりも、領土の境界をアピールするくらいが精一杯だったのではないか。そう思ってしまうのだが、かつて西域都護府が置かれていたのはトルファンやクチャ辺りだとされており、漢代や唐代にはまだまだ西に攻め込んでいたわけだ。
中国に入国する際にパスポートにスタンプが押される。日本人にとって上海や北京の空港でこの「辺境」という文字を見ると日本語の語感からしてどうしても違和感を覚えてしまう。でも、荒涼とした西域の小屋で「辺境」スタンプを押されたら素直に納得してしまうのだった。
(4)灰色の砂嵐に隠されたヤルダン
いよいよ、この日のハイライト、ヤルダン(雅丹)地質公園の異世界に突入した。まさか、灰色に覆われた砂嵐が吹き荒ぶ世界でバスから放り出されるとは想定外だった。そこは、高さ5~10mくらいの岩が林立する荒地だった。岩の高さはそこそこ揃っているので、元々の台地から柔らかい部分が爆風の力でそぎ落とされて、2種類の地層構造が露わになったのだろう。ただ、トルコのカッパドキアと比べるとかなり荒々しい造形だ。岩の断面は削り取られたように鋭い断面を示していた。風の威力、それに風に削り取られた砂粒によって何十年、何百年という長い時間に亘って岩が抉られた跡なのだろう。
何枚か写真を撮ったものの耐えられない。砂埃をまとった強風が凄くてとても観光などできずにバスに逃げ帰る。砂嵐がきつくてとても荒涼の地、ヤルダンをゆっくり見学できる状況ではなかったのだ。このツアーバスに乗っていたのは10数名だったが、他の中国人はとっくに車内に戻っていて私が最後だった。
ここはシルクロードのルートになっていたのだろうか? 私たちは僅か10分、15分で降参したが、およそ隊商が容易に往来できるようななま優しい土地とは思えない。ターバンを巻いても、バラクラバ(目出し帽)を当てていても厳しい。目を守るためゴーグルを被ってうつむいて前進するしか、砂埃の被害を防ぎようはなかったのでないか。
前述した遼寧省の男はヤルダンの光景を「川が海に注ぐ」と喩えてくれた。確かに砂嵐を川の激流に喩えるのは納得。もしここがパラオのように小さな島が林立するアーキペラゴ(多島海)だったらと想像してみたが、灰色の重たい空がそんな甘い妄想を打ち砕いてしまう。
椎名誠は「シルクロード・楼蘭探検隊」においてヤルダンについてこう記している。
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土と砂が混ざってできた連続地帯……(中略)……平均4メートル前後の土の障壁ヤルダンは頑固にいつまでも我々の行く手をさえぎるように続いている
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これはいかにも冷静な筆致だ。きっとこの界隈で砂嵐に見舞われることもなく穏やかに通過できたのだろう。インターネットでも快晴のヤルダンの写真を検索することができる。季節の違いであり、旅の記憶はその日の天候次第で大きく変わってしまうのは仕方ない。私が巡り合ったヤルダンはとんでもない砂嵐のため、視界は砂に阻まれてその全貌を推し量ることができない灰色の異世界だったのだ。
この半日ツアーでは、他に映画ロケ地(敦煌古城)と西千仏洞に立ち寄った。ロケ地ではロレアル男のツレの中国人女性が刀剣で斬るポーズを取ってみたり、ロケで使われた戦車に乗ってはしゃいでいたり、ご機嫌だった。なかなかいい写真が撮れたのだが、個人情報になるので掲載は控えておく。私も、ロレアル男と一緒に「敦煌」と書かれた看板をバックに記念撮影した。ヤルダンでも「金獅迎客」と刻まれた碑の前で写真を撮っている。
それらの代わりとしてモノトーンの荒地の写真を2枚ほど紹介する。改めてヤルダンの岩肌を見てみると、左右で対になったタテ線が規則的に刻まれているようだ。まさか、この吹き荒ぶ荒野でまさか岩に像を彫っていたとは考えにくい。
<玉門関、「彩絵胡人牽駱俑」(NHK番組より)>
(5)天女舞う莫高窟、視界不良の鳴沙山
翌日は莫高窟(モガオークー)と鳴沙山(メイシャシャン)へ向かう。いずれもユネスコ世界遺産に登録されている。
この日も中国の若者と一緒に行動する。前日と同じくロレアル男、その彼女、そしてもうひとりメンバーが増えた。同じ宿に泊まっていた寧夏から敦煌にやってきたメガネの大学生。自分だけ10才くらい年齢が離れており、面構えを冷静に見比べるとジェネレーション・ギャップを感じないではない。が、そこはまあ意識しないように振る舞えばいい。
大学生が混じってくるとロレアル男も知恵を巡らせる。窓口で「俺達も大学生料金でお願い」とでも頼んだようだが断られてしまった。
莫高窟は崖面に3層の小部屋が無数にくり抜かれており、そのそれぞれの小部屋の天井を含めた5つの面が仏像や壁画で飾られている。歴史上、特定の時期に造られたものではなく、長い時代に亘って当時の王族が部屋を増やしていったものであり、統一感がある壁画ではなくむしろそれぞれに個性的な図柄が並んでいる場所だ。
全ての小部屋に入れる訳ではなく、数か所を見学した。ロレアル男など3人の中国人はパッパッと足早に進んでいく。私もこうした展示はすぐに右から左に抜けていくタチだが、それにしても素早い行動だった。唯一覚えているのは壁面に塗られていたパステルカラーの緑色と青色が印象的だったこと。およそ日本の仏教関連では淡い色合いが記憶にないためだ。むしろ赤色や朱色など鮮やかな色を使うことが多いし、チベットのタルチョの色合いとも異なる。1000年以上は経過しているものなのでもっとくすんでいてもよさそうなものだが、丁寧に補修されているためか輝いて見えた。
敦煌の土産として露天で丸い木製の壁飾りを買った。淡い色彩で天女が2人描かれている。これは莫高窟に描かれていた図柄だ。少し調べてみると、天女は中国固有の作風ではなくシルクロードの飛天。天山南路のクチャ(敦煌の西方)に飛天の壁画が多く残されているとのこと。やはり西方民族の手で遺された壁画だったのだ。壁飾りでは飛天そのものを描いているが、実際の壁画では飛天が主題材になっている訳ではなく、あくまで如来像が中心に据えられており、その周囲を華やいだものにする存在である。西洋の宗教画に登場する羽が付いた天使よりも、羽衣でふわっと舞い上がる天女の方がソフトでいい。
<風に穿たれたヤルダンの岩肌、買ってきた「天女の舞」の壁飾り>
市営バスで鳴沙山に向かう。前日のヤルダンが砂漠ならこちらはマイルドな砂丘だ。そう期待してゲートをくぐった。
入口で肩掛けカバンを下げた女性がマスクを売っていた。コロナ禍では敬遠されていた布製マスクだ。砂漠好きの私としてはこれまでも世界中のいろいろな砂漠を訪れているが、マスクで口元を覆って砂漠観光した事など一度もない。まさか、ここでも前日のヤルダン同様の厳しい砂嵐が襲ってくるのか……、イヤな予感がしたのでみんなマスクを買い求めることにした。1枚2元(24円)だった。
砂丘エリアに進むと、風で砂が舞い上がる砂地獄の様相だった。2日連続でこれはヒドイ。視界不良どころではない、雪山登山で言うところのホワイトアウトだった。
私も日本の雪山では何度かホワイトアウトに見舞われた事がある。森吉山(秋田県)では視界ゼロに近くゴンドラ山頂駅から5分と持たずに撤収している(翌日に再チャレンジ)。谷川岳(群馬県)では2時間かけて肩の小屋まであと一歩のところまで迫ったものの、安全に下山できる自信がなくて引き返してきた。会津駒ケ岳(福島県)では途中で休憩している間にみるみる白く覆われてきて方向が分からない。駒の小屋まで鉄杭が刺さっていたのでそれだけを頼りになんとか前進した。けど、その先に山小屋がある保証は何らなかったのでリスク含みの賭けだった。
ただ、ここ敦煌では砂嵐なので正しくはグレイアウトだ。エントランスで買ったマスクはものの10分と持たずに紐がちぎれてしまった。これでは鼻と口を覆うに覆えない。4人ともせっかく鳴沙山までやってきたのでなんとかして灰色の世界を進む。月牙泉は砂丘の低地に半ば沈みかけていた。そこから砂嵐に逆らうように砂丘を登っていく。砂に足を取られながら登っていく感覚が好きだ。斜面を下るのに砂が靴のなかに入ってきて徐々に重くなるけど、それでもスッと砂の中に自分が沈み込んでいく感覚が好きだった。滑らかな曲線美が永遠に続くこととともに、これが砂丘の魅力なのだ。
たいしたピークではないが砂嵐に向かって砂丘を登っていると砂嵐が吹き付けてくる。雪山ではないので手元にピッケルはない。片手を砂に突き刺し、腰を屈めて三点支持の姿勢を保つ。これって何かの修行をしている僧なのか。5分くらい耐風姿勢で立ち往生していた感覚だった。
気が付くと私ひとりになっていた。一緒に登っているはずの中国人3名は月牙泉の低いエリアに固まってこっちを眺めていた。砂丘に対する思い入れが薄いのか、早々に諦めていたのだ。確かにこの砂嵐では如何ともしがたい。鼻からも口からもしっかり砂が入り込んでジャリジャリしていた。きっと目にも砂粒が入っていたのだろう。
鳴沙山と言えば、穏やかな砂丘をバックにラクダの隊商がゆっくりと進むショットが有名だ。当たり前のようにその景色を想像して敦煌に乗り込んだのに、まさかの砂嵐に見舞われたのだ。惨憺たるシルクロード観光が2日も続いてしまった。なんてことだ!
思い出してみれば、日本でも春先になると中国大陸から日本海を渡って黄砂が飛んでくる。だいたい寒さが緩む3月中旬くらいから黄砂のニュースが聞こえてくる。敦煌を観光するには最悪のタイミングだったのだ。
(6)砂嵐で体調はグタグタ
彼らと別れて、敦煌の街をうろついた。時計屋さんを探していたのだ。私は日本では腕時計をしていない。それはスマホとか携帯電話が登場する前から続く私のラフなスタイルだった。自由人でありたい者として、手首を締められている感じがどうしても不自由で性に合わなかったのだ。
それでも旅先では時計がないと困るので、以前は新宿西口で買った懐中時計をズボンのポケットに入れていた。高いモノには縁がないので、1000円くらいで買える安物だ。懐中時計は鎖で繋がれているものの、つい落としてしまいがちだ。以前も、チュニスのホテルでついうっかり落としてしまいその拍子に動かなくなってそれっきり。
そこでここ10~15年くらいは腰時計にしている。ズボンのベルトを通す細い帯にフックを掛けて吊るしておくタイプだ。時計の文字盤が下向きになっているので、手で持つといい具合で文字盤を読めるようになっている。登山するのでヤマでも重宝している。新宿西口に行けば1000円前後の安いものが出回っている。
この腰時計があろうことか、僅か1週間か10日間の旅先で動かなくなってしまったのだ。中国の安価な時計を買うのでも構わないが、できれば1gでも荷物を増やしたくない。で、電池交換してもらえないかと、シルクロードのオアシス、敦煌で小さな時計屋さんを探していたのだ。
敦煌の市街地は決して大きくはない。小さなオアシスに時計屋さんが存在するのが微妙なところ。それでもいくつもの店先をウロウロ歩いていると、なんと願いが叶った。工員風の恰好をした兄ちゃんがサクッと作業してくれた。電池交換してもらえたのだ。しかも、僅か10元(約120円)で構わないと云う。都内で電池交換したら最低でも1000円+消費税は取られてしまうので、あまりにも安いのにビックリ。しかも、商人気質でなかったので外国人プライスでボッタクられることもなかった。(もちろん品質に問題はなく、敦煌で交換してもらった電池で2年くらい動いていた)
ヤルダンと鳴沙山、敦煌では2日続きでひどい砂嵐に見舞われた。鳴沙山を歩いたその夜、ベッドで息苦しくて夜中に起き上がった。のどが痛くて息苦しい、鼻が詰まっているのに鼻水タラタラ、鼻と耳が通じているせいか右耳が痛い。正にトリプルパンチだった。砂が刺激になって鼻腔や気道を塞いでいるのだろう。しかも、吸い込んだ砂が混じっているので黒い鼻水が出てくるので始末に悪い。まさかこういう形でアレルギー性鼻炎のプリビナ(血管収縮剤)が役に立つとは思わなかった。
気が付くと前腕の肌がボロボロに剥けてきた。まさかこれも砂丘トラブルなのか。まさかそんなことはない。つい1週間ほど前に4月の浄土平(福島県)にいて、Tシャツ1枚でスノーシューを楽しんできた。その日は快晴で腕がしっかり焼けた、その結果がちょうどボロボロの皮膚になってしまったのだ。
そうこうしていると、早朝5:30にアザーンが鳴り響く。そう、ここは中国シルクロード、中央アジアに近いムスリムの地だった。こうなるともう観光どころの騒ぎではない。私は敦煌に僅か2日滞在しただけでダウン気味だった。翻ってここ敦煌に住んでいる人達はなんと逞しいことか。市内ではマスク姿を見たことないが、砂害に免疫ができているのだろうか。
こうなってくると敦煌市内で宙を舞っていたのが、綿埃だったのか植物の種だったのか、それすらも気になってくる。かつてネパールの村チトワンでは綿が繁く舞っていたけど、どうもそれとは別物だと思うのだ。
地震、雷、火事と人間に降りかかってくる天災はいくつもある。でも、日本でも近年になってたびたび竜巻被害が報道されるようになってきたが、この旅で風がおよそ侮ることができない自然災害なのだと肯首させられた。考えてみれば毎年、台風被害が全国各地を襲っており、雨台風もあれば風台風もあり、被害は異なってくる。ヤルダンでは風に乗っかった砂が目、鼻、口に襲い掛かってくるので始末に悪い。
雪山登山においても強風に煽られそうになって危険を感じることがある。あの時ばかりは重たいザックを背負っていた方が飛ばされるリスクを低減できるんじゃないか。ピッケルを突いて三点支持の姿勢を取らないまでも、硫黄岳(八ヶ岳)などで前方を向いて進めない場面に陥ったことがある。
冬の八ヶ岳を登っていると、稜線で案内板にエビのシッポ(雪の粒が風で岩などに叩きつけられてそのまま凍ったモノ)がどんどん成長していく姿を見かける。岩の表面に小さなエビのシッポが無数に付着しているものもある。尖った氷の欠片がへばりついているのだ。それが強風に煽られて飛び散ると、頬に襲い掛かってきて痛いこともあるのだ。目は砂粒に弱いし、肌は氷片になかなか巧く対抗できないのだ。
かつてブラジルのレンソイス大砂丘では砂粒が細かいため、デジカメとボールペンに被害が及んだことがある。ボールペンは先端のボール部分が砂を咬んだために滑りが悪くなったのだろう。デジカメも写真を撮ろうにも砂粒がシリンダーの隙間に入り込んでしまい、動かなくなってしまった。幸い、このシルクロード旅では健康被害は甚大だったもののデジカメは頑強に動いてくれた。
翌日は敦煌を離れる。敦煌ではロレアル男とその彼女と一緒に行動できたことでかなり助かった。キチンとお礼を言いたいし、最後に彼らに挨拶しようとドアを叩いた。西夏の大学生とは軽く言葉を交わして互いの住所を交換する。でも、ロレアル男の部屋は反応がなかった。ドアノブを回すとスルッと開いた。フロントで尋ねるとメモ用紙に「走去」と書いてくれる。既にチェックアウトを済ませていたのだ。
部屋はいつでも新しい客を迎えられるよう既に清掃されていて彼らがいた痕跡はどこにもない。前日の夜にはベッドの上で半分に切ったメロンを食べていたのに、いつの間に旅立ってしまったんだろうか。一切れもらったメロンが甘かった。ホテルの屋上近くの壁に2人座り込んで落書きしていた姿、それが仲良さそうだったなぁ。私もロレアル嬢に促されて、壁にメッセージを書いたことを思い出す。
ちょっと悲しい気分になったがこれが彼等の旅のスタイルなのだろう、まあいい。朦朧としたまま敦煌空港に向かう。そのまま西安の安宿を探してそのまま転がり込んだ。
<敦煌を一緒に旅したロレアル男と彼女、霞む月牙泉>
4.いにしえの都・長安
(1)ワゴン車の会話で焦る、焦る
千年の都・長安(=西安)がどんな街なのか楽しみにしていた。まずは歌劇を見に行く。羽衣の舞を見ていると、敦煌・莫高窟で見た天女の絵を想起する。シルクロードの東端にあたる長安で唐の時代にもこうした踊りが披露されていたのだろう。
同宿のタイ人女性と一緒になったのだが、聞けばラオス、中国、モンゴル、ロシアを2ヶ月かけて旅するのだと言う。となると、彼女の旅は未だ序盤だ。東南アジアの一般女性を新興国の旅で見かけるようになったのは2000年代後半くらいだった。確かヨルダンのペトラ遺跡でマレーシア人と会話したのが初めてだった。もっと喋りたかったのだが、体調不良でそれも叶わず。歌劇も途中からボーっと座っていた。ラッパをわざと下手に吹いているように見せて滑稽な芸を魅せる役者もいたけど素直に笑えない状態。
翌日もまだ絶不調が続いていた。正確に書くと、昨日より今日、昼より夜の方が鼻の症状が酷かった。
仕事の夢でうなされながら目を開ける。朝起きると喉がカラカラに乾いて痛かった。以前、耳鼻科の先生に
「鼻炎で鼻づまりがあるから口を開けて眠ってしまう。それで喉が痛いんだ」
とシツコク言われていたのを思い出す。鼻炎の症状が続くと眉間の辺りが痛くなってくる。前頭洞の辺りだ。もしかして微熱も出てきたんじゃないか。理屈はいいとしてとにかく治してくれ、そう叫びたい気分だった。中国語にせよ英語にせよ、苦しいことを誰かに訴えられるほどの語学スキルはない。なんとか凌ごう!
帰国日まであと3日あるので、できることならなんとか西安の街を歩きたい。「這ってでも行きたい」という表現があるが、この日は正にギリギリどうにか歩ける状態だったのだ。虫の息で市内観光に出掛けた。
女性ガイドに促されるまま、白人ファミリー3名と一緒にワゴン車に乗って兵馬俑に向かう。車中、私は体調が悪くて喋る気力もなく、後部座席に座ったままどよんとした空気感で静かにしていた。
実は、これが理由で女性ガイド嬢のホンネを聞くことができた。彼女は江角マキ子をキリっとさせた感じの30代だった。
どうやら彼女は私の事を華人同胞だと思い込んでようで、カナダ人親子に日本人の悪口を滔々と話している様子だった。こっちとしては英語のヒアリングはできない。でも、彼女の表情と個々の単語を拾っていくことでなんとなく話の雰囲気くらいは掴める。戦争中のことをいっているのか、正確なところは知れないが鬼子(グイズ、日本人)はワルイ奴なのだ。
ひとしきり話し終わった所で彼女が
「あなたもそう思うでしょ」
と、私に同意を求めてきた。こっちとしては目が点になって何も喋ることができない。そりゃあそうだ、こっちは日本人なので気の利いた中国語で「トエトエ(対対:そうだよね)」と相槌を打つこともできない。
一瞬にして彼女の顔色が変わった。ようやく私が日本人だって分かったのだ。半日ツアーで彼女の対応は良かったのだし特に気にすることはない。日本人だって中国人は列に並ばないなどインバウンド客のマナーを問題視しているのだからお互い様だ。まあいい。
彼女は話を変えて
「明日はどこを観光するの?」
と当たり障りのない会話を振ってきた。
「崋山(ファーシャン)に行くつもりだ」
そう答えた。そこでそれまでずっと黙っていて機嫌が悪そうだったカナダ人娘が唐突に口を挟んできた。
「How do you get ?」
なに? ハウは聞き取れたのだが、瞬時に意味を理解できなかった。頭の中を必死に回転させるのだが分からない。中国人ガイドの彼女の眼を見つめる。分からない。
ハウだからイエス/ノーではない。それは分かっていたのだがもうパニック。咄嗟に返した言葉は
「イエス」
だった。すかさず中国人ガイドがフォローしてくれた。
「バス? タクシー? それとも歩くの?」
恥ずかしながら、ようやく質問の意味を理解できた。カナダ人の彼女が聞いてきたのは「どうやって崋山に行くの?」だったのだ。ようやくまともに返事することができた。
我ながら恥ずかしくて穴があったら入りたい心境だった。ワゴン車は狭いけど尚のこと窮屈に感じてしまったのだ。
*
私に限らず、日本人はこの「How」に弱いのではないかと思う。実は以前にもこの「How」で失敗したことがある。香港のホテルでやらかしたのだ。ホテルのプールで泳いだ後、プールのガウンを着たまま部屋に戻るためエレベーターに乗っていた。途中階から白人客が2人乗り込んできて
「How is swimming pool ?」
と聞いてきたのだ。あの時もハウで私の頭はフリーズしてしまったのだ。プールはホテルの屋上17階にあったので、とりあえず
「seventeen floor(17階です)」
と答えた。相手は笑顔で
「グット プール?」
と返してくれた。ああそういう事を訊かれていたのか。あの時は寛容な白人さんが笑って済ませてくれたのだった。私のヒアリング・スキルはなかなか成長しない。最低限自分が伝えたい事だけは主張できるけど、相手の言葉が聞き取れないのだ。それでもなんとかなる(する)のが旅だと納得させて、いまだにふんわり英語で凌いできている。
この江角マキ子に似たガイドと、「これが5回目の中国旅なんだ」と伝えると、怪訝そうな顔をされた。上海など沿岸部では日本人の往来はもっと頻繁なのでこうした反応はありえない。それに対して、西安は内陸部に位置しているのでなかなかツーリストと喋る機会もないのだろう。
彼女はこう返してきた。
「そんなに中国が好きなのか?」
投げかけられたのは難しい問だった。参ったな。
アフリカで出国する時に審査官からストレートな声掛けをされることはある。
「どーしてお前はエジプトに3日間しか滞在しなかったのか。もっと見ていけ」
「君はタンザニアが好きか?」
などだ。
彼女の問にどう答えたのか、もう覚えていない。
中国を旅するといつも大抵1回は騙されたり、盗られたりする。けど、それはこちらのリスク意識の問題でもあり他の国を旅するのでも同じこと。でも、それ以上に中国では親切な人に助けられることの方がよほど多い。
中国はあまりに広いので1度旅しただけではおよそ中国を知った事にはならない。それは初めて中国を訪れた福建省で抱いた気持ちでもあった。
都市部に人が溢れているし、四川省・九塞溝のような自然もテラコッタ(兵馬俑)のような遺構も桁違いにデカい。何度か旅を重ねることで自分にとっての隣国・中国像ができてくればいいと考えていた。日本でも都道府県ごとに県民性がある。況してや巨大な中国だと省ごとのイメージが相応しいのかも知れない。
【註】ガイド嬢が日本に怒っていたのは一般的な反日感情なのか、長安(現在の陝西省西安)に関わる具体的な史実なのか、分からない。具体的な事実としては2つ考えられる。
1つ考えられるのは、「聖地」延安のこと。陝西省北部の延安は共産党軍が長征(1934~1936)の末に辿り着いた場所で、1947年までここを本拠として日本軍や国民党軍と戦っていること。もう1つは、長征の途上1936年12月、張学良が蒋介石に内戦停止と一致抗日を迫る西安事件が起きていること。
(2)テラコッタの溶けるTシャツ
秦(紀元前200年頃)始皇帝の兵馬俑(テラコッタ)の規模はあまりに大きい。1号館は観覧席付きの50mプールが3つ納まるくらいの広さだった。地下に埋まっていた秦の始皇帝の墓が掘り返されており、観光客は一段高いところから見学していく。
やはり世界遺産クラスのモノは現場に行ってみるにしくはない。九塞溝も尾瀬くらいのものかと思っていたが、実際に歩いてみるととんでもなく広いし標高差もあった。とにかく遺構を覆う建物も巨大だが、個々の俑(=像)が巨大なのだ。おそらく等身大くらいの無数の像が、2000年ほど地面に埋まっていたわけだ。しかも、兵士の顔はイカツイし、鎧も精緻に造られている。ザックリ1列に兵士の像が4体、15隊列くらい並んでいると怖い。馬もリアルなもので、日本の古墳に副葬されている埴輪がなんだかオモチャのように感じてしまう。
ただ、全てが完全な形で発掘されたわけではないので、1/3は補修中、1/3は破片を集めて復元している様子だった。補修中の俑を見ると、首がスポッと嵌めこみ式になっているのが分かる。今は火事で脱色したのでモノトーンだが、作られた当初はカラフルな俑だったとか。確かに、日本の寺院で見かける木製の仁王像は木肌のままだが、子の権現(埼玉県飯能市)に登って見つけた仁王像が濃いめオレンジ色で塗られていてギョッとしたことを思い出した。
私は海外旅に出ると自分用の土産としてTシャツを買うようにしている。アフリカや一部のアジアではTシャツを売っていないのでどうしようもないが、他の国であれば大抵1~2枚を買ってくる。洗濯の手間を考えて日本から持参する服は少なめに抑えて、旅の後半では現地のTシャツを着ていることが多い。
西安では兵馬俑デザインのTシャツを買い求めた。ただ、中国製のTシャツにはいささか問題がある。溶けるのだ。デザインも良くて色合いもいいのだが、洗濯するとプリント柄が明らかに薄くなる。2000年の間ずっと地面に眠っていた兵馬俑の絵柄が、古墳に描かれている壁画のように2~3回ほど洗うだけで悲しいほど掠れていく。西安だけでなく、他にも青島のビール工場で買ったTシャツが同じ運命だった。2回も罠にハマったわけだ。
博物館を出て、カナダ人たちはランチで食堂に入る。私はまだ砂嵐トラブルが続いていて食欲がなく、食堂街をウロウロ。そこでとんでもない漢字を見つけた。
うかんむりから始まってその下に二層で見覚えのある漢字のパーツがウヨウヨして、最後はしんにょうに乗せて終わる。1つ1つの部首は分かるのだけどそれが混然一体となって1つに漢字に納まるとなんとも不気味な、お化けじみた文字だった。
一体なんなの?
「ミャンだよ」
食堂のオバちゃんに聞いてみると麺料理だと教えてくれる。中国4000年の歴史は食文化においてもそれだけ深いってこと。
試食してみたかったけど、そうもいかない。私は猫舌で熱いものがとにかく苦手。とりわけ汁物は苦手なのだ。ひと冬に1度くらいラーメンが食べたくなる時がある。そんな時も、コップに入っている氷を2~3個ほどスープに浮かせて冷えるまで待つ。そのあとでフーフーしながら食べている。さもなくば、小皿をもらって少しずつよそって食べるようにしている。そうでもしないと口蓋をヤケドするし、そもそも熱さで味が分からないのだ。仮に食べ終わったとしても汗びっしょりでハンカチ1枚が濡れてしまう。
確かに牛肉麺(ニューローミェン)が美味しいことは知っている。ただ、国内においても汗っかきなことで十分に困っているので、ましてや海外ではなるべく控えることにしているのだ。
<西安名物「みゃん」、湘子門青年旅舎>
【註】私はこの麺料理を「みゃん」と聞き取ったが、後日TVで見たところでは「びゃん」と発音していた。麺を両手でしなるように伸ばしていく時に「びゃん」と鳴るのだとか。「鬱」ですら27画なのに、この文字はなんと57画もあるとか。これでは普通のフォントで打つと真っ黒になってしまうのではないか。
(3)石器時代の半坡村
もう1ヶ所、半坡村の博物館を訪ねた。
6000年前の遺跡があると言われてもピンと来なかった。彼らも土器に絵柄を入れており、時代が経つのに応じて魚のデザインがシンプルになり、面を削るようにと進化していた。この辺りは今もアフリカに残る模様を想起した。
この6000年前とは中国の殷王朝よりさらに古い時代を意味している。秦の始皇帝に由来する兵馬俑は紀元前200年頃のものだ。それ以前に古代王朝は殷(BC16~BC11)と商(BC11~前256)が成立しているので、6000年前とはさらに4000年昔のことになる。幻の夏王朝より古いだろう。
実は、この歴史感覚をつい最近になって中国史を読むまで理解できていなかった。中国の歴史を紐解くとその冒頭に出てくるのが新石器時代で、黄河上中流域の仰韶文化、長江下流の河姆渡文化、遼河流域で紅山文化が多元的に発生してきたのだと言う。凡そその時代の遺構だと考えてよい。
実は、2026年にNHK-BSで「中国・謎の巨大遺跡」なる番組を放送していた。場所は陝西省で西安から40kmほど北上した石峁村(せきぼうむら、「峁」は山かんむりに卯)。そこで、夏王朝よりも古い4000年ほど前のピラミッド状の階段跡が見つかった。壁の長さ16kmに及ぶ400万平方メートルの城跡が見つかったと言うのだ。元々この村では玉が出土するとの噂が以前よりあった。玉は勾玉のようなものではなく、平板な形状をしており、それを城壁に埋め込むことで強度を増していた。映像を見る限り平らな土地ではなく、凹凸のあるハッキリした起伏を繰り返す黄土高原において水や食料を確保できていたのだろうか、まずは文明が栄えていたことに違和感があった。
この番組でもう1つ驚いたことは、中国らしからぬデザインの金属製の飾り。素人目には南米のマヤ・インカ文明のもののように見えた。ニューカレドニアなど南太平洋の島々を旅した折に、この手の図柄をあしらったTシャツを買ってきたことがある。番組ではアルタイ(遊牧民)の彫像に似たものがあり、長江流域にも同じようなものが発見されているとか。案外、むかしの人のデザインセンスは世界共通のものだったのかも知れない。
昔の長安は東方との接触もあっただろうが、秦や前漢は中原の勢力から関中を守るために函谷関を設けていた。むしろ、シルクロードを通じて西側内陸部との交流が相対的に多かったのではないかと想像される。また、秦の始皇帝自身も北方民族・羌(チャン)族の出身だとの説がある。そう考えると、4000年前に陝西省で巨大な城があったとしてもおかしくないのだろう。
この半日ツアーでは華清池も回るはずだったが、兵馬俑を出るとそのままホテルに戻ってきてしまった。どこでどうズレたんだか分からないが、違うツアーに参加してしまったようだ。ツアー会社もいい加減なものだ。体調が悪いので観光どころではなかったしまあいい。今日はもう休もう。
(4)四方を囲むブ厚い城壁
泊まっていた宿は城壁の内側、湘子廟の近くにある青年旅舎で明代の建物を利用していた。門は石壁、建物内は木を多用した吹き抜けの空間になっており歴史的なものだった。
折角、いにしえの都・長安に来たのだから、体調が悪いと嘆いてばかりもいられない。鼻水をすすりながら、南側の永寧門から城壁に登ってみる。ここは隋唐時代のものではなく、明代に整備された城壁である。かつては土塁で築かれていたものが、明代には規模こそ小さくなれど分厚いレンガ積みへ進化している。
城壁の上はコンクリートK何かで均されてため、自転車で走っている人、カートを曳いている人もいた。城壁は通常のビルの3~4階くらいの高さがあり、しかも城壁の上が厚い。北京郊外で歩いた万里の頂上より精緻な石組みで幅も広くて頑丈。地面を平らに均してあったので散策するには絶好の場所だった。四方の城壁はどこまで伸びているのか、一瞥するには巨大な構築物だった。
微妙に外壁の方が盛り上がっていることに気付いた。敵の襲来に備えて身を守りながら弓や槍で攻撃できる構造になっていたのだろうか。日本の城郭でいうと城壁や櫓の土塀に開けられた小さな穴(狭間)のような存在もあったのではないか。長安城の壁は堅牢で分厚いのでくり抜くことはできいないので、上から対抗したのだと想像してみた。
<日中の都の規模感を比較してみると>

唐の長安城は東西10km、南北9km四方の広大なもので、中央に設けられた朱雀大路は幅127mもあり、天の川に見立てた水路と交差するように作られていたという。唐代の城壁は明代に再建され現存しているものの約7倍の規模であり、日本の平城京、平安京と比べてもけた外れに巨大なものだと分かる。現存する城壁でも、ザックリ計算すると12平方kmはあるのでザックリ見渡すことはできない。
また、往時はメインロードである朱雀大路のほかに皇帝が城外に遠征する場合に通れるように、都の脇には人目にふれないように覆われた状態で幅23mの専用通路が整備されており、車輪幅1.6mの轍の跡が残っている。城壁の外には、皇帝、宮人、宦官、平民に分けて各方向が墓地になっていたとか。
内部には2つのマーケットがあり、東市には製造業が7万軒、西市はシルクロード系で柘榴やスイカが並んでいた。唐の皇帝が文化的な交流を求めていた往時は、ここに漢人、北方民族、胡人(イランなど西方の民族たち)、吐蕃などが鴻臚寺などに住まい、インターナショナルな交流があったのだ。日本だと遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂、吉備真備などが有名だ。
唐の都・長安の碁盤の目構造は日本の平城京にも取り入れられている。数学の某先生が平安京は正規直交座標、江戸は極座標と表現していたのを思い出す。
前者は都市の計画性があって、タテヨコの座標を指定すれば住所管理が容易だ。他方で、後者はらせん状に郊外を巻き込みながら徐々に発展していくので人口が急拡大した江戸には適していた。ちなみに徳川家康の関東移封が決まった頃は茅葺き町屋が100軒くらいだった江戸が、家康の晩期1614年には人口15万人、17世紀末には35万人に拡大していった。諸藩大名の上屋敷・下屋敷を整備するなど拡張性を得られたのはその回転しながら広がっていく設計思想ゆえだろう。
話を長安に戻そう。城の外側は墓地と位置付けられており、例えば北側は皇帝一族を祀る場所、東側には宦官墓などとそれぞれ決められていた。集団墓地が発掘されており、凸型をした墓地跡が無数にあり平民1人ずつに固有の墓地が与えられていたようだ。凸型は階段を付けていたのか、特徴的な形だ。既に700体以上が発掘されていて、副葬品としは歯ブラシなどが発掘されている。
城壁の内外で用途を明確に区別していたことになる。出口治明の「仕事に効く教養としての『世界史』Ⅱ」を参照すると、城内でも更に細かく区切られたエリア毎に施錠されていたようだ。
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長安は、城壁都市で、市内の各区画も城壁で固められていました。そして夜になると市門は閉じられ、出入りは不可能でした。……(中略)……全体としては暗い町だったのです。
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街の雰囲気は唐宋変革を経た次の都、開封だと地理的な変化もあって対照的な表現になっているのが面白い。開放的な雰囲気が伝わってくる。
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運河に向かって開かれている都だったので、夜になっても出入りが自由でした。……(中略)……茶館が立ち並び、娯楽が市民に広く浸透し、講談や芝居、大道芸人たちに人気が集まっていました。
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<長安の城壁に登って、酢を垂らすように勧められた西紅柿鶏蛋面(トマト入り掻き卵麺)>
翌日は身動き取れない状態だったので、西安観光はもうこれで打ち切るほかなかった。少しでもラクな環境を得たく5つ星ホテルに移動して終日、部屋に籠っていた。いつもなら海外での1日はあっという間に過ぎていくのだが、何もしないでただただ浅い呼吸を続けているといつまで経っても時間が進まない。鼻ものども炎症が起きていて、血が混じった黄色い痰まで出てきた。億劫に思いながらも、何度も時計を見ては時が進むのをジリジリと待っていた。こんな悲惨な海外旅は初めて。
その次の日は空港近くのホテルに移動した。最初に入った部屋では濁った空気が籠っているように感じて息苦しい。このままこの部屋で1日療養するのはどうみても無理だった。キャンセルして近くのホテルに移動。まあ、丸2日ほど何も行動できない西安ステイになってしまった。ワゴン車の中でカナダ人女性に「明日は華山に行く」と言ったもののとてもそんな状態ではなかった。市内には雰囲気のよさそうな赤提灯が灯っている木造の建物群が並ぶ一角があって気になっていたのだが、とてもそこまでは探索する元気は残っていなかった。ホテルの部屋でNHKが映ったので朝ドラ「梅ちゃん先生」や「鶴瓶の家族に乾杯」の再放送をボーッと眺めていた。と言うか、もうそれで精一杯だったのだ。ただただ早く上海便に乗りたい、なんとか我慢して帰国便に繋ぎたい、もうそれしか考えることができなかった。
そんな訳で、西安と言えば城壁の上で深呼吸したときに見た高層ビルと城壁が同居しているアンバランスな空間で眺めたくすんだ空の色のまま、旅は終わってしまった。四川省の旅でもいつもどんよりした空模様が続いていたが、さらに北に位置する陝西省も春先には同じようなものだった。
5.シルクロード旅の反省会
反省会とか復習は旅に似合わないが、ちょっとした後日談を書いておく。
(1)精神年齢と肉体年齢
憧れの砂漠巡り、しかも各国の砂丘を歩いてきて初めての体調不良だった。まさかこんな顛末になるのは想定外だった。
確かに日本では春先、3月頃から黄砂がやってくる。砂の粒子と一緒にpm2.5なる汚染物質も舞ってくる。その本場を旅するとこういう事態になるのだと思い知った。観光パンフレットでは、快晴のもとで砂丘の滑らかな曲線とラクダの隊商がゆっくりと進んでいたけど、およそとんでもないシルクロードの旅だった。
気象庁のデータ(1991~2000年)によると月別の黄砂飛来日数は3,4,5月が順に4.4日、6.2日、2.7日で突出している。シーズン初めの2月を除けば他の月は0~0.4日に納まっているから、いかにこの季節に限られたもので、私はそのピークに砂が舞い上がる強風地帯に身を置いたわけだ。
髪の毛 : 約70μm
スギ花粉: 約30μm
黄砂 : 約4μm
PM2.5 : 2.5μm以下
黄砂はPM2.5(微小粒子状物質)と同様に粒子が細かいので、一旦吸い込んでしまえばスギ花粉よりも気道(鼻腔や気管支)に溜まりやすい。4μmは小数点で表記すると0.04mmなので、もうどれだけ吸い込んだか分からない。
ヤルダンと鳴沙山の凄まじい砂嵐の被害は帰国して直ぐに治まったわけではなかった。帰国後もズルズルと1ヶ月近くに亘って、のどと鼻の不調が続くことになったのだ。耳鼻科に通院しても「鼻の中がひどい炎症を起こしている」と云われて何度も洗浄してもらった。のどの炎症も同様で、内科医から「よくこの状態で帰ってこられたね」と苦笑されたほどだ。内科と耳鼻科に交互に通院する悲惨な日々が1ヶ月近く続いた。
GWを使って旅してきたばかりなので、体調不良を理由に会社をパカパカ休むことは心理的に憚られる。出社して自分のデスクでPCを立ち上げていても頭は完全に停止していて、使い物にならなかった。
耳鼻科の年配の医師からこっぴどく叱られたことも追い打ちをかけてきた。
「あんたね、自分のこと若いと思っているでしょ。自分の年齢は冷静に考えなければダメだよ。仮に50才だとして気持ちは7掛けの35才のつもりでも体は正直なもの。身体機能は確実に衰えているんだから、50才はやっぱり50才なんだよ」
反論したい気持ちはあってもくしゃみと鼻水でモゾモゾが止まらない。何も言い返せないのが悔しかった。
【註】当時の私はまだ40代だった。
(2)シルクロードの実像とは
これまで私の海外旅では形あるモノを追う事が殆どだった。中国旅であれば、住居(客家の土楼)、大自然(九塞溝)、屋根付き橋(陽程風雨橋)などである。そのどれもがいい旅だった。このシルクロード旅も印象深いものとなったことはホントなのだが、シルクロードと云うフワッとした言葉に釣られて旅してしまったことが反省点である。印象操作されていた訳でもないが、旅の途中でずっとあのテーマ曲が通奏低音のように頭の中をたゆたっていた。シルクロードそのものが広大だ。いつも「出たとこ勝負」な緩い旅を好む私としても甘かったと言うべきだろう。シルクロードに関して言えばイメージ先行で現地に向かうのではなく、もっと計画性がある旅をすべきだったのかも知れない。
まあ、もう1つ言うとすれば黄砂のヒドイ時期をキチンと調べておくべきだったかも。この点はこれからシルクロードを旅する人に対して声を大にして伝えてきたい。
後年、出口治明氏の本を読んでいて、シルクロードについてショッキングなことを知った。
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実際にローマと正倉院をつないでいたのはシルクロードではなく、草原の道であり海の道であったと思います。
おもに運ばれた商品は人間でした。馬とかラクダの背に乗せて運ぶものの中では、一番運びやすく価値があったのです。たとえば中央アジアの白人の女性を、中国に連れていって、酒場や豪族に売ったのです。長安には、異国情緒あふれる社交クラブがたくさんありました。ですから、夢を壊すような話ですが、シルクロードでもっとも重要だったのは、奴隷貿易でした。ユーラシアの交易は、豊かな東から貧しい西へという太い流れが、長い間続きました。
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※出典「仕事に効く教養としての『世界史』」
思えば、ステップの道、海上ルートも言葉としては聞いたことがあったけど、その違いを調べようなどと思ったこともなかった。シルクロードは主に人の往来に利用されてきたのか。あられもない内容だが、確かに理にかなっている。なんだか肩の力がシュンと抜けてしまった。
してみると、NHKの郷愁を誘うあの音楽は何だったのだろう。であれば異国情緒あふれる名曲・久保田早紀の「異邦人」の方が長安の街にあっているんじゃないかと思うのだった。奈良で見た加彩胡人の像、NHK番組「よみがえる長安」に出てきたソグド人のいかつい顔つき、これらとマッチするのはこっちの曲なんだろうな。
(3)2冊目のノートに書き足したこと
普段は日記を書いていない。ただ、海外旅に出る時は必ず薄いノートをザックに入れておき、日記をつけるようにしている。そのお陰で2012年の旅を14年も経過した今になってもなんとか文章に落とし込めるのだ。
ただ、このシルクロード旅では1冊で収まらなくなり、帰国後にもう1冊買い足してグルグルといろんなことを書いていった。
人間追いつめられると真剣に考える。真剣に考えざる得なくなる。いつもズルズルで生きているのに、この時はガーっとノートに書き殴っていた。旅のことばかりじゃない、なぜにサラリーマンを続けているんだろうと考えてはいけない疑問が頭に浮かんだのもこの時が初めてだった(かも)。微分できないような不連続な状況に置かれると、考え着くこともいつもよりポンと跳ねていくのが面白かった。
2冊目のノートに「こうありたい」と思うことを繰り返し文字にしていると、それが自分自身に制約を科すようになってきた。勿論いい方向に対してのものだ。直ぐに思い通りにいかないとしても、将来的に方向づけし直す機会を得た、そんな旅でもあった。
以上
この旅では2012年当時の概算レート(1RMB=12円)を用いて記載している。また、「彩絵胡人牽駱俑」のみNHK-BSの映像を使わせて頂いた。











